徳川秀忠江戸幕府2代目の将軍

徳川秀忠

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人物記
名前
徳川秀忠(1579年〜1632年)
出生地
静岡県
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戦国時代から安土桃山時代、江戸時代へと時代が移るにつれて、武将たちにとっては戦いの世から太平の世へと変わり、褒賞として得るものも土地(領地)から刀や茶器になるなど、大きく価値観が変わっていった時代でした。戦国大名の息子として生まれ、2代目として太平の世の礎を築いた父・徳川家康の跡を継ぎ、礎を強化したのが徳川秀忠です。今回は秀忠が生きた激動の時代を紹介します。

出生から後継者前夜

天正7年4月7日(1579年5月2日)、徳川家康の三男として遠江国浜松城で誕生しました。母は、西郷局(戸塚忠春の娘、伯父・西郷清員の養女)です。

母の実家・三河西郷氏は土岐氏一族で、室町時代初期には三河国守護代を務めたこともある名家、当時も三河国の有力な国人でした。乳母・大姥局によって養育されます。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいます。

秀忠が誕生してから5ヶ月後に長兄・信康が切腹。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子(豊臣家から見ると人質)として出され後に結城氏を継いでいます。

そのため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な後継ぎとして処遇されることになったのです。
長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である朝日姫を家康に嫁がせることになった時になります。

この時家康は、「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」・「長丸(秀忠)を秀吉の人質としないこと」・「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられています。

天正18年(1590年)1月、小田原征伐の際、実質的な人質として上洛。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置ですが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対し、家康から長丸を上洛させる希望を述べています。上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けています。

この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ、秀吉から、豊臣姓を与えられます。父・家康の一字と秀吉の偏諱を用いた「秀康」は既に異母兄が名乗っていたため、徳川宗家(安祥松平家)の通字として使用されていたもう一つの字である「忠」が名乗りに用いられたと考えられています。

文禄の役では榊原康政・井伊直政の後見を受け、名護屋へ出陣した家康の替わりに関東領国の統治を行います。文禄元年に秀吉の母大政所が死去した際には弔問のため上洛、9月には中納言に任官して「江戸中納言」と呼ばれるようになりました。

慶長3年(1598年)に記された秀吉の遺言状では、家康が年をとって患いがちになった場合は秀忠が代わりに秀頼の面倒をみること、また家康は三年間は在京し、その間に領地に用がある場合は秀忠を下向させるべきと定めています。遺言の通り、秀吉死去直後に秀忠が家康の命で帰国しました。

関ヶ原の戦いの遅参

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対し、当初は上杉の備えとして宇都宮に在陣し、その後に中山道を通り甲信地方の真田氏を平定する別働隊の指揮を命じられます。

真田昌幸は東軍の指揮を執る家康に従っていましたが、慶長5年(1600年)7月下旬、下野犬伏で次男・真田信繁(幸村)とともに離反して上田に帰還して西軍に与します。
これに対し、長男の信幸は東軍に従いました。

徳川秀忠が指揮を執る3万8000人の軍勢は宇都宮に留まり上杉への備えに当たった後、信濃国平定のため中山道を進んで上田城へ向かいました。

9月2日、秀忠は小諸に到着。9月3日、昌幸は上田に接近した徳川軍に対して、嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾しますが、4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったたことで、戦闘状態に入ります。

秀忠軍は9月5日、上田城に接近、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向けると、真田信繁軍は撤退します。これにより信之軍は戦わずして戸石城を接収したのです。

戸石城を落とした後、秀忠軍は9月6日に牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てくるも敗れ、上田城へと逃走。それを追撃し上田城の大手門前まで迫りますが、ここで秀忠より撤退命令が下されます。その後、8日に家康より上洛命令が下り、秀忠は上田に押さえの兵を残して美濃方面に転進しました。

通説では、大規模な合戦が上田で行われて秀忠軍が大敗、またこの敗戦によって関ヶ原合戦に遅参したと考えられていました。しかしこれらを裏付ける当時の史料は残っていません。家譜類に刈田を起因とする小競り合いが記載されているだけです。

また秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、9日に一旦全軍を小諸へと撤収した直後に家康の書状を携えた使者が到着、その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」とされていますが、森忠政宛秀忠文書から秀忠が上洛の報を受けたのは先述のように8日の上田です。

秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにしますが、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参したとされています。

いずれにしても秀忠が上田城攻めを諦めたのは、家康の作戦方針の転換による急な参陣命令に従っただけで、秀忠が上田城を攻めあぐねたのではなく、それに専念する時間的な余裕を失い、打倒昌幸という本来の任務を中断せざるをえなくなったのです。上田攻めに秀忠が専念していれば結果は違ったものになった可能性が高いと指摘されています。

松代城にあった徳川方の森忠政がこの戦闘後も葛尾城に兵を置いて上田城を見張らせていたことからも、信繁が夜討ち・朝駆けを敢行し小競合いが続いたとされています。

征夷大将軍を継承へ

慶長6年3月に秀忠は大納言に任じられ、翌月に関東へ帰国します。翌7年1月には家康より関東領国の内20万石を与えられ、秀忠は自身の直臣に知行を与えます。6月には佐竹の旧領収公を付属の正信・忠隣が行いました。
慶長8年(1603年)2月12日に悲願の征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を実現するため、嫡男・秀忠を右近衛大将にするよう朝廷に求め、慶長8年(1603年)4月16日に任命させています。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなった。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣を指すことになります。

関ヶ原の戦いの論功行賞を名目に、豊臣恩顧の大名を改易、西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となります。

慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出立しました。

3月21日、秀忠も伏見城へ入り、4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられました。これにより建前上家康は隠居、大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となります。

征夷大将軍としての政治

将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間で二元政治体制になりますが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執っていました。

秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治、家康は外様大名との折衝を担当と分けていたのです。
将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を図ります。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設、自身に直結する軍事力を強化しました。

慶長12年に家康が駿府城に移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方、秀忠麾下の大番や関東の譜代大名が交代で警衛に当たっており、秀忠の持城になった。同年、江戸に到着した家康は秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えています。

続いて慶長13年冬から翌年春には関東の大名・旗本の観閲を行います。慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、三河国田原で勢子大将を土井利勝・井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っています。

秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、続いて財政の譲渡に取り掛かります。
慶長16年よりこれまで駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更、翌年には諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更されました。

秀忠の権力強化は家臣団の交代にも現れています。
将軍就任の翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政が亡くなり、また関東総奉行の青山忠成・内藤清成は家康の狩場に領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、家康の怒りを受けた秀忠が両人を解任。同じく総奉行の本多正信は老中に横滑りをして、関東総奉行の職は消滅します。慶長19年には大久保忠隣が改易され、正信を除き旧来の家臣は江戸政権の主要な役職から去り、秀忠の近臣がその地位を占めるようになりました。

大坂の陣

慶長19年3月9日、右大臣となり官位でも豊臣秀頼に追いつきました。方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣し、連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示しています。その後、勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請しています。

10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留。
その後の城攻めでは総大将として強攻を主張するも容れられず、また講和後の堀埋め立ての現場指揮を行いました。

慶長20年(1615年)の「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされました。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめています。

元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝え、秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取りました。22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰りました。

家康亡き後の政治と最期

家康死去の同年元和2年にキリシタン禁制に関連し、中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定します。
元和3年5月26日に秀忠は諸大名へ所領安堵の黒印・朱印状を与え、同年には寺社への所領安堵状を発しています。またこの年に秀忠は諸勢を率いて上洛し、7月21日に参内。この上洛で、秀忠は畿内周辺の大名転封、朝鮮やポルトガル人との面談、畿内周辺の寺社への所領安堵を行い、それまで家康が行っていた朝廷・西国大名・寺社への介入を自身が引き継ぐことを示しました。

元和5年に秀忠は再び上洛して、伏見・京のみならず大坂・尼崎・大和郡山を巡っています。この時、福島正則の改易、大坂の天領化と大坂城の修築と伏見城の破却、徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な移動を命じたのです。

特に家康生前の時代には譜代大名は畿内以東にとどまっていたが、豊後日田藩に石川忠総を転封させたことを皮切りに、播磨の姫路藩に本多忠政、龍野藩に本多政朝、明石藩に小笠原忠真、備後福山藩に水野勝成を転封させ、畿内より西の西国に譜代大名を設置しはじめます。元和6年6月18日、娘の和子が中宮として後水尾天皇に入内。9月6日、秀忠の2人の男児竹千代・国松は共に元服して、家光・忠長と名乗ることになります。

元和8年1月には諸大名へ妻子を江戸に住まわすことを内々に、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じました。

元和9年(1623年)に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・家光に譲っています。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行いました。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようですが、結局は江戸城西の丸に移り住みました。

寛永3年(1626年)10月25日から30日まで天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁。寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫・女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇の外戚となりました。

寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じていますが、このころから体調を崩し、寛永9年1月24日(1632年3月14日)に薨去。享年54(満52歳没)。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。