伊達政宗(2/2)天下奪取の野望に燃えた奥州の粋

伊達政宗

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人物記
名前
伊達政宗(1567年〜1636年)
出生地
山形県
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関係する事件

豊臣家が大坂の陣で滅ぶと世情が落ち着き、政宗は以後領国の開発に力を入れていました。のちに貞山堀と呼ばれる運河を整備しています。こうした領国開発のおかげで、仙台藩は表向きの石高よりもずっと豊かであったと言われています。
また上方の文化を積極的に導入、技師・大工らを招いて桃山文化に特徴的な荘厳華麗さに北国の特性が加わった様式を生み出しました。
国宝の大崎八幡宮、瑞巌寺、また鹽竈神社、陸奥国分寺薬師堂などの建造物が現在まで残っています。

政宗は3代将軍・徳川家光の頃まで仕えます。寛永12年(1635)に家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名を家臣として遇す」と述べたとき、政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出て、誰も反対できなくなった逸話は有名です。家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕っていたと言われています。
家光に乞われ、秀吉や家康との思い出をはじめ合戦の話など、戦国時代の昔話をしては家光を喜ばせていたようです。

健康に気を使う政宗も、寛永11年(1634)頃から食欲不振や嚥下に難を抱えるなど体調不良となり、寛永13年(1636)4月20日に参勤交代に出発した政宗は急に病状を悪化、宿泊した郡山では嚥下困難と嘔吐で何も食べられなくなってしまいました。4月28日に江戸に入った頃には絶食状態が続いており、病を押して参府します。
家光は、5月21日に伊達家上屋敷に政宗を見舞っています。
5月24日死去。享年70。「伊達男」の名に恥じず、臨終の際は妻子にも死に顔を見せない心意気だったそうです。将軍家は、江戸で7日、京都で3日人々に服喪するよう命令を発しており、御三家以外で異例の事でした。

伊達男にふさわしい逸話の数々

政宗と眼帯
政宗の肖像では、天然痘で失明した右目は白濁して見開いており、健康であった左目は右目よりもさらに大きく見開いています。
これは政宗の生前の希望に従っており、右目を黒く描く肖像も存在しています。他にも「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えで、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
政宗が登場するゲームや物語では眼帯をつけているのが多く存在しています。しかし、残っている記録には目を覆った様子は見当たらないのです。ドラマなどで政宗役の俳優が演技時に刀鍔型をした眼帯などで右目を覆う慣習は、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』からであると言われています。しかし、近年では右目を隠していない作品もあり、より史実に基づいた描写に変更しているものもあります。
伊達政宗が「独眼竜」と呼ばれるようになったのは、江戸時代後期の儒学者・頼山陽の賦した漢詩が始まりとされています。山陽の没後、天保12年(1841年)に刊行された『山陽遺稿』に収められている「詠史絶句」15首のひとつに、政宗に題をとったものがあり、天保元年(1830年)の作と言われているようです。
料理に傾倒した政宗
若い頃は兵糧開発を目的としており、岩出山名物の凍り豆腐とずんだは政宗の研究の末に開発されたものでした。
仙台城の築城のときには味噌が作れるよう、仙台城内に『御塩噌蔵(ごえんそぐら)』を建て、筑紫国からわざわざ職人を呼び寄せたことが仙台味噌の始まりと言われています。味噌の大規模な生産体制が確立されたのはこれが日本で初めてだったとか。
江戸時代になると兵糧の需要は激減しますが、「美食を極める」ことで料理研究を続けていました。
『政宗公御名語集』には「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という政宗の言葉が残されています。
この金言は後世多くの料理人に影響を与えており、伊達家御用蔵が母体となっている宮城調理製菓専門学校のほか、服部栄養専門学校などでも校訓に引用されているほどです。
酒も大好きだった政宗は、柳生宗矩に紹介された職人を招き仙台城に酒の醸造所を建てています。ただし、政宗本人は酒に弱く、二代将軍秀忠との面会を二日酔いが原因で反故にしたり三代将軍・家光の御前で酩酊した挙句眠りこけたりしたなどの失敗談も残っています。

生誕の地、米沢城

伊達政宗が生まれた米沢城は代々伊達家の居城として豊臣秀吉に召し上げられるまでの約200年治めていた城です。
慶長3年(1598)豊臣政権の五大老である上杉景勝が120万石で移ってきたときに、直江兼続が城主を務めていた時期もありました。その後は江戸時代を通じて、上杉家の居城とされて、現在、本丸跡は上杉神社の境内、上杉鷹山を祀る松岬神社も隣接しています。

仙台城と伊達家

仙台城は別名、青葉城とも呼ばれています。
標高は約130mで、東と南を断崖という天然要害に築かれている仙台城は、徳川家康から警戒されないために、 天守閣はわざと作らなかったとも伝わります。残念ながら城は残っていませんが、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせてくれます。
政宗公騎馬像も建っており、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望することができます。また、青葉城資料展示館ではコンピューターグラフィックスを使った青葉城復元映像などを見学が見られます。平成15年夏、国の史跡指定を受けました。
城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。
土井晩翠銅像前では「荒城の月」の自動演奏が9:00から18:00までの30分ごとに流れます。
日没後から23時まで石垣と伊達政宗公騎馬像がライトアップされており、仙台の夜景を楽しむことができるため、デートスポットとしても親しまれています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
日本の城フォトコンテスト.03