北条氏康相模の獅子

北条氏康

北条氏康

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人物記
名前
北条氏康(1515年〜1571年)
出生地
神奈川県
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小田原城

小田原城

あまたの大名が争った戦国時代の中頃。東日本では越後の上杉謙信や甲斐の武田信玄、或いは駿河の今川義元などが覇を競っていました。そしてこれらの大名に対等に渡り合った大名が伊豆にいます、北条氏康です。氏康は新興勢力である北条家を率いながら、領国安定の為の民政に力をいれつつ、勢力を伸ばさんとしていました。そこで今回は関東の雄、北条氏康について見ていきたいと思います。

(後)北条氏とは?

そもそも北条氏康を出した北条氏。北条氏、或いは後北条氏は氏康の祖父、北条早雲を祖としています。近年の研究で北条早雲は政所執事(室町幕府の訴訟を担当する役)伊勢氏の支流、備中伊勢氏に生まれた伊勢新九郎盛時(伊勢宗瑞)と言われています。9代将軍足利義尚の申し次(窓口)や奉公衆を勤めていましたが、姉の嫁ぎ先である今川家に内紛が起こるとその調停などで都と関東とを行き来をするようになりました。ところが一説に、借金問題で京に居づらくなり東国に下ったとも言われています。そして興国寺城を中心に伊豆の国人を従え、次第に周囲の領地を切り取っていくようになりました。

北条氏康の父、早雲(伊勢新九郎)の嫡男である北条氏綱のころから伊勢氏から北条氏に姓を変えるようになります。これは京から下って来た伊勢新九郎を、関東武者たちが異端視した事から鎌倉幕府執権の北条氏にあやかり改姓したと言われています(改姓の理由については諸説あり)。

こうして京の幕府に仕えていた伊勢氏の庶流が関東に下り、北条氏へとなりました。なお現代では鎌倉幕府の執権北条氏と区別する為、後北条氏とも呼ばれています。

誕生から家督相続

永正12年(1515)、北条氏康は北条氏綱の嫡男として生まれます。まだこの頃は北条姓が定着していないので従来の伊勢姓を用い伊勢伊豆千代丸と呼ばれました。3歳の頃に伊勢宗瑞(北条早雲)から太刀などを授けられ後継者として目されるようになります。

15歳の頃に元服、この時から氏康も北条姓を使うようになりました。初陣は享禄3年(1530)、扇谷上杉家の当主上杉朝興と戦い大勝しています。

天文10年(1541)、氏康が25歳ごろに父の氏綱が死去。これに伴い北条家の当主となります。この当主となった当時、北条家は相模、伊豆(現在の神奈川県)の他、武蔵国の一部などを支配下に置いていました。西を向けば、駿河の今川家や甲斐の武田家、東を向けば関東平野を拠点とする山内、扇谷の両上杉家などと隣接しています。新興勢力の北条氏康はこれら勢力と攻防を繰り返していきます。

室町時代の関東

さて、北条氏康が生まれた伊豆地方。伊豆地方も含めた関東は室町時代、幕府を興した足利尊氏が4男の足利基氏を鎌倉公方(当時の名称は鎌倉殿など)とし関東の統治を任せました。基氏の子孫は代々鎌倉公方を世襲し関東10ヶ国(相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、伊豆、甲斐)を治めるようになります。
さらに鎌倉公方は拠点を鎌倉から古河に移し、古河公方とも呼ばれるようになりました。

この鎌倉公方を補佐したのが関東管領です。関東管領は上杉家が世襲するようになりました。鎌倉公方は代を重ねるごとに室町幕府と対立するようになり、更に補佐をしてもらっているはずの関東管領の上杉家とも対立するようになった事から次第に力を失います。

関東管領の上杉家も嫡流から扇谷上杉家が分かれ南関東に勢力を伸ばします。反対に上杉家の嫡流は鎌倉の山内に居を構えた事から山内上杉家となります。

この山内上杉家の上杉憲実は新興勢力の北条家を危険視します。度々北条家の侵攻を受け、内部分裂した扇谷上杉家と和解し北条家に対処する事を考えました。

河越夜戦

天文14年(1545)、北条氏康は西の隣国、駿河(現在の静岡県)の今川義元と争っていました。今川側から和解の提案を受けましたが、氏康を拒否します。すると今川義元は北条家の東に位置する関東管領の山内上杉憲政などと連携し東西から北条家を圧迫する事を画策しました。

最初に今川家が西側から北条家に侵攻します。氏康は大急ぎで西の今川に対処すべく急行します。
すると今度は東側から関東の山内、扇谷上杉を中心とした大軍が侵攻してきます。山内上杉を中心とした関東の軍は義弟北条綱成が守る川越城を囲みました。

北条氏康は東西から攻められ絶体絶命の危機に陥ります。氏康はここで事態の解決を模索しました。まず西側の今川家の問題を解決するよう動きます。甲斐の武田家に仲裁を頼み、一部領地を割譲することで今川家と和睦にこじつけました。

西側に位置する今川家の問題は解決しましたが、東側は悪化の一途をたどっていました。川越城を包囲している山内上杉氏は、関東の他の大名にも声を掛け連合軍を形成します。それまでは北条と協調してきた大名までもが連合軍の側につき、連合軍の兵は8万にまで膨れ上がります。8万の連合軍に包囲され、河越城は約半年に渡って耐えました。

今川家と和睦した氏康は、包囲されている川越城へと向かいます。しかし北条家の軍はかき集めても1万ほどでした。
この兵力差です。城を囲んでいる連合軍は自らが大軍であるという事におごっていました。そこで氏康は城を囲んでいる連合軍に和睦の提案を行い、連合軍の油断を誘います。翌天文15年(1546年)の事です。

氏康は川越城の内部と連携して、連合軍に夜襲をかけました。和睦の直前であった連合軍は油断し、北条軍の夜襲で崩壊しました。1万が8万の大軍に勝ったのです。この勝利から氏康は関東平野へ巻き返しを図っていきました。

この北条氏康の戦いは「川越夜戦」と呼ばれ少数の軍が大軍を破った稀有な例に挙げられました。毛利元就の「厳島の戦い」、織田信長の「桶狭間の戦い」と並んで「日本三大奇襲」(日本三大夜戦)に挙げられています。

関東の攻防から甲相駿三国同盟へ

周囲を敵に囲まれ、河越夜戦の奇襲で危機を乗り越えた北条氏康。氏康は危機を脱すると東の関東への巻き返しを図ります。

天文19年(1550)から関東管領の山内上杉家攻略を開始します。
天文21年(1552年)になると支えきれなくなった上杉憲実は長尾景虎の支援を得る為、武蔵国北部(現在の埼玉県)にまで退きました。さらに下野国(現在の栃木県)、房総半島(現在の千葉県)にも進出し着々と東へと拡大していきます。

さて北条家が拠点を置く小田原。小田原の西側はどうなったのでしょう。西に位置する今川家とは川越夜戦の直前、和睦を行いました。ところが北条氏康と今川義元とは互いに疑心暗鬼に陥り落ち着きませんでした。
この当時、氏康が織田信秀(織田信長の父)に宛てた手紙の返書に「一和(和睦)がなったというのに、彼国(今川家)からの疑心が止まないので迷惑している」と書いて嘆いています。

ところが転機が訪れます。天文20年(1551)頃、北条・武田・今川家の婚姻交渉を進め、姻戚として同盟関係を築く兆しが出始めました、そして。

  • 北条氏康の娘と今川氏真(今川義元長男)の婚姻を。
  • 今川義元の娘と武田義信(武田信玄長男)の婚姻を。
  • 武田信玄の娘と北条氏政(北条氏康長男)の婚姻を。

北条、今川、武田は互いに婚姻関係を結ぶ事で同盟関係となりました。こうして西側の脅威が無くなり、かつ同盟関係となった武田家との協力もあり北条氏康は関東攻略に専念できるようになりました。

上杉謙信の侵攻

北条家の西、駿河の今川家や甲斐の武田家と三国同盟で固めた北条氏康。
ところが再び、西側の関東で事態が進展します。関東管領の上杉憲実が越後国(現在の新潟県)に長尾景虎を頼り移ります。そして長尾景虎を上杉家の養子としました、後の上杉謙信です。

北条氏康は永禄2年(1559)、息子の北条氏政に家督を譲って隠居しました。これは「永禄の飢饉」という大飢饉が発生していたため、代替わりによる徳政令の実施を目的とした為です。関東は飢饉により戦どころではありませんでした。

そんな中、永禄3年(1560)上杉景虎は上杉憲実を擁し関東へ進出します。越後国から上野国(現在の群馬県)へ入ると次々と北条方の城を落しました。上杉家の下に続々と関東の大名、国人、或いは関東外の佐竹家などが北条討伐に集まってきます。

そして永禄4年(1561)3月、最終的に10万余りにまで膨れた上杉景虎率いる連合軍は北条氏康のいる相模にまで押し寄せ小田原城を包囲します。しかし小田原城の防衛は堅く、永禄の飢饉以後も続発していた飢饉の為に長期にわたる攻城が維持できず連合軍は解体していきます。

さらに氏康と同盟を結ぶ武田信玄が信濃国川中島に海津城を完成させ、越後国への侵攻の構えを見せます。本国の危機を感じた長尾景虎も小田原城から撤退、鎌倉鶴岡八幡宮において上杉憲実から関東管領職を譲り受けました、上杉景虎(上杉謙信)です。この直後、上杉景虎は信濃国へ進出した武田信玄と川中島で戦う事になります、第4次川中島の合戦です。

三国同盟の崩壊と武田信玄との戦い、そしてその最期

さて長尾景虎(上杉謙信)により侵攻を受けた北条氏康。氏康が関東で死闘を演じている同じ時期、尾張国(現在の愛知県)でも一つの戦いが行われていました、桶狭間の戦いです。
尾張国を進行した今川義元が織田信長により討たれた戦いです。これにより北条家、今川家、武田家で結んだ三国同盟も変わっていきます。

永禄11年(1568)、今川義元の亡くなった今川家は振るわなくなります。そこで従来の外交方針を転換させた武田信玄が今川家に侵攻しました、ここに三国同盟は終焉します。
北条氏康は娘婿の今川氏真から支援を求められ、北条氏政が武田家と対峙します。

ところが氏康は裏で今川家に侵攻していた三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康とも密約を結び、今川家の無くなった後の手も打ちました。北条家は武田家を退けた上で、東駿河を奪取します。

北条家は積極的な方針に転換しましたが、同時に武田家や上杉家、関東の反北条勢力を敵に回しました。そこで宿敵であった上杉家と永禄12年(1569)、上杉謙信と北条氏康とは越相同盟を結びます。こうして北条家は武田家との戦いに専念できましたが、北条家は振るわず駿河国での戦いは武田に押されました。
北条氏康の生涯はまさに甲斐の武田信玄、駿河の今川義元、越後の上杉謙信との死闘の連続でした。

そんな戦いが続く中、北条氏康は元亀元年(1570)夏頃から中風(脳溢血)の症状が出たと言われています。そして元亀2年10月3日、氏康は小田原城において死没しました、享年57。遺骸は金湯山早雲寺に埋葬されたと言われています。

内政家としての北条氏康

北条氏康が家督を継いだ当時、日本全国では天災が続いていました。天文8年(1539)に発生した大雨、洪水に加えイナゴの害も出た事から飢饉が生まれます。翌年にも大雨、洪水が発生した事から疫病も流行し全国規模の天災となりました、天文の飢饉(てんぶんのききん)です。

天文18年(1549)。関東で大規模な地震が発生ました。この時、被災した領民への対応が後手に回り、領国全域で村や田畑を放棄して大規模な逃散が起きます。

このように北条氏康は周囲の大名や国人と争う前に自らの領国経営を安定化させなければなりませんでした。そこで必要な時に臨時に徴収してきた譜役をやめ、税制改革を行います。貨幣の質にバラつきがあった事から貨幣制度を改革しました。

中心都市の小田原に全国から職人を呼び都市改革を行いその結果、小田原早川上水と呼ばれる上水道の整備も行っています。さらに氏康は検地を徹底し、軍役を一律に定めるなど内政基盤を整える事で対外的な抵抗力を付けようと腐心しました。

北条家と小田原城の発展

(後)北条家は上で述べてきた通り戦国期にだけ存在した新興勢力でした。
北条家の祖、伊勢新九郎(北条早雲)は室町幕府の申し次、或いは奉公衆として姉の嫁ぎ先である今川家の問題を解決しました。その縁で、伊豆国に近い興国寺城(現沼津市)を今川家から得ました。その後、東に位置する堀越公方を襲撃し(早雲の堀越公方襲撃事件も室町幕府からの指示とも考えられています)伊豆国に勢力を伸ばします。伊勢新九郎は興国寺城から韮山城へ拠点を移します。

そして大森氏を倒し小田原城を得ました。二代目の北条氏綱は韮山城から小田原城へ拠点を移します。
三代目の北条氏康は小田原城を拠点となる都市に整備しました。その成果が上で述べた小田原早川上水です。早川上水は早川から取水し飲料などに用いられました。室町時代後期の連歌師宗牧が天文14年(1545)に小田原に立ち寄った際に、早川上水は既にあったようで『東国紀行』中に記されています。この早川上水は日本最古の上水施設でした。

このように北条氏康は周囲と争うだけの大名ではなく、民生にも力をいれた偉大な大名でした。

葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。