上田合戦(1/2)真田の勇ここにあり!対徳川で徹底抗戦

上田合戦

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
上田合戦(1585年〜1600年)
場所
長野県
関連する城
上田城

上田城

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信濃国の上田城(現長野県上田市)といえば真田氏の本拠地。ここで真田軍が2度にわたって徳川軍を退けた戦いが「上田合戦」です。天正13年(1585年)の第一次上田合戦では徳川軍7000をわずか2000の兵で打ち破り、第二次上田合戦では関ヶ原の戦いに向かう徳川秀忠軍を足止めしました。今回はそんな2度にわたる上田城を巡る戦いにおける「戦国最強一族」真田氏の活躍について、分かりやすく解説していきます。

第一次上田合戦①原因は「沼田領問題」

上田合戦は2回にわたり繰り広げられた、真田氏と徳川氏の争いです。このうち天正13年(1585年)閏8月に起こった第一次上田合戦の原因は、沼田領(群馬県沼田市)を巡るものでした。

天正10年(1582年)6月の本能寺の変で織田信長が討たれたのち、直後に「天正壬午の乱」が起こります。これは徳川・上杉・北条の3家が旧武田領(甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)・上野国(群馬県))を巡って争った戦いです。沼田は西上野国にある北関東と北信濃・越後を結ぶ交通の要で、軍事的にも経済的にも重要な拠点でした。このため以前から戦国武将たちは沼田を巡って争いを繰り広げていたのです。

沼田の拠点・沼田城は3つの川の合流地点に面した台地にある崖城で、天文元年(1532年)頃に地元豪族の沼田氏が築き、上杉、北条等の支配下に入ったのち、天正8年(1580年)に武田勝頼の配下だった真田昌幸が攻略しました。その後、天正10年3月の甲州征伐で信長が武田氏を滅ぼしたことで、沼田を含む旧武田領は信長配下の武将たちが分割統治することに。沼田を含む上野国は滝川一益が統治することになりました。

しかし、天正壬午の乱の初期の段階で沼田城の滝川一益は北条軍に攻められ、上野国を手放します。このとき沼田城は一益の配下にいた真田昌幸に還されました。その後昌幸は上杉氏→北条氏→徳川氏と主君を変え、沼田領有を守り抜こうと画策しました。

ところが天正壬午の乱の和睦の際に問題が起きます。乱は徳川・北条氏の和睦で終結するのですが、その際に徳川氏は甲斐国・信濃国を支配し、北条氏は上野国を切り取り次第、加えて沼田領を得る、という条件で和睦を結んだのです。そして徳川家康は昌幸に対し、沼田を北条氏に譲渡するよう求めました。

沼田を得るために主君を変え続けた昌幸としては当然この講和に納得できるはずもなく、家康に「徳川から与えられた領地ではないので従わない」と突っぱねます。当然昌幸と家康の関係は悪化していきます。

天正13年(1585年)6月、昌幸は家康と手切れし、上杉氏に救援を求め従属を誓いました。なお、このとき上杉方に送られた人質が次男の弁丸、後の真田信繁(幸村)です。そして7月には徳川氏から上杉氏に主君を再度変えたのです。

第一次上田合戦②真田昌幸の知謀で徳川軍が大敗

上杉氏についた真田氏を徳川家康は許さず、天正13年(1585年)閏8月、真田攻めを開始。真田昌幸のいる上田城に侵攻します。徳川軍は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら率いる7000強。対して上田城の真田軍は2000弱で、圧倒的に徳川軍が有利でした。

昌幸は上杉景勝に援軍を求めますが、景勝は豊臣秀吉の要請で越中国(富山県)の佐々成政攻めの準備中。領内の反乱などもあり、十分な援軍を送れませんでした。とはいえ上田城近くまで軍勢がきたので、徳川軍に対する脅しにはなったようです。

ちなみにこの時点で上田城は未完成なので、徳川氏の攻撃に耐えうるとは思えません。そこで昌幸は上田城の奥まで敵を引き込み叩き潰す作戦を取ります。昌幸は上田城に、長男の信之は支城の戸石城で籠城を開始。上田城の城下町の道に千鳥掛けの柵を設置し、敵が退却しにくくしたうえで、二の丸には大木を罠として設置し、ゲリラで敵を混乱させられるよう兵をあちらこちらに伏せました。

そして閏8月2日、徳川軍が攻め込むと、真田軍は神川の北で迎え撃ったのち、あえて上田城内に敵を引き入れて二の丸まで進ませます。そして罠や鉄砲で徳川軍を混乱させ、一気に反撃。徳川軍はあわてて撤退しようとしますが柵に引っかかり、ゲリラ部隊に苦しめられます。上田城の兵士たちが追撃し、戸石城の信之率いる兵たちも徳川軍を攻めます。挟み撃ちにあった徳川軍は、とどめと言わんばかりに増水した神川(※せき止めておいた堰を壊して川を決壊させたとも)に足をとられて溺死。徳川軍は約1300人が戦死したと言われています。

なお、この第一次上田合戦については徳川方の資料・真田方の資料で記述が異なっており、徳川方の資料では神川の溺死の話は出てきていません。

その後、徳川軍は上田城の南にある支城・丸子城を攻撃(丸子表の戦い)していますが攻めきれずに終了。11月13日に、徳川家康の片腕的な存在だった石川数正が家康を裏切って豊臣秀吉(当時は羽柴姓)のもとに出奔したことを契機に、家康は上田城から正式に手を引きました。秀吉は家康を打ち取ろうと狙っており、数正の寝返りは家康を警戒させるに十分なものでした。こうして第一次上田合戦は真田軍の大勝利に終わり、真田の武勇は広く知れわたることになります。

第一次上田合戦③昌幸、秀吉の配下となり沼田領を得る

第一次上田合戦で徳川家康と敵対した真田昌幸は、家康の敵である豊臣秀吉に接近します。またもや主君替えです。昌幸は第一次上田合戦中に秀吉に書状を送り、秀吉の庇護下に入ることを認められています。その後、上杉・徳川・北条氏は次々と上洛して秀吉に臣従。これを受けて秀吉は天正17年(1589年)7月、沼田領有問題に決着をつけます(沼田裁定)。その結果、沼田3万石のうち2万石は北条氏に、1万石は真田氏が得ることに。なかには真田氏ゆかりの吾妻郡と名胡桃城も含まれていました。さらに2万石の代替地として信濃国伊那郡箕輪を与えられています。

ところがこの決定に不服を唱えた北条方の沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を占領。昌幸は激怒し秀吉に訴えます。そのほかの要因も重なり、秀吉は北条討伐を決意。天正18年(1590年)2月から小田原征伐がはじまり、7月に北条氏が滅亡したのち、全沼田領は真田氏のものになったのでした。

第二次上田合戦①「関ヶ原の戦い」の裏で起きた「犬伏の別れ」

第一次上田合戦から15年後、慶長5年(1600年)7月に起こったのが第二次上田合戦です。第一次と同じく真田氏VS徳川氏ですが、その背後には大きな戦がありました。そう、関ヶ原の戦い(記事)です。

当時、真田氏は上杉征伐のために徳川家康らとともに会津に向かっていました。豊臣秀吉の死後、五大老のトップとして権力を手中に収めてきた家康の次のターゲットが、同じ五大老の上杉景勝だったのです。

家康が上杉討伐のため大阪を出発したすきに、五奉行の石田三成は家康討伐を掲げて挙兵します。こうして石田方の西軍と徳川方の東軍が争う関ヶ原の戦いが起こるのですが、石田三成は挙兵後、真田昌幸に西軍につくよう呼びかけていました。

三成からの書状を受けて、昌幸とその長男信幸、次男の信繁(幸村)の父子三人は7月21日、宇都宮城手前の犬伏(栃木県佐野市)で今後について議論します。昌幸と石田三成は宇田頼忠の娘を妻とした者同士、義兄弟です。しかも昌幸は家康と第一次上田合戦での遺恨がありました。次男の信繁の正室・竹林院は、西軍の中核人物で三成とともに豊臣恩顧の武将として知られる大谷吉継の娘。加えて信繁は幼少期に上杉氏のもとに人質に出されており、上杉方に景勝をはじめとした知り合いが多くいました。

一方、長男の信之は徳川氏の与力大名として家康に仕えており、徳川氏の重臣・本多忠勝の娘・稲姫(結婚して小松殿)を妻に迎えています。家康に目をかけてもらっていた信之はバリバリの親徳川派でした。

3人の「どちらにつくのか」という協議は「犬伏の別れ」と呼ばれており、激論が続いた結果、西軍に昌幸と信繁、東軍に信之、というように真田一族は敵味方に分かれました。その理由は諸説ありますが、単に意見の折り合いがつかなかったのではなく、昌幸が真田家を残すために敢えて両軍についたという説が広く知れ渡っています。

こうして昌幸・信繁は沼田城を経由して上田城に戻ります。一方の信之は宇都宮に進んで徳川方に2人の離反を告げました。家康は信之の忠節を評価し、7月27日には「小県郡は親の領地なので信幸に与え、取り立てる」という書状まで出しています。

第二次上田合戦②昌幸、徳川秀忠を挑発

上田城に無事戻った真田昌幸・信繁親子。石田三成ら西軍勢と連絡を密にしながら、約5000の兵とともに城にこもっていました。一方の徳川方はといえば、小山城(栃木県小山市)での軍議で正式に三成討伐を決定(※諸説あり)。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03