西郷隆盛明治維新の英雄、西南戦争で散る

西郷隆盛

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西郷隆盛(1828年〜1877年)
出生地
鹿児島県
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鹿児島城

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「維新の三傑」として知られる西郷隆盛は、幕末から明治にかけて活躍した薩摩藩の英雄です。江戸城無血開城にかかわり、西南戦争で悲劇的な死を遂げたことは有名で、平成30年(2018年)には大河ドラマ『西郷どん』が放映されました。今回はそんな西郷隆盛の波乱万丈な生涯をわかりやすく解説していきます。なお、隆盛は何度も名を変えていますが、ここでは「西郷隆盛」で統一します。

薩摩藩士としての西郷隆盛の歩み

西郷隆盛は文政10年12月7日(1828年1月23日)、薩摩藩鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場に生まれました。父・西郷吉兵衛は下級藩士で、城下士の中では下位層の「御小姓与」だったため、西郷家は決して裕福ではなく、布団を奪い合うようにして寝ていたといった話が残っています。なお、同じ維新の三傑の大久保利通とは幼馴染です。

隆盛は造士館という藩の学校で勉学に励んでいましたが、11歳の時、学校の帰り道で友人の喧嘩に巻き込まれて右ひじを負傷し、刀を握れなくなったと伝えられています。

弘化元年(1844年)、隆盛は16歳の時に年貢収納や農政、村方支配に関わる実務職である「郡方書役助」に任命されます。隆盛はこの仕事を通して農民の窮状や藩政の矛盾を肌で感じるようになったと言われています。そして嘉永5年(1852年)、隆盛は最初の妻の須賀と結婚。翌嘉永6年(1853年)に家督を継ぎました。

人生を変えた島津斉彬との出会い

西郷隆盛の運命を大きく変えたのが、薩摩藩主・島津斉彬との出会いです。斉彬は嘉永4年(1851年)に第11代薩摩藩主に就任すると、富国強兵に努めるとともに有能な人材を身分に関係なく登用しました。そのなかの1人が隆盛で、藩庁に提出した意見書が斉彬の目にとまり、抜擢されたと言われています。

安政元年(1854年)1月、隆盛は斉彬の江戸参勤に中御小姓として着き従い、江戸に移動。4月には秘書的な役割を果たす御庭方役に任命されます。このとき、水戸藩の藤田東湖に出会い尊王攘夷論を学び、福井藩の橋本佐内とも交流するなど人脈を広げています。なお、江戸にいる最中に妻とは離婚しています。

安政の大獄により、奄美へ島流しされる

順風満帆にキャリアを積み上げていた西郷隆盛ですが、安政5年(1858年)7月、島津斉彬が急死してしまいます。隆盛はショックのあまり殉死しようとしましたが、交流のあった尊皇攘夷派の僧侶・月照に説得されて思い止まりました。

同年8月、大老・井伊直弼らにより政治的な弾圧「安政の大獄」が始まります。隆盛は尊王攘夷派の月照とともに薩摩藩に戻りますが、薩摩藩は幕府の追及を恐れて月照を「日向送り」にすることを命じます。これは道中で月照を処刑せよ、ということを意味していました。この命令に絶望した隆盛と月照は入水自殺を試みましたが、月照は死亡、隆盛は助けられて一命をとりとめました。

その後、薩摩藩は隆盛を幕府の目から隠すために奄美大島に送ることにしました。安政6年(1859年)1月、隆盛は奄美大島の龍郷村に到着しました。当初は島を嫌い、人々ともなじめず、奇声を発しながら木刀を振り回していたことから「大和のフリムン(狂人)」と呼ばれていたのだとか。

そんな隆盛でしたが、徐々に島になじみ、島在住限定の妻(島妻)として愛加那をめとっています。夫婦仲も良好でしたが、約2年後の文久2年(1862年)1月、島津久光により召喚されたため妻と別れて本土に戻ります。

島津久光に召喚されるも、二度目の島流しに

島津久光は島津斉彬亡き後藩主となった島津忠義の後見人で、薩摩藩の実権を握っていた人物です。久光は公武合体を後押しするため、兵を率いて上洛しようと考えていました。そのための周旋の際、薩摩藩内で地位を確立していた大久保利通から「斉彬の秘書として大名や公卿に知己が多い隆盛が必要」と提言されたため、隆盛を呼び寄せたのです。

ところが、隆盛は上洛に反対し、「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(=田舎者)」と言い放ちました。隆盛としては、藩主でない無官の久光が上洛すべきではないと考えたのです。

結局、大久保利通の説得により隆盛は久光のサポートを決意しますが、下関での待機命令を無視して大坂に移動してしまいます。大坂で志士たちが京都焼き討ちを計画していることを聞いて止めようとしたためなのですが、命令違反に激怒した久光は隆盛を捕縛して徳之島への遠島を命じました。

こうして隆盛は7月から徳之島で過ごしますが、鹿児島に戻った久光が「罰則が軽い」として沖永良部島への遠島処分を決定。隆盛は沖永良部島での牢屋暮らしのなか、体調を崩してしまいました。

穏便に収めた第一次長州征伐

文久2年(1862年)8月、久光が江戸から帰る行列内で起こった英国人殺傷事件「生麦事件」により、文久3年(1863年)7月に薩英戦争が勃発します。人材不足に陥るなか、大久保利通や家老の小松帯刀らの働きもあり、久光は隆盛を再度登用することに決めました。

元治元年(1864年)2月に鹿児島に戻った隆盛は京都に向かい、軍賦役(軍司令官)に就任。その後一代新番・小納戸頭取となり、7月に発生した禁門の変では薩摩兵を指揮して長州藩兵を撃退しました。

続く第一次長州征伐では征長軍の参謀を務めた隆盛でしたが、当初は長州藩への厳しい処分を主張していました。しかし、8月に起きた四国連合艦隊下関砲撃事件の影響や、幕府方の勝海舟との面談、薩摩本国の方針転換から、隆盛も方針を変え、長州藩の処分を比較的軽くして穏便な解決をはかります。その結果、第一次長州征伐は戦いが起きないまま終息しました。

薩長同盟締結へ

薩摩藩では島津久光が英国と接近して近代化と富国強兵に注力していました。さらに、幕府が薩摩藩を第一次長州征伐の先鋒にしたことから「薩摩藩の弱体化を狙っているのでは」と考え、幕府との将来的な戦闘を視野に入れた抗幕施策を打ち出します。

そんななか、薩摩藩は坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介を経て、長州藩と徐々に接近。第二次長州征伐を計画する幕府に対し、協力を拒んで長州藩を間接的に擁護しました。また、西郷隆盛は薩摩名義で長州藩に武器を融通するなど長州藩をサポートします。一方、長州藩は米不足に悩む薩摩藩に兵糧米を提供し、両藩の関係は徐々に改善に向かいました。

そして慶応2年(1866年)1月、京の小松帯刀の別邸「御花畑」にて薩長同盟が締結されました。その後隆盛は3月に薩摩に戻り、藩政改革に取り組んでいきます。

討幕と江戸無血開城

薩長同盟締結後、倒幕に向けて薩摩藩は動きを強めていきます。土佐藩とは慶応3年(1867年)5月に武力での討幕をめざす「薩土密約」を、6月には大政奉還をめざす穏便な「薩土盟約」を締結。西郷隆盛は相反する内容の契約の窓口となりました。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、朝廷が薩摩藩と長州藩に対して、将軍・徳川慶喜を討つよう「討幕の密勅」を下します。こちらは討幕派の公家による偽勅だという説もありますが、薩摩藩にとって討幕に向けた大きな一歩でした。

ところが同日、第15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に対して政権を朝廷に返上する「大政奉還」を奏上。大義名分がなくなった薩摩藩は大政奉還に対抗するため、王政復古のクーデターを企てます。隆盛も鹿児島から兵を率いて京都に向かい、王政復古の大号令と、その後決まった小御所会議での「徳川慶喜の辞官納地」決定に一役買いました。この際隆盛は新政府の参与職に任じられています。

その後、徳川家への余りの厳しい処分に同情が集まり、徳川家が復権しそうになります。このため討幕派は薩摩藩士たちを江戸に送り込んで騒乱事件を起こし、旧幕府軍を挑発。挙兵させることで、大義名分を得ての討幕を画策しました。

結局徳川慶喜ら旧幕府軍は薩摩藩を討伐するために挙兵します。こうして慶応4年1月3日(1868年1月27日)、「鳥羽・伏見の戦い」から始まる戊辰戦争が開戦しました。隆盛は鳥羽・伏見の戦いに参戦後、東海道先鋒軍を率いて江戸に向かいます。

静岡で3月15日の江戸城総攻撃に備えていた隆盛のもとに、勝海舟の使者・山岡鉄舟と説得役である薩摩武士の益満休之助が訪れます。休之助は江戸で旧幕府を挑発するために乱暴狼藉を働いた人物で、捕縛後海舟が身柄を引き取っていました。

隆盛は鉄舟に対し、徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける、江戸城を明け渡す、全ての軍艦や武器の引き渡し、家臣を謹慎させるなど7か条を要求します。鉄舟はおおむね条件を受け入れますが、「徳川慶喜の身柄を備前藩に預ける」の項目については「主君である薩摩藩主が同じ立場になったら他藩に平気で預けられるのか」と隆盛に反論しました。これを受けて隆盛はこの一条を取り消すと告げています。

3月13日・14日、隆盛は江戸で勝海舟と会談します。これが有名な「江戸開城談判」です。本題は3月14日に話し合われ、この時、勝海舟は江戸城引き渡しを申し入れるとともに、慶喜の水戸での謹慎を提案。隆盛はこれを受け入れました。

隆盛があっさり江戸の無血開城を引き受けた理由としては、英国公使ハリー・パークスからの圧力があったのでは、という説があります。パークスは3月13日、公使館を訪れた新政府軍の代表に対し、「恭順、謹慎している慶喜を討つのは万国公法に反する」と激怒したのです。「英国は薩摩の味方だったのでは…?」と思われる方もいるかと思いますが、英国としては日本の内乱が長引き、日英貿易に支障が出るのを避けたいという思惑がありました。

西郷隆盛の明治政府での立場と限界

明治政府成立後、西郷は参議として新政府の中枢に入り、廃藩置県の実施などにかかわりますが、徐々に体調を崩しがちになります。そんななか、明治6年(1873年)に、明治政府との国交を認めない李氏朝鮮に対し「征伐すべき」という征韓論が巻き起こりました。

征韓論では板垣退助が李氏朝鮮の討伐を訴えますが、隆盛は「自らが全権大使として朝鮮に赴き、直接交渉を行うべき」と主張します。実はこの時、明治政府の創設メンバーの岩倉具視、桂小五郎(木戸孝允)、大久保利通、伊藤博文らは「岩倉使節団」として欧米諸国に出向いており、隆盛、退助や三条実美が留守を預かる「留守政府」状態でした。この留守政府で隆盛の意見は受け入れられます。

ところが帰国した使節団のメンバーがこれに反対。使節として派遣される隆盛が殺害される可能性があること、内政改革を最優先にすべきであること、外征したところで兵力不足で敗退する可能性が高いことが理由でした。

結局隆盛の朝鮮派遣は中止となり、隆盛は新政府の役職を退き下野します。その後、薩摩に戻った隆盛は明治7年(1874年)、血気盛んな不平士族たちを統制しようと私学校を設立しました。その後、隆盛は自宅で穏やかな日々を送っていたのですが、再び表舞台に立つ時がやってきます。

西南戦争に参戦、悲劇の自決

明治9年(1876年)3月の廃刀令で刀を取り上げられ、8月の金禄公債証書発行条例で支給されていた「秩禄(給料)」を全廃されたことで、士族たちの明治政府に対する不満は爆発寸前で下。各地で反乱が起こるようになります。その集大成が明治10年(1877年)1月、私学校の生徒たちが鹿児島の鎮台の弾薬庫を襲撃したことをきっかけとした「西南戦争」でした。

私学校は政府から危険視されており、明治政府は警察官を潜入させていたのです。さらに、もとは薩摩藩のものだった鹿児島の陸軍の火薬庫から武器弾薬をこっそり接収したことが生徒たちの反発を招きました。加えて「明治政府が西郷隆盛の暗殺を企てている」という噂も生徒たちの怒りを買いました。

隆盛自身は当初、私学校生徒による襲撃は全く知りませんでした。当時、大隅半島で狩猟を楽しんでいた隆盛のところにその知らせが入ると、隆盛は「ちょしもた(しまった)」と叫んだという話が残っています。

その後、隆盛は鹿児島に戻り、明治政府を尋問するためという名目で挙兵します。隆盛がなぜ挙兵に加わったのかははっきりしておらず、西南戦争に参加してからの消極的な動きから、戦う意思はなく暴発した生徒たちに担ぎ上げられたとも、明治政府の自身の暗殺計画を知り戦いを決意したとも言われています。

明治10年(1877年)2月15日、隆盛は総勢1万3000人を率いて鹿児島を出発。2月22日、熊本鎮台のある熊本城を総攻撃しましたが、落とせませんでした。その後、熊本城は52日間の籠城戦を耐え抜き、隆盛は「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けた」と話したというエピソードが残っています。

戦局は政府軍優位で進み、西郷軍は次第に追い詰められます。激戦地となった田原坂の戦いでも官軍が勝利をおさめ、隆盛たちは鹿児島に逃げ戻ります。城山を占拠した300人余りの西郷軍を5万人の明治政府軍が包囲し、9月24日に最後の戦いが行われました。股と腹に弾を受けた隆盛はもはやこれまでと、別府晋介の介錯により首を落とされる形で自害しました(切腹したとも)。享年51歳でした。

そして上野の「西郷さん」像へ

西郷隆盛は死んだ当初は賊軍の敗将として扱われましたが、明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布と同年に特赦が行われ、明治天皇により正三位を贈られました。実は、明治天皇は若かりし頃隆盛と交流があり、人となりがお気に入りだったようです。

さらに明治23年(1890年)には親友の吉井友実らが隆盛の銅像作成を計画し、明治天皇もこれを後押しします。こうして明治31年(1898年)12月、上野公園に犬を連れた西郷隆盛像が誕生します。慶応元年(1865年)に結婚した3人目の妻・イトからは「こげんおひとじゃなか」と言われ、板垣退助は「作り直す」とまで言ったそうですが、銅像は今でも上野公園のシンボルとしてたたずんでいます。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。