天草四郎(2/2)島原の乱で散ったキリシタン
天草四郎
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戦国時代が終わり、天下統一された当初は布教が制限されつつも認められていたキリスト教ですが、江戸時代になると締め付けが厳しくなり、ついにキリシタンは弾圧される事態になります。
しかし、布教や信仰を禁止する頃には武士以外にも、多くのキリシタンが存在しており、弾圧に反発した九州の島原で大規模な反乱がおこりました。島原の乱を率いたと言われる天草四郎について紹介します。
天草四郎という名について
天草四郎は、元和7年(1621)ごろに生まれたとされています。熱心なキリシタンで、島原の乱における一揆軍の中心人物だったとされています。
本名は益田時貞(ますだときさだ)です。キリスト教における洗礼名については、当初「ジェロニモ(Geronimo)」と名乗っていましたが、のちに「フランシスコ(Francisco)」に改めています。この記事では、一般的によく知られているは天草四郎で統一します。
幼少期から島原の乱前夜
天草四郎は九州の肥後国宇土郡江部村(現在の熊本県宇土市旭町)で生まれ育ち、島原の乱がおこる直前には、父に伴われて大矢野村の親戚のもとに行ったと言われています。
彼が肥後で生まれたことについては、ドアルテ・コレテの手記からも確認できています。
学問修養のために何度か長崎を訪れ、島原の乱直前に父に伴われて天草へ移ったといわれています。キリスト教には長崎で入信したと推測されますが、詳細は分かっていません。
なお信憑性が低い説として、四郎が長崎の浜町に住んでおり、その屋敷跡がのちまで残っていたということが『長崎地名考』に載っていますが、恐らく伝承の類でしょう。
生まれながらにしてカリスマ性があったと言われています。また、経済的に恵まれた環境で育ったことから、幼少期から学問に親しみ、優れた教養があったようです。
小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立され、徐々に神格化されていったと考えられています。
イエス・キリストのように様々な奇跡、例えば盲目の少女に触れるとたちまち視力を取り戻した、海面を難なく歩いた、手から鳩を出したなど、様々なことを起こしたという逸話も残っています。
しかし、これらの伝承や逸話は、イエス・キリストが起こした奇跡として新約聖書の四つの福音書にも多数残されており、おそらく四郎のカリスマ性と名声を高める目的で来られ野話が捏造され、吹聴されていったものと考えられています。
島原の乱の概要
島原の乱は、寛永14年10月25日(1637年12月11日)から寛永15年2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で勃発した百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府に対する大規模な反乱です。「島原・天草一揆」「島原・天草の乱」とも呼ばれますが、教科書などの一般的な記述は「島原の乱」です。この記事でも、島原の乱で統一します。
松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担と、払えない場合に生きて火を付けられる等の苛烈な処罰に困窮したこと、藩によるキリシタン(カトリック信徒)の苛烈な迫害、飢饉の被害も加わり、両藩に対して起こした反乱とされています。
乱に加わったのは、農民だけではなく漁業や工業・商業に携わる町民や浪人たちも加わり、かなり多様な人が参加していました。
島原はキリシタン大名の有馬晴信の所領で領民のキリスト教信仰も盛んでしたが、慶長19年(1614)に有馬氏が転封、代わって大和五条から松倉重政が入封しました。
重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画し先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりし、その費用などをねん出するために領民から年貢を過重に取り立てました。
また厳しいキリシタン弾圧も開始、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対し残酷な拷問・処刑を行っていたことがオランダ商館長ニコラス・クーケバッケルやポルトガル船長の記録に残っています。
重政の後を継いだ松倉勝家も重政の政治姿勢を継承、同様の過酷な取り立てを行いました。島原の乱は、江戸時代初期の大規模な反乱・内戦で、幕末の動乱時代を除けば豊臣家の大坂の陣以降、最も大きな内乱だったと言えるでしょう。
天草という地の意味
天草は元々、キリシタン大名であった小西行長の領地でした。
関ヶ原の戦いの後に寺沢広高が入部、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われています。
『細川家記』うあ『天草島鏡』など同時代の記録には、反乱の原因を年貢の取りすぎにあると記載されていますが、島原藩主であった松倉勝家が自らの失政を認めず、反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもって、この反乱をキリシタンの暴動と主張したとされています。
江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したことで、島原の乱は「キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着しています。
しかし、この反乱には有馬・小西両家に仕えた浪人や、元来の土着領主である天草氏・志岐氏の与党なども加わっていることから、一般的に語られる「キリシタンの宗教戦争」というイメージは反乱の一面に過ぎません。
そのためか、現在に至るまで反乱軍に参戦したキリシタンは殉教者と認定されないままです。
松倉重政の企てたルソン侵略計画
1630年、松倉重政はルソン島侵略を幕府に申し出ました。
三代将軍・徳川家光はマニラへの日本軍の派遣を確約することは控えたものの、重政にその可能性を調査し、軍備を整えることを許したのです。
1630年12月14日、重政は長崎奉行・竹中重義の協力を得て、吉岡九郎右衛門と木村権之丞という二人の家来をマニラに送り、スペインの守備を探らせました。
彼らは商人に変装し、貿易の発展についての話し合いを口実としてルソン島に渡航。それぞれ10人の足軽を従えていましたが、嵐の中の帰路、木村の部下は10名とも死亡しました。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢を敷いていたそうです。
重政は軍備として3,000の弓と火縄銃を集めたとされています。この作戦は侵略指揮官である松倉重政の突然の死によって頓挫、日本によるフィリピン侵略は1637年には息子の松倉勝家の代でも検討されました。
オランダ人は当初、1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたようですが、実際は将軍ではなく榊原職直と馬場利重でした。
遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったものの、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていたとされています。フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力でしたが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けました。
島原の乱
過酷な年貢の取立てに耐えかねた島原の領民は、地域の指導的立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化され、密かに反乱計画を立てていました。
肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易によって大量に発生した浪人を中心に一揆が組織されていたのです。
島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)で会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎を総大将とし決起することを決めました。
寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害、この事件をきっかけに島原の乱が勃発します。
この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化に成功、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたそうですが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化はできませんでした。
反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようと迫る反乱軍の追い落としに成功し、乱に巻き込まれずに済みました。また、南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもあったようです。
島原藩の鎮圧
島原藩は乱がおこると、直ちに討伐軍を派遣し、深江村で一揆軍と戦いますが兵の疲労を考慮して島原城へ引き返します。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固め、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げました。
島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとするも、その武器を手に一揆軍に加わる者も多かったといわれています。
一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念しました。
これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取ります。
勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めましたが、本丸の防御が固く落城させることはできませんでした。
攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退。有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるものの、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城しました。
ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれます。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えました。
慶長9年(1604)に主要部の竣工が行われた際に、原城はキリスト教による祝別を受けており、キリストによって祝別された原城は、キリシタンの人々にとって強固な軍事施設であるとともに籠城するのに相応しい城であったといえます。
戦況と天草四郎の最期
乱の発生を知った幕府は、上使として御書院番頭であった板倉重昌、副使として石谷貞清を派遣。重昌に率いられた九州諸藩による討伐軍は原城を包囲して再三攻め寄せ、12月10日、20日に総攻撃を行うも敗走させられました。
城の守りは堅く、一揆軍は団結して戦意が高かった反面、討伐軍は諸藩の寄せ集めで、さらに上使であった板倉重昌は大名としては禄が小さいため、石高の大きい地を治めている大名の多い九州の諸侯は従いませんでした。
事態を重く見た幕府では、2人目の討伐上使として老中・松平信綱、副将格として戸田氏鉄らの派遣を決定。功を奪われることを恐れ、焦った板倉重昌は寛永15年1月1日(1638年2月14日)に信綱到着前に乱を平定しようと再度総攻撃を仕掛けましたが、強引な突撃で都合4,000人ともいわれる損害を出し、総大将の重昌は鉄砲の直撃を受けて戦死。この報せに接した幕府は1月10日(2月24日)、増援として水野勝成と小笠原忠真に出陣を命じています。
新たに着陣した信綱率いる九州諸侯の増援を得て12万以上の軍勢に膨れ上がった討伐軍は、陸と海から原城を完全包囲。大目付・中根正盛は、与力(諜報員)を派遣して反乱軍の動きを詳細に調べさせ、信綱配下の望月与右衛門ら甲賀忍者の一隊が原城内に潜入して兵糧。
討伐軍は密かに使者や矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制的に一揆に参加させられた者は助命する旨を伝えて一揆軍に投降を呼びかけたが失敗。
更に、生け捕りにした天草四郎の母と姉妹に投降勧告の手紙を書かせて城中に送るも、一揆軍は拒否します。
2月24日(4月8日)、信綱の陣中に諸将が集まり軍議が行われ、この席で戸田氏鉄は兵糧攻めの継続、水野勝成は総攻撃を主張。長引くと幕府の威信に関わるため、信綱は総攻撃を決定。その後、雨天が続き総攻撃は2月28日に延期されるも、鍋島勝茂の抜け駆けにより、予定の前日に総攻撃が開始され、諸大名が続々と攻撃を開始しました。
この総攻撃で原城は落城。天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧されました。
幕府の反乱軍への処断は苛烈を極め、島原半島南目と天草諸島のカトリック信徒は、乱への参加の強制を逃れて潜伏した者や僻地にいて反乱軍に取り込まれなかったため生き残ったわずかな旧領民以外ほぼ根絶。わずかに残された信者たちは深く潜伏、隠れキリシタンとなります。
こうして終わった島原の乱と天草四郎の最期。四郎の生年が分からないものの、まだ十代の少年であったことは間違いないようです。現在でも、天草地方では天草四郎ミュージアムが建てられるなど、地元のヒーローとして親しまれています。
- 関係する事件
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。