伊東祐兵(2/2)伊東氏中興の祖

伊東祐兵

伊東祐兵

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人物記
名前
伊東祐兵(1559年〜1600年)
出生地
宮崎県
関連する城
飫肥城

飫肥城

関係する事件

九州平定戦の功績で、日向国臼杵郡・宮崎郡・清武・諸県郡・肥後国の八代郡、鷹巣守(米良山)の内に合計2,024町余の土地を与えられ、河内丹南から移封されました。祐兵は曽井城を修復してこれを主城とします。同年8月、秀吉より飫肥城も賜り、翌16年(1588)5月、飫肥城に入って旧領回復。8月、宮崎郡、那珂郡の内にさらに1,736町の土地を加増されています。

文禄3年(1594)に2万8千石余の所領を開墾して3万6千石に石直しし、文禄検地により確定。同4年(1595)正月に朝鮮で鷹狩りをしていて大虎を追い出し、家臣が火縄銃で射止めて名護屋城に献じて秀吉より書を与えられました。

慶長5年(1600)の会津征伐、関ヶ原の戦いでは、祐兵は大坂の屋敷で病に伏していて加わっていません。
西軍は執拗に勧誘し、「詐病ではないか」と疑いますが、島津義弘が病床に訪れて病が重いことを知って落涙、東軍に与していないと保証するも、大津城の戦いに兵を出すことに。
伊東与兵衛・平賀喜左衛門という2人の家臣を代理として30人を派遣して西軍に与することになりました。

一方で密かに家老の稲津重政に嫡男の祐慶をつれて領国に戻るように命じ、東軍に与させます。黒田孝高と協議して祐慶は3,000を率い西軍の高橋元種の所領だった宮崎城を攻めました。
伊東氏の東軍としての参加と貢献を認められ、戦後に家康から所領を保障されます。さらに西軍でまだ降参していない薩摩国の島津氏へ軍を進めるように命じられました。しかし、祐兵は同年10月11日に病死、享年42。嫡男の祐慶が継ぎました。

伊東祐兵の知略

文禄の役の時に伊東家家中に騒ぎが起こりました。
一緒に朝鮮に渡航していた義益嫡男の義賢を伊東家の総領に据えようという動きです。祐兵亡兄義益の娘を正妻としていたが、家督そのものは天正5年(1577)にこの義賢が継いでいました。祐兵はこの騒ぎを収めるために、甥の義賢を暗殺し騒動を収拾したとされています。

祐兵は大名の子息に生まれながらも苦労人であり、裸一貫で再起したことからも、時局を見通す目に優れていたとも言われています。
天下別れ目の関ヶ原の戦いの時は重病にかかり、病の床に伏せっていましたが、西軍に荷担すると見せながら、密かに東軍に内通し協力を約束していたところなど、立ち回りが日出生にうまい人物だと伝わります。

祐兵は表向き島津とともに西軍に荷担する向きを見せるも、不審に思った島津豊久が祐兵の邸宅を訪問し詰問されてしまいます。しかし、祐兵は自身の病気を理由に詰問をかわし、かえって豊久の同情を得た迫真の振る舞いを見せました。

その裏では密かに嗣子の祐慶を九州に派遣し、西軍方の宮崎城を攻め落とさせています。
結局祐兵は関ヶ原の後に42歳で没しますが、伊東家は徳川幕府から本領を安堵され、その領土は飫肥全域の5万7千石におよび、飫肥藩主として幕末まで続いています。

飫肥城(おびじょう)

飫肥城の築城は、宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと言われ、別名、飫肥院とも呼ばれていました。
その後、戦国の世になると島津氏の配下に置かれますが、伊東氏が侵攻して奪取。その後も島津氏と伊東氏の攻防が繰り広げられました。

江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄します。飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城で、伊東四十八城の一つです。

戦後、1978年に大手門が復元されたほか、城内には御殿を模した歴史資料館が木造で建設されています。しかし、これらの建物は元の外観資料がないため、形は考証によるもので史実通りの復元ではありません。また、本丸跡には日南市立飫肥小学校が建っています。また、
NHK連続テレビ小説『わかば』のロケ地にもなりました。
平成18年(2006)4月6日、日本100名城(96番)に選定されています。

なお飫肥城下町(飫肥)は、昭和52年(1977)国(文部大臣)により九州・沖縄地方で最初の「重要伝統的建造物群保存地区」として選定されています(岡山県吹屋と共に、我が国で2番目に選定された2地区のうちの一つ)。
保存地区内には城下町時代の道路や地割が良好に保存され、石垣、土塀、生垣で囲まれた武家屋敷跡が残っており、地区内には飫肥城跡のほか、最後の藩主・伊東祐帰が住んだ邸宅である豫章館、振徳堂(藩校)、五百禩(いおし)神社、小村寿太郎生家などがあります。

飫肥城下まつり

秋の日南市を代表するまつりで、郷土芸能や武者行列などの市中パレードをはじめ、伝統の四半的(しはんまと)大会など、城下町の風情をたっぷりと味わうことができる2日間です。例年10月第3週の土・日曜に開催され、市民をはじめ多くの観光客などの人出で賑わいます。

土曜日は、午前11時にのろしが上がるのを合図として、城下の大手門へ早馬が馳せ参じます。その後、大手門前や城内の特設ステージ(飫肥小学校グラウンド)で郷土芸能や歌謡ショー等の市民が参加するステージイベントが行われます。
日曜日の本祭、一番のみどころはお昼12時から本町商人通りで行われる市中パレードです。侍大将、女武者、武者行列、泰平踊(たいへいおどり)等が16時30分ごろまで練り歩きます。

泰平踊は、折編み笠を目深にかぶり、羽二重熨斗目(はぶたえのしめ)を着流しに、白足袋白緒の草履姿。腰には朱鞘の刀に印籠という粋な元禄の武者姿で踊ります。飫肥藩主伊東氏が上方の歌舞伎踊りと地元の盆踊りを組み合わせ、そこに柔術、弓術など武芸十八般を折り込んだと言われています。所作はゆっくりと、踊る姿も美しく、重厚な印象の踊りです。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03