竹中半兵衛「今孔明」と呼ばれた秀吉の天才軍師の最期
竹中半兵衛
戦国時代には数多くの名将が活躍しましたが、そのなかでも「天才軍師」として後世まで語り継がれているのが竹中半兵衛(竹中重治)です。黒田官兵衛(黒田孝高)とともに「両兵衛」として羽柴秀吉を支え、三国志の諸葛孔明に倣い「今孔明」とも呼ばれたとされていますが、逸話は後世の軍記物によって脚色された部分も多く、史料の少なさから実情はあまりよくわかっていません。今回はそんな竹中半兵衛について詳しく解説していきます。
竹中半兵衛とはどんな人物だったのか
竹中半兵衛は天文13年(1544年)、美濃国大御堂城主(現・岐阜県揖斐郡大野町公郷)の竹中重元の子として生まれました。父の重元は美濃斎藤氏に仕える国人領主でした。なお、半兵衛は通称で、幼名は重虎、のちに重治となっていますが、本稿では半兵衛で通します。
半兵衛の幼少期については不明な点が多いものの、病弱ながら若い頃から学問や読書に励み、『孫子』をはじめとした兵法書を熟読し、兵法の研究に勤しむ知略に優れた人物として知られていたようです。
現在は「軍師」のイメージからか線が細い美男子のように描かれることが多い半兵衛ですが、江戸時代中期に成立した逸話集『常山紀談』では「謀略有る人なれども、打見たる処は婦人のごとし」と書かれています。とはいえ、江戸時代中期のことなので、創作色が強いようですが…。
永禄5年(1562年)に父の重元が亡くなると(※永禄3年説もあり)、半兵衛は19歳で家督を継ぎ、菩提山城(岐阜県不破郡垂井町)の主となります。この際西美濃三人衆の一人・安藤守就の娘である阿古姫(とく)と結婚しました。
当初、半兵衛は美濃国主の斎藤義龍に仕えていましたが、永禄4年(1561年)に義龍が急死すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えました。しかし、龍興はまだ14歳の若さでした。
この当時、美濃は織田信長に攻められ混乱しており、若き龍興は家臣団をうまく統制することができませんでした。特に有力家臣の美濃三人衆の支持を得られなかった龍興は、やがて特定の側近を重用し、遊興にふけっていくようになったと伝わっています。半兵衛はそうした混乱の中で徐々に頭角を現していきました。
「十面埋伏陣」で信長を撃退
永禄4年(1561年)、龍興が織田信長に攻められた際、半兵衛は十面埋伏陣(じゅうめんまいふくじん)と呼ばれる、伏兵を活用して四方八方から敵を攻める戦術で織田軍を破ったと伝わっています。これは紀元前に項羽と劉邦が争った「楚漢戦争」で韓信が使った計略で、これにより項羽軍は「四面楚歌」になります。『三国志演義』でも曹操が「倉亭の戦い」で袁紹を破ったことで知られています。
また、永禄6年(1563年)4月、半兵衛は「新加納の戦い」に参戦し、伏兵をうまく利用して織田軍を討ち破りました。ちなみに、この際、敗れた織田軍にいたのが木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)。藤吉郎は稲葉山の尾根に大量の松明をともすことで「稲葉山方面に織田軍の援軍が来た」と誤認させ、斎藤軍の追撃を阻止し、被害を押さえたとされています。
十数名で城を奪取した「稲葉山城乗っ取り事件」
竹中半兵衛を語るうえで欠かせないのが、永禄7年(1564年)2月の稲葉山城乗っ取り事件こと「稲葉山城の戦い」です。こちらについては史料が少ないのですが、当時の文献から、舅の安藤守就と半兵衛が稲葉山城を奪取したことが分かっています。
通説によれば、半兵衛は龍興の側近・斎藤飛騨守から度重なる嫌がらせを受けていました。飛騨守の家臣から小便をかけられたことまであり、斎藤家中での自身の扱いに不満を募らせていました。また、龍興のふるまいから斎藤家の未来に対し危機感を覚えていた半兵衛は、ついに実力行使に出ます。
『太閤記』などによれば、永禄7年(1564年)3月18日、半兵衛は弟を見舞いに来たという名目で城を訪れて侵入。長持ちに隠しておいた武器を身に着けて戦いを開始し、飛騨守を殺害して城を制圧しました。こうして半兵衛はわずか16、17名で城を奪い取ったのです。さらに、半兵衛らの合図を見た義父の安藤守就が率いる軍2000が城に攻め寄せます。龍興は必死に城から脱出しました。
このクーデターを見た織田信長はすぐさま半兵衛に使者を出し、美濃半国を条件に稲葉山城の明け渡しを要求しますが、半兵衛はこれを拒否しました。そして半兵衛は約1年後に龍興に城を返し、浅井長政のもとで隠棲しました。
半兵衛のこの行動は「主君を諫めるためだった」とも「実は謀反だった」とも言われており、真相はわかっていません。
信長と秀吉が求めた「今孔明」
永禄10年(1567年)8月、美濃三人衆が織田信長に寝返り、稲葉山城で激突します。龍興は半月ほど籠城しますが降参し、信長は美濃統一を成し遂げました。信長は稲葉山城を岐阜城へ改称して拠点とします。
斎藤氏が滅びたのち、信長は稲葉山城を乗っ取った半兵衛を配下に加えようと考え、使者として羽柴秀吉を半兵衛のもとに送ります。秀吉は中国の三国志で劉備玄徳が諸葛孔明を招いた「三顧の礼」の故事に倣い、半兵衛のもとを三度訪れて半兵衛を説得します。礼を尽くした態度を見た半兵衛は、秀吉に仕えるようになります。秀吉は半兵衛を高く評価し、さまざまなことを半兵衛に相談していたとされています。
ただし、半兵衛は秀吉の直臣ではなく信長に仕えており、元亀元年(1570年)の浅井長政攻めの時に、秀吉の与力になったともされており、この辺りははっきりとわかっていません。
姉川の戦いや横山城で発揮された半兵衛の軍略
半兵衛は織田家のなかで軍略に長けた武将として活躍していきます。調略や外交に強かった半兵衛は、信長と浅井氏が敵対すると、かつて浅井氏に身を寄せていた時代に培った人脈を活用し、浅井方の武将である松尾山城(長亭軒)の樋口三郎兵衛を調略しました。
また、元亀元年6月28日(1570年7月30日)に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った「姉川の戦い」では、半兵衛は秀吉軍の陣形について献策し、敵軍の本陣突入を防ぐことで織田・徳川連合軍の勝利に一役買ったとされています。
その後、秀吉は横山城(滋賀県長浜市)を守ることとなりますが、元亀2年(1571年)に浅井軍が一向一揆とともに攻めてきた際、半兵衛の計略が光りました。半兵衛は浅井軍が7000余りの兵を率いて横山城に向かった際、出撃しようとした豊臣秀長(当時は木下小一郎)を止め、敵を引き付けて射撃して30騎ほど打ち取り、敵が退却する際も伏兵で敵を打ち取って大勝利を収めたのです。諸説あるエピソードですが、半兵衛の軍師としての才能がうかがえます。
小谷城の戦いでお市の方と浅井三姉妹を救出
天正元年(1573年)8月、「一乗谷城の戦い」で朝倉氏が滅びたのち、織田信長は浅井氏がこもる小谷城に向かって兵を進めました。この「小谷城の戦い」の際、奇襲作戦を立案したのが半兵衛だったと言われています。敵である浅井長政の正室は信長の妹の「お市の方」だったため、信長は「助けられるものなら助けたい」と考えていました。半兵衛はその意をくみ、お市の方と娘達(浅井三姉妹)の救出を念頭に策を練ったのです。
半兵衛は小谷城を攻める際、長政のいる本丸と、長政の父・浅井久政のいる小丸の分断のため、間にある京極丸をまず攻め落とすことを献策しました。そして夜襲により京極丸を攻め落とし、次いで小丸も落としました。この際久政は自害しています。
半兵衛は本丸攻めを最後にすることで、お市の方と娘たちを脱出させる時間を稼いだのです。その後、信長は本丸に立てこもった長政に最後の降伏を勧告しましたが、長政は拒否し、妻と娘、嫡男を逃がしたのちに自害。小谷城は落城し、浅井氏は滅びました。
長篠の戦いで見せた軍才
天正3年(1575年)5月、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が戦った「長篠の戦い」でも竹中半兵衛は軍師としての才能を見せました。
戦闘の序盤に武田軍の一部が右に移動したとき、秀吉の部下である谷大膳は、こちらも敵に合わせて移動すべきと主張します。しかし、半兵衛は「武田軍はまたもとの位置に戻る」と予想し、動かず備えを固めるべきと進言しました。しかし、秀吉は大膳の意見を採用し、秀吉軍は動きました。ところが半兵衛隊はその場で備えを維持していました。
結局武田軍はすぐに元の場所に戻ってしまい、味方は右往左往して終わりました。半兵衛が正しかったことが証明されたわけですが、このとき半兵衛は相手を攻めることなく笑って受け流し、大膳は「面目ない」と恥じ入ったそうです。
有岡城の戦いで若き黒田長政を救う
天正4年(1576年)頃から、豊臣秀吉は織田信長の命を受け、毛利氏攻略のため中国地方へ進出していました。この時活躍したのが、小寺家の家老だった姫路城の黒田官兵衛です。官兵衛は播磨の攻略の際に大活躍します。また、半兵衛も但馬の上月城攻めなどをサポートし、宇喜多直家の調略に乗り出します。こうして「両兵衛」こと秀吉の2人の軍師が揃うことになります。ただし、このころから半兵衛は病床に伏せることが増えてきており、実際に2名が肩を並べたのはわずかな間でした。
天正6年(1578年)10月、摂津の有岡城(兵庫県伊丹市)の荒木村重が突然謀反を起こし、説得に向かった黒田官兵衛が捕らわれて城に幽閉される事件が起こります。有岡城に向かったまま戻らない官兵衛を信長は「裏切ったのでは?」と疑い、人質としていた官兵衛の嫡男・松寿丸(黒田長政)の殺害を秀吉に命じます。
秀吉はどうすべきか半兵衛に相談すると、半兵衛は松寿丸をかばって自らの領地である菩提山城下の家臣の家にかくまい、信長には偽の首を差し出しました。
半兵衛の死後、官兵衛が有岡城から助け出されてこの事実を知ると、官兵衛は大変感謝し、竹中家の家紋である「石餅(こくもち)」をもらい受けて使うようになりました。ちなみに、この時助けられた黒田長政は、後に半兵衛の息子・竹中重門を助けることで恩返しをしています。重門は関ヶ原の戦いの当初、西軍方でしたが、長政と井伊直政の仲介で東軍に鞍替えし、無事に戦を乗り越え、本領を安堵されています。
三木城の戦いのさなか、病に倒れる
病気を抱えた半兵衛の最後の戦いは、天正6年(1578年)3月29日から天正8年(1580年)1月17日にかけて三木城を攻めた「三木の干殺し」こと三木城の戦いでした。半兵衛は三木城への兵糧攻めを羽柴秀吉に提案したほか、周辺勢力への調略を担当したと伝わっています。
しかし、長引く籠城戦のなかで、半兵衛の病は徐々に悪化していきます。このため、天正6年(1578年)11月、半兵衛は秀吉の上洛に合わせて京に移動し、しばらく療養生活を送りました。
ところが天正7年(1579年)3月、半兵衛は再び三木城の戦いに加わります。病は回復しませんでしたが、病気を押して戦場に戻ったのです。この際、秀吉に京で療養するよう言われましたが、「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と断ったとされています。
秀吉は半兵衛の弟の竹中久作を介護人としてつけ、半兵衛を平井山の陣中で療養させました。しかし病気は悪化し、半兵衛は自らの策が成るのを見届けることなく、6月13日にこの世を去りました。享年36。喀血していたことから死因は肺結核または肺炎だったと言われていますが、はっきりとはわかっていません。
竹中半兵衛の子・竹中重門が書いた秀吉の伝記『豊鑑』によれば、秀吉は劉備玄徳の息子である劉禅が諸葛孔明を失ったかのようだ、とひどく嘆いたと伝わっています。その後、天正8年(1580年)1月に三木城は落城しました。こうして竹中半兵衛は、後世まで『今孔明』と称される天才軍師として語り継がれていくことになるのです。
竹中半兵衛の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1544年 | 天文13年 | 0歳 | 美濃国に生まれる(名は竹中重治) |
| 1564年 | 永禄7年 | 20歳 | 稲葉山城をわずかな兵で占拠し名を知られる |
| 1570年代 | 元亀・天正年間 | 20〜30代 | 羽柴秀吉に仕え軍師として活躍 |
| 1577年 | 天正5年 | 33歳 | 秀吉の中国攻めに従軍 |
| 1579年 | 天正7年 | 35歳 | 播磨国三木城攻めの陣中で病死 |
- 【参考文献など】
- 戦国13人の名軍師 別冊歴史読本 02 合戦を操った陰の実力者たち 新人物往来社(2002)
- 地図でスッと頭に入る豊臣一族の戦国時代 小和田 哲男/監修 昭文社(2025)
- 垂井町HP
- 竹中半兵衛重治(郷土の偉人)
- 常山紀談 (有朋堂文庫) 湯浅元禎 著、有朋堂(1912)/国立国会図書館デジタルコレクション
- 史籍集覧 第6冊より 通記第29 太閤記 近藤瓶城編 近藤出版部(1919)/国立国会図書館デジタルコレクション
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。