北条氏政最盛期を築いた4代目

北条氏政

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人物記
名前
北条氏政(1538年〜1590年)
出生地
神奈川県
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小田原城

小田原城

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戦国時代の幕開けとなったのは応仁の乱だと言われています。この時期関東へ下り、支配したのが北条氏(鎌倉時代の執権・北条氏と区別するため後北条氏とも言います)でした。
4代目を継いだ北条氏政は勢力拡大に勤しみ、一時は歴代北条氏の中でも最大の領地を有します。しかし、豊臣秀吉の小田原征伐で終焉を迎えました。今回は、繁栄と終焉を築いた北条氏政の生涯についてご紹介します。

誕生から元服まで

北条氏政は天文7年(1538)、父・3代当主の北条氏康と瑞渓院(今川氏親の娘)の間に次男として誕生しました。幼名は、松千代丸といいます。
兄の氏親が夭折したために、跡取りとして育てられることになります。元服したのがいつ頃かはっきりしていませんが、天文23年(1554)6月ごろまでには元服したと言われており、元服後は北条新九郎氏政と名乗るようになりました。

天文23年(1554)に父・氏康が甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との間で甲相駿三国同盟を成立させ、同盟のあかしとして、氏政は信玄の娘である黄梅院を正室に迎えます。
夫婦仲も良く、2人の間には、跡取りとなる5代目の氏直も生まれました。

家督相続から父存命中の活躍

永禄2年(1559)12月23日、に父の氏康が隠居。家督を譲られて、後北条家の第4代当主となります。この時期、領国では飢饉に苦しんでおり、飢饉の対応として氏康が当主を退き、新たな当主のもとで復興にあたっていくという形を取ろうとしました。

家督を相続して氏政が最初に行なった仕事は、北条家所領役帳の作成です。北条家は代々領民を重視し、検地や徳政をおこなって代替わりすることが定番となっていました。
こうして、領地について実地で学びながら徐々に権力を父から移譲され、しっかりとした基盤を築いていきます。

永禄4年(1561)、上杉謙信が関東・南陸奥の諸大名たちと小田原城を包囲しました(小田原城の戦い)。窮地に陥りますが、同盟を結んでいた武田信玄の支援で、氏政は父主導のもとで籠城戦に参加、上杉軍を撃退します。
越後に撤退した謙信が第4次川中島の戦いで甚大な被害を受けると、信玄と呼応して北関東方面に侵攻しました。一進一退の攻防を繰り返し、上杉側に奪われた領土を奪い返していきます。
その後も、周辺の国々と戦を繰り返しながらも領土を掌握し、権力を掌握していきました。

信玄が伊豆・駿河方面に進出したことに併せて対抗しますが、蒲原城・深沢城などの駿河諸城が陥落、後見人の父・氏康も病気がちになり戦線を引退。元亀元年(1570年)には駿河で北条氏が支配していた地域は興国寺城及び駿東南部一帯だけになってしまい、事実上駿河は信玄によって併合されてしまいました。

上杉謙信・竹田信玄親子との戦い

上杉や武田とはその後も同盟を結んだり、戦ったりの繰り返しでした。
元亀2年(1571)10月に父の氏康が亡くなると、氏政は12月に武田信玄との同盟を復活させると同時に(甲相同盟)、上杉謙信との越相同盟を破棄します。

甲相同盟が復活すると、北条氏政と上杉謙信の争いも復活しました。
天正2年(1574)、謙信が上野に出てくると氏政も出陣、利根川でにらみ合います。しかし、謙信の関心は越中に向いており、決戦には至らずに済みました。
その後簗田晴助が治める関宿城を、翌天正3年(1575)には小山秀綱の下野祇園城を攻め落とすことに成功します。

さらに下総の結城晴朝が氏政に従うことになり、氏政の勢力は拡大していきました。結果的に、上杉氏の勢力を関東からほぼ一掃することに成功します。
天正5年(1577)には、上総に侵攻し、宿敵だった里見義弘との和睦も実現させました(房相一和)。この戦いでは、嫡男の氏直も初陣しています。

織田信長との対立と本能寺の変

こうして順当に関東圏を支配下に置いていった北条氏政に、新たな敵が現れます。
天正10年(1582)2月、織田信長は嫡男・織田信忠と、織田家の有力武将である滝川一益を軍監として甲州侵略を開始しました。

氏政は駿豆国境間(御殿川)あたりの情報が途絶えてしまったため、情報収集に苦戦します。そこで、五男の氏邦に上野方面から情報収集に当たらせました。
結果的に、伊勢からの船によって情報がもたらされ、信長・徳川家康が武田信玄亡きあと弱体化した甲斐侵攻を開始したことを知ります。
氏政も後れを取るまいと、駿河の武田領に侵攻していきました。3月11日、武田勝頼は天目山の戦いで正室・桂林院(氏政の姉妹)と共に自害。武田氏が滅亡しました。

信長は滝川一益を上野厩橋城に送り込んで関東管領にし、上野西部および信濃の一部を与えて関東統治を考えていました。
北条氏は嫡男の氏直に織田家から妻を娶ることを条件に、織田家の分国として関東統治を願い出ます。しかし、信長は北条氏に好意的ではなく、逆に刺激するようなことばかりで縁談も円滑には進まなかったと言われています。

しかし、6月2日に信長・信忠親子は本能寺の変で明智光秀に襲われ自害。織田家の家臣団も大混乱に陥り、この混乱に乗じた氏政は滝川一益を関東から追い払うことに成功します。
その後、甲斐の若神子で嫡男の北条氏直と家康は対立しましたが(若神子の戦い)、信濃では真田昌幸が離反。甲斐でも北条氏忠(氏政の弟)・北条氏勝(氏政の甥)が、黒駒で徳川家康配下の鳥居元忠らに敗北して、甲斐の北条領は郡内地方の領有だけになってしまうなど、情勢は不利となります。このため嫡男・氏直と家康の娘・督姫を婚姻させて和睦しました。

領土をさらに拡大、最盛期に到達

領土問題は甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることで合意するも、信濃の佐久・小県両郡と甲斐郡内地方の放棄は北条氏にとって不利な講和条件でした。しかも家康についた真田昌幸が、後に上野の沼田城を北条に明け渡す事を拒んで上杉氏に寝返り、上田・沼田城で徳川家康・北条氏政と対立します。これらの懸案が後の沼田問題・名胡桃事件に繋がっていきます。

天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去し、氏政は官途補任で権力掌握。関東の身分秩序の頂点に立ちました。
また武蔵の江戸地域、岩付領の握り、利根川水系・常陸川水系の支配を確保して流通・交通体系を支配しました。関東の反北条の武将たちは、北条氏に従うか抗戦するか二者択一を迫られます。

天正13年(1585)、佐竹義重・宇都宮国綱らが那須資晴・壬生義雄らを攻めると、氏政は那須氏らと組んで下野侵攻を開始。下野の南半分を支配下に置きました。
また常陸南部の江戸崎城の土岐氏や牛久城の岡見氏を支援、常陸南部にも影響を及ぼします。
こうして、北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野から常陸・下野・駿河の一部まで約240万石にまで達して、歴代の北条氏投手の中でも最盛期を築き上げました。

小田原征伐、そして切腹へ

このころ天下人は織田信長亡き後、豊臣秀吉となり日本統一に向けて着々と進んでいきます。
天正16年(1588)、北条氏政・氏直親子は秀吉から京都・聚楽第行幸への列席を求められますが、氏政は拒否します。京では北条討伐のうわさが流れ、北条氏も臨戦体制となります。
しかし、徳川家康の説得を受けて8月に氏政の弟・北条氏規が名代として上洛したことで、この時の対立は回避されました。

天正17年(1589)2月、板部岡江雪斎が上洛し、沼田問題の解決を秀吉に要請します。秀吉は沼田領の3分の2を北条側に還付する沼田裁定をおこない、6月には12月に氏政が上洛する旨の一札を受け取り、沼田領は7月に北条方に引き渡されました。

しかし上洛の時期について、氏政は天正18年(1590)の春~夏頃の上洛を申し入れますが、秀吉は拒否し、再び関係が悪化し始めてしまいます。
不穏な状況の中、10月には五男の氏邦の家臣である猪俣邦憲によって名胡桃城奪取事件が発生。秀吉は徳川家康、上杉景勝らを上洛させ、諸大名に天正18年(1590)春の北条氏追討の出陣用意を命じました。また、秀吉は津田盛月・富田一白を上使として北条氏に派遣し、名胡桃事件の首謀者を処罰し即上洛して秀吉に頭を下げるよう伝えました。

これに対し、氏直は「氏政抑留か国替えの惑説があり上洛できない」「家康が臣従した時、朝日姫と婚姻し大政所を人質として上洛する厚遇を受けたことに対し、名胡桃事件における北条氏に対する態度との差」を挙げて、抑留・国替がなく心安く上洛を遂げられるよう要請。名胡桃城奪取事件についても弁明しますが受け入れられませんでした。

上洛を渋る氏政の姿勢に怒った秀吉は、氏政の上洛・出仕の拒否を豊臣家への従属拒否であるとして、12月23日、諸大名に正式に追討の陣触れを命じます。氏政らも迎え撃つべく臨戦態勢を整えました。翌年春、各方面から攻めてくる豊臣軍を迎え撃ちます。

当初は碓井峠を越えてきた真田昌幸たちに勝利し、駿豆国境方面に布陣した豊臣方諸将に威力偵察するなど優勢でしたが、秀吉が沼津に着陣すると、緒戦で山中城が落城。4月から約3ヶ月に渡り小田原城に籠城します。
その後、領国内の下田城、松井田城、岩槻城、八王子城、などが落城。約22万の豊臣軍には勝てず、降伏しました。氏政は切腹、享年52歳でした。

家康の婿だった氏政の息子・氏直は助命され、食い扶持が与えられていました。しかし後に死亡、後北条氏の系譜は氏規が継承。江戸時代には氏規の子・北条氏盛が河内狭山藩主となり、明治維新まで存続しています。

逸話

汁かけ飯の話
氏政の有名な逸話として、二度汁かけの逸話があります。
ある日、食事の際に氏政が汁を一度、飯にかけたが、汁が少なかったためもう一度汁をかけ足しました。
見ていた父の氏康は「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も量れぬとは。北条家もわしの代で終わりか」とため息をついたと伝わっています。
これは、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来る訳がない」との意味で、父の氏康が息子の氏政により一層の精進を促したとも、氏政がそれほどの技量を持っていなかったからとも言われています。
制札にまつわる逸話
ある僧侶が、氏政が当主となってから久方ぶりに小田原に立ち寄り、制札(民に知らせる禁止事項や、法律など書かれた立て札)を見ていました。
制札を読んだ僧侶は、「北条も先が長くないだろう」と不吉な言葉を口にします。
驚いた町奉行が理由を聞いてみると「先代の氏康様は、制札に5カ条しか書かなかった。しかし、現当主の氏政様は30カ条もある。これは領民をしっかり掌握できていない証拠だ」と答えたと言われています。

北条氏政 ゆかりの地

北条氏政の墓所
小田原市にある伝心庵には、小田原征伐の責任を取って秀吉に切腹を命じられた北条氏政と弟の氏照の墓所があります。
後に伝心庵は移転し、墓は放置されてしまいますが、江戸時代になり、稲葉家が小田原藩の藩主になると追福のため修復されました。しかし、またもや関東大震災で埋没してしまい不明となったため、翌年地元有志によって復興されました。
墓地内には、五輪塔・笠塔婆型墓碑・石灯籠のほか、氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わる生害石があります。
小田原北條五代祭り
小田原城址公園・市街地で毎年5月に行われる祭りです。
北條五代歴代城主墓前供養や武者行列パレードが行われ、小田原城主であった北条氏を偲ぶ祭りとなっています。
街中では、北條鉄砲衆による発砲演技や風魔忍者のパフォーマンスなども行われ、小田原市最大の祭りとして市民に愛されています。

北条氏政と小田原城

北条氏は初代である北条早雲以来、5代にわたって小田原城を拠点としてきました。
3代目当主の北条氏康の時代には難攻不落で知られ、無敵の城として上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐えたと言われています。小田原攻めで豊臣軍が攻めてきた時には、対抗するため広大な外郭を作っており、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの土塁と空堀で取り囲んだ壮大な外郭でした。

江戸時代には小田原藩の藩庁が置かれており、現在では城跡は国の史跡に指定されています。城好きの歴史ファンが訪れる城として人気があり、市民にも親しまれているお城です。また、日本100名城にも指定されています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。