細川政元戦国時代の口火を切った男
細川政元
日本の室町時代後期、俗に戦国時代と呼ばれる時代。戦国時代は応仁の乱から始まったと言われています。ところが厳密には応仁の乱が終わった後も足利将軍家には力がありました。ところが将軍の権威を落した人物がいました、細川政元です。政元は自分に都合の良い将軍を据えましたが、この事が幕府の権威を落し戦国時代の始まりとなったと言われます。今回はそんな細川政元を見ていきます。
細川政元の父は応仁の乱の東軍大将、祖父は西軍大将
細川政元は室町幕府の管領に就く三つの家、斯波家、畠山家、細川家の「三管領」のうち細川家の宗家、細川吉兆家に生まれます。父は応仁の乱の東軍大将であった細川勝元。
母は勝元の正室、山名熙貴の娘です。
母の父、山名熙貴は室町幕府6代将軍足利義教の殺された嘉吉の乱に同席し巻き込まれ亡くなりました。そこで山名家の棟梁、山名宗全は亡くなった熙貴の娘を養女とした上で細川勝元に嫁がせます。山名宗全は応仁の乱で西軍の大将になった大名です。
つまり細川政元の父は、応仁の乱で東軍の大将となった細川勝元。母は応仁の乱の西軍大将となった山名宗全の養女であり、政元から見ると宗全は義理の祖父となります。
そして父と祖父とが戦った応仁の乱。この応仁の乱を境に室町時代の日本は乱れに乱れ戦国時代に入ったと言われていました。しかし厳密には成長した細川政元が戦国時代の口火を切る事になります。
応仁の乱と家督相続
細川政元は文正元年(1466)、細川吉兆家当主である細川勝元の長男として生まれます。幼名は聡明丸と言い、父の勝元は政元に大きな期待を寄せていました。
ところが生まれた翌年、応仁の乱が勃発します。応仁の乱は各地の大名家の御家騒動に端を発し、東軍と西軍とに分かれ京都で戦いました。
そして戦い半ばの文明5年(1473)5月、父である細川勝元が病死、同じ年に山名宗全も病死してしまいます。
細川勝元の後を受けて、細川政元は丹波、摂津、土佐国の守護大名の地位と細川吉兆家を継ぎます、政元8歳の時です。幼少であった政元は、細川家支流の典厩家当主細川政国に支えられ舵取りを行いました。
文明6年(1474)4月3日、西軍方の山名政豊(山名宗全の孫)と和睦し、応仁の乱は一応の決着を見ます。ただし戦い自体は完全には終息しておらず、応仁の乱の終結は文明9年(1477)と言われています。
文明10年(1478)に13歳で元服、室町幕府8代将軍足利義政の一字を貰い受けて政元と名乗るようになりました。
ところが元服した翌年の事です。丹波国守護代である内藤元貞は一宮氏の年貢免除を認めず、一宮氏の30人ほどを討ちました。そこで一宮宮内大輔は細川政元を拉致して、一揆を起こします。一宮氏の一門である一宮賢長が一宮宮内大輔を討つ事で一揆を沈めましたが、細川政元は4ヶ月の間ほど幽閉されました。
9代将軍義尚と六角家討伐
さて8代将軍足利義政は将軍職を自らの子に禅譲します。義政と正室日野富子との間に生まれた足利義尚です。こうして将軍職は9代将軍足利義尚へと移りました。細川政元は管領に任じられましたが、将軍就任の儀礼が終わると辞職(在職9日)しています。
ところで京都の東隣り、南近江に六角高頼という守護大名がいました。六角高頼は応仁の乱の後、不安定な時勢を観て自らの勢力強化を目論みます。寺社や公家の荘園を強引に横領し自らを支える国人衆に分け与える事で支持基盤の強化を図りました。
将軍足利義尚は六角高頼の討伐を決意し、政元にのみ内意を告げ、両者は極秘のうちに出陣の準備を進めます。まだこの時点では将軍の権威は衰えていなかったので2万以上の兵が将軍の下に集まりました。六角高頼は自らの不利を悟り居城であった観音寺城を捨て甲賀の地に隠れ、抵抗します。この為、義尚は1年半という期間を近江の陣で過ごさなければならず次第に政治への関心も失っていきました。
そして在陣中の長享3年(1489)、9代将軍足利義尚は近江国で病死しました。在位自体は15年ほどでしたが、25歳の若さでした。
10代将軍義材と日野富子
9代将軍足利義尚は病で亡くなりましたので、次期将軍を決めなければなりません。
ここまでの足利将軍を少しおさらいします。
- 6代将軍足利義教 3代将軍足利義満の5男で嘉吉の乱において暗殺
- 7代将軍足利義勝 6代将軍足利義教の長男でしたが在位2年ほどで夭折
- 8代将軍足利義政 6代将軍足利義教の次男で応仁の乱の時代の将軍
- 9代将軍足利義尚 8代将軍足利義政の長男。25歳で病死
足利義尚には後継となる子がいなかったので足利義政の血脈はここで途絶えます。しかし義政には弟達がいました。
6代将軍足利義教の3男足利義視…本来であれば9代義尚が成人するまで繋ぎの将軍となるはずだった人物。或いは応仁の乱の原因の一端を作ったとも言われています。
6代将軍足利義教の4男足利政知…足利尊氏が造った関東を統べる機関、鎌倉公方となるべく関東に下向したが混乱から入れず、後に堀越公方の祖となった人物。
8代足利義政にはこの二人の弟がいたので、どちらかの家系から将軍が選ばれる事になりました。細川政元は堀越公方と呼ばれた足利政知の子で、京都で僧となっていた足利義澄を推します。
8代足利義政と正室で政治にも関与していた日野富子は、足利義視と日野富子の妹良子との間に出来た義稙を推します。この義稙を三管領の一つ、畠山家の畠山政長も支持したので将軍は足利義稙と決まりました。10代将軍足利義稙です。
この義稙を選ぶ直前、8代足利義政も病死してしまいます。義稙は畠山政長や父である足利義視に支えられ政権を運営し始めます。ところが幕府内では畠山政長と足利義視との権勢が増大します。更に義視が亡くなると畠山政長が幕府の権力を独占するようになりました。
これを快く思わなかったのが、最初に義稙を推した日野富子です。日野富子は夫である足利義政が政治への関心を無くした後に政治を司っていました。そして夫義政の弟義視と妹日野良子との間に出来た義稙を推す事で政権を安定させようとしましたが、次第に幕府から遠ざけられます。
この間、足利義澄を推していた細川政元自身は幕府と距離を置いていました。
修験道と家督問題
さて細川吉兆家の棟梁として政治を行い、足利義稙が将軍に就くと幕府と距離を置いた細川政元。パブリックな面としての政治家の側面を見てきましたが、プライベートな面も特徴がありました。それは山伏信仰を信じ、修験道の修行を行い、愛宕の法やいたこ等を習う為に諸国を放浪するという特徴です。これは人外の力を信じていた、とも見られています。反面で諸国を渡り歩く修験者が持っていた独自の知識を活用する為に信仰に打ち込んだ、とも言われています。
兎に角も山伏信仰などを強く信じていた政元は生涯、信仰の為に女性を近づけなかったと言われています。つまり細川吉兆家の跡取りは生まれません。
そこで足利義稙が将軍に就いた同じ年、九条政基の末子を養子として迎えます、細川澄之です。この細川政元に跡取りが出来ず、養子を迎える事が後々に戦国時代へと突入する原因の1つとなってゆきます。
11代将軍義澄と明応の政変
10代将軍となった足利義稙。将軍に就任した義稙は自らの権威を高める為、軍事行動を起こす事を考えます。周辺の国人や義稙の勢力と敵対関係にある大名の討伐です。細川政元は近畿が不安定な状況の中で行われる討伐に反対し、参加しませんでした。
また先にも述べた通り、足利義稙が将軍に就いた事で不満に思っていた者もいました。日野富子です。この細川政元と日野富子、それに義稙に反発した大名が結託します。そして討伐の為に都を離れていた足利義稙を追い落とすべくクーデターを起こしました、「明応の政変」です。
明応2年(1493)4月22日夜、日野富子と細川政元は決起し、その日のうちに11代将軍足利義澄が誕生しました。日野富子と細川政元は、新将軍となった足利義澄の名の下に討伐軍に参加していた大名達の帰京を命令、動揺した大名達はこの命に従います。足利義稙の下に残ったのは管領であった畠山政長だけでした。
細川政元に擁立された11第将軍足利義澄は河内国で10代将軍足利義稙の勢力と大きく戦い、管領であった畠山政長は自害し、足利義稙は幽閉されます。
この「明応の政変」は、将軍が家臣(細川政元)の都合で挿げ替えられた乱でしたが、同時に室町幕府凋落の象徴、引いては戦国時代の幕開けとも考えられるようになりました。
実際、この11代将軍足利義澄から15代将軍足利義昭まで自力で、或いは室町幕府を支える大名などにより就任した将軍はおらず、大きな勢力を持つ大名に擁立されなければ将軍に就く事は出来なくなりました。
永世の錯乱と政元の最期
細川政元と日野富子が主導したクーデター「明応の政変」、将軍は11代将軍足利義澄となります。細川政元は新将軍である足利義澄と良好な関係とは言い難いですがそれなりに将軍を立て、細川政元主導で10年以上を過ごします。
この間、旧将軍であった足利義稙は幽閉先から京を脱出、殺された管領畠山政長の領地越中に逃れます。そこから将軍への返り咲きを画策。義稙は比叡山延暦寺を陣営に引き込む事に成功しましたが、細川政元は機制を制して延暦寺を焼き討ちにしました。
こうして廃した10代将軍足利義稙の対応をしながら、細川政元は着々と畿内の国人を取り込み自らの配下として力をつけていきました。
ところで細川政元は政治を行いながら(実際は方針を決めた後の実務を家臣の合議に任せながら)、修験道の修行などに没頭しています。
そして養子として迎えた九条家の細川澄之。細川政元は自らの跡継ぎに細川澄之を迎えましたが、細川氏以外から養子を迎えた事に後悔し始めました。そこで細川澄之には丹波国の守護大名に据えながら跡継ぎからは外し、阿波国の細川讃州家より細川澄元を迎えます。さらに細川家の支流である野洲家より細川高国も養子としました。結果、細川政元の養子は3人となります。
ところがこれに反発したのが最初の養子、細川澄之です。細川吉兆家の跡継ぎとして迎えられながら廃嫡された澄之は政元に恨みを抱きました。
そして永正4年(1507)澄之の家来である香西元長、薬師寺長忠と政元の警護役であった竹田孫七によって、細川政元は湯殿で行水をしていたところを襲われ暗殺されました(永世の錯乱)。細川政元、享年42。
日本のいたる所で一族同士がいがみ合い、それがもとで応仁の乱が起こりました。応仁の乱の後も日本全国の混乱は収まりませんでしたが、辛うじて京周辺は細川政元により規律が保たれていました。ところが政元は亡くなります。ここから日本は100年間収拾のつかない戦国時代へと突入しました。
両細川の乱と戦国時代の始まり
- 細川家のその後
- 細川政元は最初の養子、細川澄之により殺されました。ところがその澄之もまた2ヶ月後には自害に追い込まれます。
ここで残ったのが二人の養子、細川澄元と細川高国です。2人は細川家の家督を巡って将軍家も巻き込み20年以上も争います、「両細川の乱」です。最終的に細川高国は討たれ、細川澄元の子細川晴元が残りました。しかし晴元も家臣の三好長慶に追われ細川家は衰退しました。因みに、江戸時代の肥後国細川家の祖となった細川藤孝(藩祖細川忠興の父)、或いは藤孝の三男幸隆が細川家支流の細川上和泉守護家に養子として入ります。また肥後国細川家以外にも管領細川家の支流は各地の大名の家臣として永らえます。 - 足利将軍家
- 殺された細川政元に擁立された11代将軍足利義澄でしたが、周防の大名大内家の助けを借りた10代将軍足利義稙に追われ近江国六角家を頼り落ちます。京に返り咲いた10代将軍足利義稙は朝廷より将軍に再任されました。再任された将軍は日本史上足利義稙だけです。ここに二人の将軍が存在することになりました。
10代将軍足利義稙と11代将軍足利義澄です。京を追われ六角家を頼った11代将軍足利義澄でしたが、六角家にも不穏な空気が流れます。そこで足利義澄は自らの2人の息子を有力な大名に預けました。
長男の足利義晴は播磨国守護大名赤松義村、次男の義維は阿波国守護大名細川之持(細川澄元の兄)に預けます。
10代将軍足利義稙は最初こそ大内家の武力を背景に将軍に再任されていましたが、大内家が京から去ると没落します。そこで周囲から12代将軍に立てられたのが兄の足利義晴でした。ところが弟の義維はこれに納得が出来ず、義維を支持する大名と共に堺に政権を立て堺公方と呼ばれます。
12代将軍となった足利義晴でしたが、弟の義維と争い京を追われました。更に三好長慶と争うようになります。この12代将軍の子が13代将軍となる足利義輝であり15代将軍となる足利義昭でした。
反対に堺で政権を樹立した足利義維はその後、阿波国に逃れ阿波公方と呼ばれます。この義維の子が14代将軍となる足利義栄でした。室町幕府の将軍であった足利家は混乱を最後まで収拾できないまま、幕府の終焉を迎えます。
応仁の乱が起こって以降、あるいはその前後から日本の各地域では争いが絶えなくなりました。京は辛うじて幕府の支配が機能していましたが、細川政元が亡くなると細川家、足利家が入り乱れ京すらも混乱が続くようになりました、戦国時代の始まりです。関東では伊勢宗瑞(北条早雲)が独自の勢力として覇を唱え始めた時期に当たります。
後に中国地方の雄となる毛利元就は10歳、周防の大内家と山陰の尼子家に挟まれ苦労を強いられていました。
甲斐の虎と呼ばれた武田信玄が生まれるのは約15年後、織田信長が生まれるのは約25年後、次の幕府である江戸幕府が誕生するのが95年後。応仁の乱、明応の政変より日本は戦国時代へと突入していきました。
細川政元は愚者か天才
さて後世における細川政元の評価は、どうでしょうか。
クーデターを起こす事で自分に都合の良い将軍を据え権力を手中に収めました。その為に政元は「半将軍」というあだ名が付くほどの存在となりました。
反面で江戸時代に書かれた書物の中には「戦国三大愚人」として数えられています。この三大とは細川政元、今川氏真、大内義隆です。
大内義隆は周防を中心とした強国大内家の当主であり、大内家の全盛期を築いた大名でしたが文化振興に力を注ぐあまり、武断派であった陶晴賢に裏切られ大内家を衰退させます。
今川氏真は桶狭間の戦いで命を落とした今川義元の子で、父の仇を討てずに徳川家康に滅ぼされた今川家の当主でした。
そして細川政元です。政元は権力を掌握する事は出来ましたが前にも述べた通り、山岳信仰を尊び、修験道の修行に勤しみ、愛宕の法を信じました。この為、恐らく生涯において女人を近づけず跡継ぎを儲けませんでした。結果、養子とした細川澄之を中心とした家臣により暗殺されます。これが江戸時代の人には愚人として見られたようです。
単に細川政元が政治家として抜きんでた存在なら「半将軍」、趣味に勤しむ大名なら「愚人」と見られたかもしれません。ですがこの両方を併せ持ち、戦国時代の幕を開けた政元の評価は人それぞれの見方ではないでしょうか。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。