松平直政(2/2)大坂の陣で活躍した出世株

松平直政

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人物記
名前
松平直政(1601年〜1666年)
出生地
滋賀県
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国宝天守

松本城

国宝天守

越前大野城

寛文3年(1663)3月25日には、幕府より命を受けて大沢基将と共に霊元天皇即位の賀使となり、京都へ上洛しました。同年5月26日、従四位上に昇叙し、左近衛権少将に転任しています。
出羽守如元となりました。

しかし、同年11月26日に病を得てしまい、その後は体調がすぐれない日々が続きました。
寛文6年(1666)2月3日、江戸藩邸にて病死。享年66歳。戒名は高真院勤誉一空道善、月照寺に葬られました。
家督は長男の松平綱隆が継いでおり、子孫はその後明治維新まで代々松江藩を治めました。

直政にまつわる逸話

口がうまかった直政
直政はとても口達者な人物で知られており、裏では「油口(ぺらぺらと調子よくしゃべる巧みな口先。 おべっかなどがうまいこと)」揶揄されるほどだったと言われています。
そのため、世渡りがうまく本来であれば上の兄が身罷ったりしない限りは跡を継げないものですが、結果的に将軍家からも優遇されて国餅大名になったとも言われています。
大坂の陣で真田信繁(真田幸村)より称えられる
大坂の陣の際、生母からに「祖父である家康の目に留まるよう、卑しき母の子として生まれたと後ろ指を差されることのないように」と言い含められたと言われています。
直政は実際に大坂城の真田丸攻めで勇猛果敢に戦ったことで、祖父の家康に賞賛されました。
それだけでなく、真田丸攻めでは敵の大将であった真田信繁(真田幸村)からも若武者ぶりを讃えられて軍扇を投げ渡されました。この軍扇は直政が初代藩主となった出雲松江藩の宝として代々受け継がれ、現在は松江城天守閣の一角に展示されています。
初陣が危うかった直政
大坂冬の陣の際、直政は生母の身分が低く部屋住みの身分でした。
そのため、出陣に必要な軍資金がなく出陣すら危ぶまれる状態だったところ、家来の神谷兵庫が西本願寺から2千両もの大金を借りてきてくれたおかげで出陣できたと伝わっています。

大野城と直政

大野城は天正3年(1575)、織田信長の家臣・金森長近によって築城されたのがはじまりです。長近が飛騨高山に移封された後、大野城には青木秀以・長谷川秀一が城主として罪状しました。他にも、安土桃山時代には織田信長の次男織田信雄も城主を務めていましたが、関ケ原の戦いで西軍に与したため、戦の後に改易されています。

越前一国は関ヶ原の戦いの後直政の父・結城秀康の支配下に入り、秀康は大野に重臣の土屋正明を置いていました。正明は秀康死去時に殉死したため、同じく重臣の小栗正高が置かれます。そして寛永元年(1624年)、福井藩主の松平忠直(秀康長男)の改易に際し、弟らに所領が分け与えられる形で松平直政が大野に封じられ、大野藩5万石が立藩した。

寛永12年(1635)8月に直政が信濃松本藩へ移されるまで、直政が治めました。

松本城と直政

松平直政が越前国大野藩より7万石で入ると、直政は城郭の増改築をはじめ、天守の造営、多門櫓の築造を行ないました。
他にも、寛永通宝松本銭の鋳造を行なっており、通常であれば7万石の小さな藩では到底行うことができないことでした。

これらのことができた理由としては、3代将軍であった徳川家光と良好な関係を築いていたことや、結城秀康(徳川家康の子)の実子だったという立場があったからとも言われています。
また直政は、地子免除(土地・屋敷にかかる年貢の免除)など税制も定めました。寛永15年(1638)に出雲国松江藩へ移封されるまで、善政を布いており領民からは賢君として尊敬されていました。
松江藩への移封は、領民からも惜しまれたと伝えられています。

松江城と直政

別名、千鳥城とも呼ばれています。
寛永15年(1638)、松平直政が18万6000石で信濃松本藩より転封してきました。
これ以降、出雲一国は越前松平家が明治維新まで治めることになりました。また松平家は同時に隠岐1万4000石も預かっています。

藩の財政は年貢米による収入だけでは厳しく、直政が入封した頃から財政が厳しかったと言われています。早くから専売制を敷き、木蝋、朝鮮人参、木綿、そして鉄の生産を統制していたそうです。
他にも古くから、たたら製鉄やたたら吹きによって砂鉄から鉄を生産することが盛んだったことを活かし、享保11年(1726)の5代目藩主・宣維は田部(たなぶ)・桜井・絲原(いとはら)の大山林地主3家を中心に組合による独占制度での製鉄をおこないました。

他にも不昧(ふまい)と号した7代・松平治郷は特に有名な藩主かもしれません。財政再建を推進した結果、寛政年間(1789~1801)には8万両もの蓄財が可能になるほどでした。治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道に傾倒して不昧流を創設しています。名器の蒐集も行っており、その目録である『雲州蔵帳』や、著書『古今名物類聚』、『瀬戸陶器濫觴』上中下巻は現在、茶道研究の重要な資料の一つとなっているほどです。
また茶道との絡みで、松江の町はこの頃より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となりました。
茶や和菓子だけでなく、松江・出雲は現在でも治郷が好んだ庭園や工芸品などが「不昧公好み」と呼ばれて、観光資源にもなっています。反面、晩年には散財がたたり、再び藩財政を傾けることになってしまいました。

現在、松江城は国宝に指定されており市民に開放されています。
3月下旬~4月中旬には、サクラの開花時期に合わせてお城まつりが開催されます。天守、桜、がぼんぼりでライトアップされ、夜桜が楽しめるため市民にも人気です。ほかにも武者行列、安来節コンクール、ステージイベントなどが行われています。

直政ゆかりの地

直政の銅像
1927年、松江城本丸に米原雲海による銅像「直政公初陣像」が建立されました。しかし、太平洋戦争中の1943年に金属供出により銅像は撤去されることになります。
戦後、すぐに再建されず2009年に、島根県庁前に場所を移して倉澤實による銅像「松平直政公像」が再建されました。
月照寺(げっしょうじ)
島根県松江市外中原町にあり、境内にある松江藩主であった松平家の墓所は国の史跡に指定されています。
直政は寛文6年(1666)に江戸で死去しましたが、臨終の際に「我百年の後命終わらば此所に墳墓を築き、そこの所をば葬送の地となさん」と言い残しました。
2代藩主・綱隆は父である直政の遺命を継いで境内に直政の廟所を営んでいます。この時、寺の山号を現在の「歓喜山」と改めました。直政以後、9代藩主までの墓所となっています。
茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥の作によるとされていて、見事な彫刻が残っています。境内には、不昧が建てた茶室・大円庵もあります。
「松江藩主松平家墓所」として平成8年(1996年)3月29日に国の史跡に指定され、高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財にも指定されています。ほかにも境内には宝物殿があり、歴代藩主の遺品が展示をみることができるようになっています。

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執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。