生麦事件薩英戦争の原因となった幕末の外国人殺傷事件

生麦事件
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- 事件簿
- 事件名
- 生麦事件(1862年)
- 場所
- 神奈川県・鹿児島県
文久2年(1862年)8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現神奈川県横浜市鶴見区生麦)で薩摩藩の行列に遭遇したイギリス人が、薩摩藩士らに斬りつけられる事件が発生しました。「生麦事件」と呼ばれるこの事件がきっかけで、薩摩藩とイギリスの間で薩英戦争が起こり、薩摩藩が倒幕・開国に方針を転換することになります。今回は明治維新の引き金になったともいえる「生麦事件」について、詳しく解説していきます。
生麦事件の起こった時代
生麦事件が起こった文久2年(1862年)は幕末の動乱期の真っただ中でした。安政7年(1860年)3月3日、幕府の大老・井伊直弼が江戸城の桜田門外で水戸藩の脱藩浪士らによって殺害されると(桜田門外の変)、事実上の政権のトップを暗殺された幕府の権威は失墜。幕政は大混乱します。
桜田門外の変は直弼が安政5年(1858年)、天皇の許可を得ることなくアメリカ、オランダ、ロシア帝国、イギリス、フランスと修好通商条約を結んだことや、将軍跡継ぎ問題などで敵対していた一橋派や尊王攘夷論者たちを「安政の大獄」で弾圧したことなどが原因です。
特に条約については孝明天皇が強く批判していたため朝廷と幕府の関係は悪化してしまいました。そんななかで直弼が死んだため、直弼と対立していた一橋派の大名が幕政に再びかかわるようになります。
公武合体と文久の改革
暗殺された井伊直弼にかわって老中首座に就いたのは安藤信正でした。信正は朝廷の権威を幕府に取り込み、ともに政治をおこなう「公武合体」を進めていきます。公武合体により尊王攘夷運動が活発化し、揺れ動く世の中を落ち着かせようとしたのです。
公武合体策の代表が、文久元年(1861年)の将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻です。和宮の降嫁の裏で、朝廷は幕府に鎖国・攘夷を行うよう要求しており、幕府は10年以内に鎖国を復帰することを約束しています。
しかし、和宮の降嫁は尊王攘夷派の支持を得るどころか、幕府の権威を高めるために天皇家を利用したとみなされ非難の対象となります。そして文久2年(1862年)1月15日、江戸城の坂下門外で安藤信正が尊王攘夷派の水戸浪士6人に襲われる「坂下門外の変」が起こります。信正は負傷したものの生き残りますが、老中を罷免されてしまいました。
坂下門外の変があった後も公武合体の動きはとどまることはありませんでした。公武合体の中心は薩摩藩の島津久光。島津斉彬の弟で藩主・島津忠義の父であり、「国父」と呼ばれる薩摩の最高権力者でした。久光は大久保利通などを登用して京で政治工作を実施。文久2年(1862年)、公武合体運動を進めるため1000人の兵を率いて上京し、朝廷に働きかけます。
その結果、朝廷は幕政改革のための勅使を派遣させることを決定。幕府に「徳川家茂の上洛」「一橋慶喜を将軍の後見役に据え、前福井藩主の松平春嶽を大老につける」などを要求することを決めました。久光は勅使や兵とともに江戸に行き、幕府と交渉します。要求はおおむね受け入れられており、合わせて参勤交代の緩和などがなされています。しかし、朝廷の要求を幕府が受け入れたことで、幕府の力はさらに弱まっていくことになります。
要求を通した久光は大喜びで8月21日に江戸を出発。東海道経由で京に向かい、生麦を通りかかります。その時に起こったのが「生麦事件」でした。
生麦事件とはどんな事件だったのか
生麦事件は文久2年(1862年)8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村で発生した、薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。当時、生麦村には薩摩藩主島津茂久の父・島津久光の大名行列が通りかかっていました。率いた軍勢は400人余りで、江戸から京に戻る途中でした。
午後2時ころ行列は生麦村に差しかかりましたが、そこに馬に乗ったイギリス人4人が通りかかります。メンバーは横浜在住の生糸商人、ウィリアム・マーシャルと横浜のハード商会に勤務していたウッドソープ・チャールズ・クラーク。さらに、上海から訪日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンと、マーシャルの従姉妹で観光にやってきていたマーガレット・ボロデール夫人でした。
この日は日曜日だったので、イギリス人達は川崎大師まで馬に乗って出かけようとしていました。また、東海道で乗馬を楽しんでいた、とも言われています。そしてイギリス人たちは行列と遭遇。行列の中を馬で進んでいきました。
やがて久光の駕籠が見えてきます。薩摩藩士たちは身振り手振りで馬を降りて道を譲るようにと話したものの、日本語だったためイギリス人には通じません。そのためイギリス人達は駕籠のすぐ近くまで近づいてしまいます。駕籠を警護していた薩摩藩の武士が4人を止めたので慌てて馬の向きを変えようと動いているうちに、馬が駕籠に近づいてしまいました。
それを見た薩摩藩士たちは抜刀。まずリチャードソンが切り付けられ、その後、大勢の侍たちが一斉に切りかかってきました。リチャードソンは馬で逃げるも落馬し、そこで藩士にとどめを刺されます。一方マーシャルとクラークは深手を負うも何とか逃げきり、当時アメリカ領事館だった本覚寺(神奈川県横浜市神奈川区)に逃げ込み、米国人宣教師で医師のジェームス・カーティス・ヘボンの診察を受け一命をとりとめました。
ボロデール夫人は軽症でうまく逃げのび、横浜居留地までたどり着き事件を報告して助けを求めました。訴えを聞いた居留民たちが生麦に向かったところ、リチャードソンの遺体を発見ししました。遺体は船で居留地に送られました。
生麦事件②薩摩藩の「嘘」
一方、島津久光の行列は外国人たちを警戒してか、神奈川宿に泊まる予定を変更し、さらに先の保土ヶ谷宿に宿泊しました。そこへ生麦村の村役人たちから報告を受けた神奈川奉行所が事情聴取をしようとするも、薩摩藩側は「攘夷派の浪人が出てきて外国人を襲ったので薩摩藩は無関係」と嘘を報告。神奈川奉行所が引き止めますが、翌日には保土ヶ谷宿を出発して京に向かってしまいました。
その後、報告を受けた老中の板倉勝静が薩摩藩江戸留守居役に再度事情を尋ねますが、薩摩藩は「足軽の岡野新助というのものが勝手にやったことで、逃げてしまい今も行方不明だ」と嘘をつきとおしました。ちなみに岡野新助は架空の人物ですから探したところで見つかりません。
当時の記録などによれば、薩摩藩士で当番供頭の奈良原喜左衛門が最初にリチャードソンに切りつけ、その後鉄砲組の久木村治休が致命傷を与え、海江田武次がとどめを刺したようです。
生麦事件③なぜイギリス人は殺害されたのか?
それではなぜイギリス人は切りつけられてしまったのでしょうか。それには当時の江戸時代のマナーが関係していました。大名行列に遭遇した場合、相手は下馬するのが常識で、無作法があった場合は「切捨御免」、つまり武士に切りつけられても仕方がなかったのです。江戸時代の日本人にとっては当たり前の対応ですが、イギリス人一行はそうした習慣や法律に詳しくなかったとも、侮って無視したとも言われています。
実は、一行の前にアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードが久光の行列に遭遇しています。米国人宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンに師事していた林董によれば、リードはすぐに馬から降りて口をとり、道のわきによって脱帽して敬礼しており、無事に行列をやり過ごしています。このためリードは林董に「日本の風習を知らないで無礼を働いて災いを被るのは自業自得」とコメントしたのだとか。
林董自身も、事前に久光の行列が通行することはイギリス人4人は知っており、「危険があるから近寄らないよう」とアドバイスを受けたのに「アジア人の取り扱い方はよく心得ているから心配ない」といって東海道に向かったことを非難しています。つまりイギリス人側からは「日本文化を知らないイギリス人の自業自得なのでは」という意見が一定数あったことがわかります。
生麦事件④イギリスが賠償金を要求
もちろんそんな見方をする人々は少ない方で、居住地のイギリス人には「久光の行列を追いかけて武力行使すべき」と強硬な意見を述べる人が多くいました。しかし、代理公使を務めていたジョン・ニール大佐は「戦争になるから外交ルートで抗議すべき」と彼らを必死に落ち着かせます。このせいでニールは「臆病者」扱いされましたが、後にイギリス本国はニールの判断を支持しています。
事件から2日たった8月23日、ニールは横浜で外国奉行・津田正路と会談し、抗議とともに犯人の逮捕と賠償金の支払いを求めました。さらに8月30日には老中・板倉勝静の江戸屋敷を訪問して勝静とおなじく老中の水野忠精と交渉しています。ただし、この際賠償金については本国の指示待ちとなっていたようで、交渉のテーブルには出していません。
生麦事件の情報を得たイギリス本国では、ロンドンの国会で対応が話し合われました。そして文久3年(1863年)1月、ニールのもとにイギリス本国の外務大臣、ジョン・ラッセルからの訓令が届きます。これに基づき、ニールは幕府に対して謝罪と10万ポンド(40万ドル)の賠償金の支払いを要求。さらに薩摩藩に対しては賠償金2万5000ポンド(10万ドル)の支払いと犯人の公開処刑を求めました。
さらにイギリス議会は外交ルートによる解決ができない場合、軍事力による圧力も辞さない方針を示していました。このため横浜には艦隊が集結。しかもイギリスだけでなく、フランス・オランダ・アメリカの合計4ヶ国の艦隊が横浜に並びました。
生麦事件⑤幕府が賠償金を支払う
当時、徳川家茂は上洛して京におり、天皇から「まだ鎖国はしないのか」とせっつかれていました。江戸に戻ろうとするも朝廷が許可を出さなかったため、急遽老中格の小笠原長行が京から急いで戻ってきて対応することになりました。
イギリスとの賠償金を支払うべきか否かで、幕府の首脳陣は大いにもめました。そもそも薩摩藩の責任なのになぜ幕府が払う必要があるのか、というわけです。しかし、イギリス側は「条約締結国の安全を確保するのは日本政府の責任」と主張し、江戸幕府にも賠償金を求めました。
支払いについては一度は約束したものの延期したり中止されそうになったり、紆余曲折がありました。ニールは幕府の煮え切らなさから一度は艦隊に戦争の準備をするよう命じています。結局、5月9日に賠償金は小笠原長行の独断で支払われました。現場に近い外国奉行の意見を採用し、戦争回避に動いたのです。しかし、これにより長行は老中を罷免されました。
生麦事件⑥薩摩藩は支払いを拒否、薩英戦争勃発
一方、生麦事件の主犯である薩摩藩はといえば、イギリスの賠償金支払いを拒否し続けていました。天皇の許可なく締結した条約は無効であり、そもそも悪いのは大名行列に入り込んだイギリス側である、というわけです。しかも犯人については「逃亡しており行方不明」を貫きました。
このため7隻の船からなるイギリスの艦隊は6月22日に横浜を出発。艦隊は6月28日早朝に鹿児島湾に到着し、賠償金と犯人の引き渡しを要求しますが、薩摩藩は徹底抗戦の構えでした。
そして7月2日、イギリス艦隊が薩摩藩船3隻を拿捕したことをきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃し、薩英戦争が始まりました。交戦は3時間ほどで、薩摩藩側は鹿児島市街が砲撃され炎上、500戸あまりが焼失しました。双方死者も出ており、イギリス側も沈んだ船はなかったものの、艦長クラスが亡くなっています。
その後、7月4日にイギリス艦隊が鹿児島湾から横浜に向かったことで戦争は終結します。9月から横浜のイギリス公使館で戦後処理が始まり、薩摩藩は10月29日、2万5000ポンドをイギリス側に支払うことで同意しました。ちなみに犯人については「逃亡中」を貫き通しました。
薩英戦争でイギリス艦隊を一隻も沈められず、甚大な被害を被った薩摩藩。イギリス、ひいては外国の軍事力の高さを深く感じました。実は戦後処理のさなか、イギリス側に「軍艦を購入したいので仲立ちしてほしい」と依頼しています。また、イギリス側としても自らに打撃を与えた薩摩藩を評価し、戦争後も良好な関係が続いていくことになります。
こうして薩英戦争後、薩摩藩では攘夷の声は下火になり、むしろイギリスと協力して倒幕・開国へと方針を大きく変えることになったのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。