薩長同盟倒幕へと続く密約は坂本龍馬の成果なのか

薩長同盟

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事件簿
事件名
薩長同盟(1866年)
場所
京都府

慶応2年(1866年)1月、敵対していた薩摩藩と長州藩は京都で倒幕を視野に密約を結びました。「薩長同盟」と呼ばれる密約は、幕末史における転換点となり、倒幕、ひいては明治維新へとつながります。同盟を仲介した人物として坂本龍馬の名が広く知られていますが、近年ではそこまで龍馬は貢献しなかったのでは?との説が有力です。今回はそんな薩長同盟について、分かりやすく解説していきます。

幕末の政局と薩長の対立

幕末の日本は黒船来航以来、朝廷・幕府・雄藩の提携を志向する「公武合体派」と、公家を頂点にした政治体制を主張し、外国人排斥を訴える「尊王攘夷派」が争っていました。このうち公武合体派の中心が薩摩藩、尊王攘夷派の中心が長州藩でした。

薩摩藩では文久2年(1862年)春、薩摩藩主島津茂久の父・島津久光が上洛し、幕政改革を主導。尊王攘夷派を抑えつつ公武合体を推進しました。久光の上洛帰りの8月21日に起こったのが、薩摩藩の行列に遭遇したイギリス人が薩摩藩士らに斬りつけられた「生麦事件」です。

イギリス側は薩摩藩に賠償金の支払いを求めますが薩摩藩は拒否したため、文久3年(1863年)7月に薩英戦争が勃発。鹿児島城下が焼失するなど甚大な被害を受けた薩摩藩はこの戦争を通じて外国の圧倒的な軍事力を目の当たりにし、攘夷思想の限界を痛感しました。

戦後、薩摩はイギリスに賠償金を支払って和解し、武器・蒸気船を購入するなど、積極的な近代化と富国強兵政策にかじを取りました。さらに薩摩藩士の五代友厚らが横浜でイギリス商人のトーマス・グラバーと交易関係を築き、近代兵器・蒸気船導入を推進し、本来必要であった幕府の経由を無視して密貿易する「半独立的」な動きを強めました。

一方の長州藩は、尊王攘夷を掲げ、朝廷の急進的な尊王攘夷派の公家たちと京都を中心に勢力を拡大。幕府が文久3年(1863年)5月10日を攘夷の決行日とすると決めたことから、同日関門海峡を通過するアメリカ商船に砲撃して海峡を封鎖し、その後も外国船に次々と砲撃を加えました(下関事件)。

長州藩は6月に米仏の報復を受け敗北しますが、攘夷は継続しました。このため、孝明天皇や薩摩藩、会津藩などによる八月十八日の政変で、公卿達とともに京を追われます(七卿落ち)。

長州藩は巻き返しを図ろうと元治元年(1864年)7月19日、禁門の変(蛤御門の変)を起こしますが、薩摩・会津連合軍に敗北。これにより長州藩は「朝敵」とされ、朝廷が長州藩の追討命令を下すこととなります。

幕府は第一次長州征伐に乗り出しますが、この際薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀らは長州藩への処分を軽くするよう働きかけました。薩摩藩は、幕府が戦いの先鋒に薩摩軍を据えて弱体化させようと企んでいるのでは?と疑っていました。禁門の変等で長州藩士たちの薩摩藩への怒りは相当なもの。まともに闘えば被害は拡大し、戦費も相当なものになるのでは…と考えたのです。

結局第一次長州征伐は11月に長州藩が降伏し、禁門の変の責任者として三人の家老が切腹することで幕を閉じ、無血降伏となりました。

その後、長州藩はこうした動きに反発した高杉晋作がクーデターを起こしたのをきっかけに内戦が起こります(元治の内乱)。内乱に勝利したのは晋作たち急進的攘夷派でしたが、晋作は「攘夷」から「開国・倒幕」へと方針を転換します。

実は第一次長州征伐の裏側で、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が下関を砲撃する「四国艦隊下関砲撃事件」が起こっていました(8月5日)。8月14日に講和が成立しますが、この際使節を務めたのが長州藩家老・宍戸備前の養子の「宍戸刑馬」と身分と名を偽った高杉晋作でした。この経験から晋作らは攘夷の限界を悟り、尊王思想はそのままに倒幕へと突き進んでいくのです。

その後、長州藩はイギリスと接近して富国強兵に努め、知識や技術を得るとともに武器を輸入し、藩の近代化に務めていきます。

薩長同盟前夜①岩国藩が水面下で仲介

薩摩藩と長州藩は、ともに欧米列強との戦に負け、攘夷をあきらめ富国強兵にかじを切ったという共通点がありました。薩摩藩としては当初は幕府を支えるべく公武合体運動にまい進していましたが、イギリスとの関係性を幕府から危険視されたことや、幕政改革に関して徳川慶喜の幕府中心路線と、雄藩連携を志向する薩摩の構想が対立したこと、なにより「長州の次は薩摩が狙われるのでは?」との危機感から、西郷隆盛や小松帯刀、大久保利通のもと、倒幕にかじを切っていきます。

一方の長州藩としては、木戸孝允のもと、敵対する幕府を倒し、天皇中心の国家運営を目論見る「尊王倒幕」に進んでいこうとしていました。

しかし、これまでの因縁で敵対関係にある両藩がそう簡単に結びつくはずはありません。ここでひっそりと活躍したのが、長州藩の実質上の「支藩」だった岩国藩です。

岩国藩の藩主は関ヶ原の戦いの際、徳川方と「兵を動かさないが毛利氏の所領安堵を保証してほしい」と密約を交わした吉川氏。このため、吉川氏は毛利本家から睨まれ、支藩ではなく岩国「領」扱いされていました。とはいえ、幕府からは3万石の「外様大名格」とみなされていましたが…。

この岩国藩、第一次長州征伐の際に長州側に立って西郷隆盛と交渉し、その後もトップの吉川経幹が両藩をつなぐ緩衝役として働き続けました。経幹は薩摩側の要望を長州藩の幹部に伝える一方、薩摩側に長州藩の減刑を求める周旋を願っています。

ちなみに岩国藩は幕末の働きが評価され、明治元年(1868年)に領から藩へと昇格しています。

薩長同盟前夜②中岡慎太郎と坂本龍馬

薩長の融和を進めたキーパーソンの一人が元土佐藩藩士の中岡慎太郎です。坂本龍馬とともに近江屋で暗殺された人物として知られていますが、慎太郎は当時、八月十八日の政変で長州藩士たちとともに京を去った、「七卿落ち」で知られる公卿らの従者を務めていました。慎太郎は西郷隆盛や七卿の一人・三条実美、長州藩の木戸孝允等と交流し、薩長融和を説いています。

また、薩摩藩に身を寄せていた元土佐藩藩士の坂本龍馬も薩摩方に立ち、長州藩との融和に努めました。龍馬は文久3年(1863年)から勝海舟と神戸海軍操練所の設立に尽力し、その際に西郷隆盛と知己を得ていました。

元治元年(1864年)に設立された操練所でしたが、長州同情者が多いなどの理由で慶応元年(1865年)に廃止されてしまいます。メンバーは勝海舟の働きかけにより、薩摩藩の小松帯刀に引き取られることになりました。薩摩藩は薩英戦争や、幕府からの借用船が長州藩からの砲撃により犠牲になったことなどから、海軍が壊滅状態だったため、航海術を身に着けた操練所メンバーの引き受けは好機でした。

そんななか、以前から長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作らと交流があった龍馬は薩摩藩にとって、長州藩との窓口に最適な人物でした。こうして龍馬は薩摩藩士として長州藩に赴き、融和路線を探っていくこととなります。

薩長同盟前夜③幕府が第二次長州征伐の勅許を得る

こうした薩長の融和がひそかに進むなか、幕府は第二次長州征伐へとかじを切っていました。元治の内乱により長州藩の実権を握った高杉晋作ら尊王倒幕派の動きを警戒したのです。

幕府は長州藩主の毛利敬親と息子の元徳に江戸で状況を説明するよう求めますが、長州藩はこれを拒否。幕府は1月22日、広島に詰問使を送って処分を受け入れ、藩主父子の蟄居を命じますが、長州藩はのらりくらりと時間稼ぎをして受け入れようとしません。実は長州藩は、恭順を示しつつ軍備拡張を続ける「武備恭順」を進めていたのです。

当時外国との通商は幕府を経由する必要がありましたが、長州藩はこっそり上海で船をアメリカ人に売り払い、そのお金でゲベール銃を購入して戻りました。ところがこれがオランダ経由で幕府にばれます。このため幕府は長州藩に「不容易企」があるとし、長州再征を朝廷に奏上すべく将軍徳川家茂の進発を宣言します。5月16日、大坂に向かって出発し、天皇に第二次長州征伐の勅許を出してもらえるよう朝廷に働きかけます。

この動きを察した大久保利通も朝廷に働きかけて何とか動きを止めようとします。駆け引きの結果、幕府は9月にようやく再征勅許を得ることができました。

ちなみに再征勅許を得るまで、幕府は何度も長州藩に関係者の出頭を命じていますが、長州藩は病気などを理由にすべて拒否しています。

薩長同盟前夜④長州藩、薩摩藩の「名義貸し」で武器をゲット

幕府が第二次長州征伐の準備を進める裏で、長州藩は迎え撃つための準備に必要な武器の購入を企てます。それを助けたのが薩摩藩でした。

長州藩は坂本龍馬に仲介を頼み、薩摩藩に名義貸しでの武器購入に助力してもらえるよう願ったのです。結果、長州藩はグラバーを通じ、薩摩名義で軍艦・ユニオン号や最新鋭のミニエー銃や銃砲弾薬を購入することに成功しました。

一方、薩摩藩は京にいる多くの兵士のための兵糧米が不足していました。これに対し、米の生産が盛んな長州藩は薩摩藩の恩に報いるために兵糧米を提供しています。こうした実務的支援が両藩の信頼を深め、同盟の下地となりました。

薩長同盟① 薩摩と長州が手を組む

第二次長州征伐が命じられるなか、薩摩藩と長州藩は中心人物同士の会談により、より関係を強固にしようと考えていました。坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介も功を奏し、ついに慶応2年(1866年)1月、京の小松帯刀の別邸「御花畑」で会合が開かれます。出席者は長州藩側が木戸孝允、薩摩藩側が小松帯刀と西郷隆盛です。

1月18日の会合では双方の主張が決裂して同盟は成立しませんでしたが、物別れとする説のほか、一部合意があったとする説もあります。薩摩藩側が幕府の処分案を受け入れるよう諭す一方、長州藩側は第一次長州征伐により処罰を受けているのでこれ以上は受け入れがたい、と主張しました。加えて、薩摩藩の周旋不足を非難しています。

ここでいう「処分」とは?という話ですが、実は同年1月19日に幕府が長州藩の処分案を最終決定し、22日に天皇に奏上、同日勅許が下されていました。内容としては10万石の石高減、藩主親子の蟄居などです。

この処分案を認めるということは、長州藩の有罪が確定するということ。長州側としては「幕府が攘夷決行日を決めたのに従って下関事件を起こした」「八月十八日の政変は冤罪」との認識ですから、追加処分を受けるのはありえないことでした。

本来ならばその後、帯刀と隆盛は薩摩藩に帰るはずでしたが、急遽京に残ることになり、会談が1月21日に再度行われます。ここで実質的な同盟内容がまとめられましたが、口頭での確認のみでした。なお、本来ならば20日に京についてた坂本龍馬もこの場に加わるはずでしたが、風邪で欠席しています。

翌1月22日、孝允の求めに応じて参加した坂本龍馬の同席のもと、内容をブラッシュアップして6カ条にまとめました。これをまとめて孝允が龍馬に書簡として送ったものが、現在残る「薩長同盟」の六カ条です。龍馬は盟約の内容を保証するため、2月5日に薩摩藩の京都藩邸で裏書(現存:宮内庁書陵部)をしています。

薩長同盟②6カ条の内容・本当は軍事同盟ではなかった

それではいよいよ「薩長同盟六ヶ条」を見ていきましょう。6条を要約すると以下の通りです。

1.薩摩藩は幕府と長州藩の戦争が発生した場合、2000の兵を京に向かわせ、京にいる兵士とともに京と大坂に置く
2~4.長州藩が戦で勝利した場合/負けそうな場合/そもそも戦争が起こらなかった場合も、薩摩藩は朝廷に対し、長州藩の冤罪を訴え続ける
5.軍(※幕府軍・長州軍など諸説あり)が兵を上京させ、一橋・会津藩・桑名藩の「一会桑」が朝廷を擁して長州藩復権という正義を拒み、そのための周旋活動を妨害した場合は「決戦」に及ぶしかない
6.長州藩の冤罪が晴れたうえで、両藩は積極的に協力して皇国のために粉骨砕身し、皇威が輝き回復することを目標に尽力する

薩長同盟は「倒幕のための軍事同盟」というイメージが強いですが、実際のところは長州の冤罪回復と相互支援を骨子とする合意でした。長州藩にとって、この時点で何よりも大切なのが「冤罪を晴らすこと」だったのです。

薩長同盟から明治維新へ

薩長同盟が締結されたのちの慶応2年(1866年)6月、幕府は第二次長州征伐を開始しますが、薩摩藩は幕府軍への参加を拒絶。さらに征伐中に大坂にいた徳川家茂が急死したことで、幕府軍は瓦解し、長州藩の事実上の勝利で戦は終結しました。

これにより幕府の権威は完全に失墜。薩摩藩と長州藩は薩長同盟での関係性を保ちながら、大政奉還を経て王政復古のクーデターへと突き進んでいくのでした。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。