坂本龍馬薩長同盟や亀山社中で知られる幕末の風雲児は何をしたのか

坂本龍馬

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人物記
名前
坂本龍馬(1836年〜1867年)
出生地
高知県
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高知城

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幕末の混乱のなかで薩長同盟の成立にかかわり、商社「亀山社中」を設立し、船中八策を起草したと言われ、最後は暗殺された幕末の風雲児、坂本龍馬。さまざまな伝説を持つ幕末の英雄ですが、近年の研究により、エピソードに後世の創作が多いことが分かってきています。今回は坂本龍馬の生涯について、史実や創作を整理しつつ紹介していきます。

坂本龍馬、土佐郷士の息子として誕生

坂本龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐藩高知城下の郷士の家に4人の兄弟の末っ子として生まれました。郷士とは下級武士(下士)のことです。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで豊臣方に就いた長宗我部氏は改易され、代わって山内一豊が20万2600石で入りました。この際、山内氏の家臣たちは「上士」、長宗我部氏の遺臣など在郷の武士たちはほとんどが「郷士」となりました。郷士は上士とは明確な身分差があり、差別されていました。とはいえ、坂本家の本家は才谷屋という豪商で、龍馬は裕福な家庭で育ちました。

少年期の龍馬については三女で姉の乙女に懐いており、「鼻たれで寝小便をしていた」というエピソードが残っています。これは龍馬が乙女に宛てた手紙の中で、自身を「昔のはな垂れ小僧」と表現した記述がもとになったとされ、後年の創作だと考えられています。

勉強嫌いだったという説もありますが、龍馬は12歳のころから楠山塾に通っていました。しかし、長くは続かず、一説によれば、上士の塾生とのトラブルが原因で、上士に配慮した父が辞めさせたとされています。

江戸遊学と黒船来航の衝撃

14歳になると、龍馬は日根野道場に入門します。成長するにつれて剣術修行への関心を強め、藩の許可を得て嘉永6年(1853年)、19歳の時に江戸へ剣術修行に出かけました。北辰一刀流の千葉定吉道場に入門した龍馬でしたが、その年に浦賀に黒船が来航します。品川の沿岸警備を任された龍馬は、家族に「戦争になったら異国人の首を取る」と攘夷思想を思わせる内容の手紙を送っています。

安政元年(1854年)に龍馬は土佐に帰国。絵師で、ジョン万次郎から事情を聴取して『漂巽紀畧』を記した思想家の河田小龍のもと、国際情勢について学びました。このとき小龍から貿易の重要性を聞き、感銘を受けています。

土佐勤王党を経て、脱藩

文久元年(1861年)、27歳の龍馬は親戚で朋友の武市瑞山が率いる、尊王攘夷派の「土佐勤王党」に加盟します。文久2年(1862年)1月には、瑞山の密書をもって長州藩の尊王攘夷派・久坂玄瑞を訪問しました。その際玄瑞から「諸侯も公家も頼りにならない。草莽の志士(=在野の志ある人々)が立ち上がり天下を動かすべき」と説かれて、大いに賛同しています。

2月に土佐に戻った龍馬は、3月に土佐藩を脱藩します。脱藩した理由は諸説あり、土佐勤王党による参政・吉田東洋暗殺計画に加担したくなかったからとも、瑞山のために諸藩の情報を得ようとしていたからとも、土佐勤王党が「藩」全体で勤王を行う方針である一方、龍馬は藩の枠にとらわれない活動をしたかったからとも言われています。

また、文久2年(1862年)2月は薩摩藩の島津久光が公武合体のために上洛を計画しており、土佐藩にもその情報は伝わっていました。尊王攘夷派はこの上洛を討幕のためと勘違いしており、これに加わるために龍馬は脱藩した、という説もあります。

文久2年(1862年)3月24日、坂本龍馬は同志の沢村惣之丞とともに土佐藩を脱藩します。脱藩は藩法上死罪に相当する重罪で、龍馬は以後、土佐藩に追われることになります。

勝海舟との出会いと「日本をせんたく」

脱藩後の龍馬は京都を経て長州や薩摩に移動したようですが、この頃の動きははっきりとは分かっていません。秋には江戸に戻り、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作と交流。幕府海軍奉行並・勝海舟のもとを訪れて門人となりました。

実は、龍馬は勝海舟を斬ろうとして訪問したのですが、勝海舟から世界情勢と海軍力、航海術の重要性を説かれ、深く感銘を受けて門人になった、という話が伝わっています。これは海舟がのちに語った内容や本に基づくものですが、実際には松平春嶽の紹介状を持った正式な訪問だったことが分かっています。このため近年では、暗殺未遂説は海舟の回想による誤認とする見方が有力です。

その後、文久3年(1863年)2月25日、海舟のとりなしにより龍馬は土佐藩主の山内容堂と面会し、脱藩の罪を許されます。その後、龍馬は海舟の元、神戸海軍操練所設立のために奔走します。同年6月29日、龍馬は姉の乙女への手紙のなかで「日本を今一度せんたく(洗濯)致し候」と書いており、龍馬の熱意のある血気盛んな様子が現れています。

この手紙は同年5月10日、幕府が定めた攘夷決行日に長州藩が関門海峡で外国船を砲撃した下関事件について触れており、幕府の要人と内通した奸吏により、長州藩との戦いで傷んだ外国船が江戸で修理されていることに対する批判が記され、それを受けての「洗濯」の一言でした。

元治元年(1864年)5月21日、神戸海軍操練所が置かれ、おなじく海舟の私塾(神戸海軍塾)も開設されました。龍馬は神戸海軍塾塾頭として活躍しますが、土佐藩により土佐に戻るようにとの連絡が来てしまいます。龍馬は2度目の脱藩を行ってこれを拒否しました。

ところが、同年6月5日の池田屋事件で、新選組に討伐された尊王攘夷派の志士たちの中に海軍操練所の人間がいたこと、7月19日の禁門の変の際、長州方に海軍操練所の生徒が参加していたことなどから、11月に勝海舟は責任を取らされ、軍艦奉行を罷免されます。操練所は反幕派の巣窟とみなされ、慶応元年(1865年)3月に閉鎖されてしまいました。

亀山社中と薩長同盟

勝海舟は龍馬たち塾生の庇護を薩摩藩の小松帯刀に託します。薩摩藩としても、航海術の知識を持つ塾生は藩の役に立つと考え、彼らを受け入れました。

慶応元年閏5月(1865年6月〜7月)、龍馬は薩摩藩の援助のもと、長崎で商社「亀山社中」(当時は「社中」と呼ばれていた)を立ち上げます。亀山社中は貿易、運輸、武器調達などを手がける実務的な集団で、同時に討幕を見据えた結社でもありました。このため薩摩藩、長州藩の武器や艦船の輸入の仲介もしています。ただし、結成当時に龍馬が長崎にいなかったとする説や、後年に伊藤博文が「亀山社中は存在しなかった」と述べた記録もあり、組織の実態については現在も議論されています。

龍馬は亀山社中を通じて、薩長同盟の重要性を説きました。長州藩の桂小五郎と知己を得た龍馬は、同志の中岡慎太郎に説得された薩摩藩の西郷隆盛と小五郎を引き合わせます。

慶応2年(1866年)1月、京の小松帯刀の別邸「御花畑」で薩摩藩と長州藩の会合が開かれ、薩長同盟が結ばれました。ただし、討幕のための軍事同盟というよりは、「八月十八日の政変」という長州藩の冤罪の回復と相互支援の合意にとどまっています。

また、通説では「龍馬が薩長同盟を実現させた」と言われており、会合の当日、同盟を渋る西郷隆盛と桂小五郎を𠮟りつけた、と言われています。しかし、近年は薩長同盟は小松帯刀と桂小五郎が直接交わした盟約で、龍馬の役割は限定的であり、盟約の場に龍馬は立ち合っておらず、小五郎が後日薩長同盟の裏書を龍馬に頼んだだけ、という説や、そもそも慶応元年9月に同盟は締結していた、という説が出されています。

小説では龍馬が薩長同盟のキーパーソンとされていますが、実際は龍馬以外の周旋活動も功を奏しており、龍馬は薩摩藩サイドに立って長州藩を説得するのが仕事でした。薩長同盟の成立は龍馬がメインというより、成立を円滑にする調整役として働いていたようです。

寺田屋事件で危機一髪

そんな龍馬ですが、薩長同盟設立直後の慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京都伏見の寺田屋において幕府伏見奉行捕方の捕縛を受けそうになり、銃撃戦の末に負傷しながら脱出します。いわゆる「寺田屋事件(寺田屋遭難)」です。

この際、龍馬の恋人(すでに内祝言を挙げていたという説も)のお龍が風呂から裸で裏階段を駆け上がり、2階にいた龍馬たちに危機を知らせたといわれています。龍馬は薩摩藩邸に逃げ延び、けがを治すため鹿児島に移って潜伏しました。これは日本初の新婚旅行と言われています(小松帯刀が日本初との説もあり)。

海援隊の設立

慶応2年(1866年)6月、第2次長州征伐のさなか、龍馬は鹿児島のユニオン号を長州藩に届けます。ユニオン号は「乙丑丸」と名を変え、高杉晋作らとともに長州藩の勝利に貢献しました。

軍備強化を急いでいた土佐藩は、薩摩藩や長州藩にパイプがある龍馬に目を付けます。慶応3年(1867年)1月、参政・後藤象二郎と龍馬は長崎で会談し、その結果龍馬の脱藩は正式に赦免され、龍馬は土佐藩に復帰しました。

亀山社中は土佐藩の外郭組織「海援隊」として再編され、龍馬は海援隊の隊長になりました。海援隊は運輸や交易、開拓、射利(利益追求)、土佐藩のサポートなどが目的だったほか、政治や航海、語学を学ぶ結社でもありました。脱藩者でも海外事業に志があるものであれば入隊が可能で、陸奥宗光などもメンバーでした。なお、同年7月には中岡慎太郎が陸援隊を組織しています。

海援隊で有名なのが、慶応3年4月に発生した、海援隊のいろは丸と紀州藩船が衝突する「いろは丸沈没事件」です。このとき龍馬は「万国公法」を理由に紀州藩を追求し、賠償金をもぎ取っています。

船中八策と大政奉還

龍馬が海援隊で活躍するなか、薩摩藩や長州藩は武力での討幕に向かい活動を激化させていきました。土佐藩も薩摩藩と「薩土密約」と「薩土盟約」を結びます。5月21日に結ばれた薩土密約は武力討幕のためのもの、6月下旬に結ばれた薩土盟約は平和的手段で公議政体に移行するために、幕府が朝廷に政権を返上する「大政奉還」を目指すものです。土佐藩は担当者が異なりますが、薩摩藩は小松帯刀や西郷隆盛が窓口となり、相反する方針を並行して進めました。

薩土盟約で提案された大政奉還ですが、これは龍馬が長崎から藩船の「夕顔」で上京する途中、後藤象二郎に船内で語った「船中八策」に出てきた内容だとされています。内容は大政奉還に加え、上院・下院の二院制議会の解説、官制改革、条約の改正、新たな憲法の制定、海軍の拡張などの8項目からなりました。象二郎はこれを前土佐藩主の山内容堂に献策し、容堂は徳川慶喜に進言した、とされています。加えて船中八策は明治政府の五か条の御誓文や、その後の自由民権運動に影響を与えたとも言われています。

ところが龍馬自身の自筆史料が見当たらないことや近年の研究により、船中八策は後世の創作だった可能性が高いと言われています。とはいえ、龍馬は大政奉還後の慶応3年11月、新政府設立のための政治綱領として船中八策と類似の内容を「新政府綱領八義」として起草しており、こちらは原文が残されています。さらに、上京後、龍馬は大政奉還の実現に向けて土佐藩の重臣たちを説得するなど積極的に動いていました。こうしたことから、龍馬が大政奉還を後藤象二郎に告げた可能性は高いのではないか、との説もあります。

龍馬の裏での働きかけもあり、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を奏上して政権を返上しました。

近江屋事件で暗殺される

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は京都河原町の近江屋にいました。陸援隊の中岡慎太郎と話していたところ、十津川郷士と名乗る男たちが面会を求めてやってきます。従僕が取り次いだところ、男たちは龍馬たちのいる2階に上がり、龍馬に突如斬りかかりました。突然の襲撃に対応できず、龍馬は前頭部を斬られます。奥の床の間の刀をとって反撃しようとしますが、さらに前頭部を斬られました。

同席していた慎太郎は両手両足を斬られて倒れましたが、死んだふりをしていたところそのまま見逃されました。史料などによれば、龍馬は医者を呼べ、と告げたのちに「脳をやられたからもうだめだ」といって倒れ、そのまま死亡。33歳でした。

慎太郎は屋根を伝って隣人に助けを求めていたところを発見され、数日間は生き延びました。慎太郎により襲撃された際の状況は薩摩藩や陸援隊たちに伝えられました。慎太郎は討幕を訴えつつ11月17日に死亡します。

近江屋事件の実行犯については京都見廻組説の佐々木只三郎らが有力とされますが、新選組による犯行だったという説もあり、確定には至っていません。

また、黒幕については討幕派とつながる龍馬を危険視した幕府説、武力討幕を主張していた薩摩藩の一派説、大政奉還の功績を奪おうとした土佐藩説、いろは丸事件を恨んだ紀州藩説とさまざまな説があり、幕末政局の緊張が最高潮に達する中で、藩を越えて動く龍馬の存在が、多方面から危険視されていたことが分かります。

龍馬が暗殺されたのち、王政復古の大号令を経て、旧幕府軍と新政府軍が争う戊辰戦争が勃発します。戦争の結果旧政府軍は敗れ、明治政府が設立し、新体制がスタートしました。龍馬はしばらく歴史から姿を消しますが、明治時代前期にジャーナリストで自由民権運動家の坂崎紫瀾が『汗血千里駒』で口伝などをもとに伝記を書き、現在の龍馬の姿に影響を与えました。また、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は現在の龍馬像に大きな影響を与えています。

関係する事件
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。