盛岡藩(2/2)何度も飢饉に襲われた

盛岡藩

南部家の家紋「南部鶴」

記事カテゴリ
藩史
藩名
盛岡藩(1590年〜1871年)
所属
岩手県
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このような替え玉が行われたことが公式の記録に残っているのは大変珍しいことです。
彼が藩主であった文政4年(1821年)盛岡藩士・下斗米秀之進が、盛岡藩とたびたびもめ
ていた津軽藩主・津軽寧親を参勤交代の最中に暗殺しようとする事件が起こります。(相馬
大作事件)
暗殺は未遂に終りましたが、下斗米秀之進は江戸で処刑されました。このとき、南部利用
は江戸に上がり、自分の後継をは南部修礼(後の利済)にしてほしいと懇願し、その願い
は叶えられることになります。

12代藩主南部利済は、横沢兵庫を登用して武備充実や殖産興業策などを積極的に推し進め
ますが、財政がほぼ破綻状態にあるのに盛岡城下に遊郭を建設するなど強引な政策も同時
に行い、臣下からの反発を招きます。さらに、凶作にもかかわらず増税を行ったため最終
的には三閉伊一揆を誘発し、ほぼ蟄居の形で隠居させられました、
しかし、後継である南部利義との関係は険悪で、ついに利義を強引に廃嫡して院政を敷い
てしまいます。その結果幕府の介入を許すまでとなっています。

なお、13代藩主南部利義は、父の横やりにより僅か1年で藩主の座を退きますが、嘉永6
年(1853年)に南部利済の政策に反対する農民達が第二次三閉伊一揆を起こします。
この際、彼らは利義の藩主復帰を要求しますが、さすがに叶えられることはありませんで
した。

なお、利義は藩主を退いた後明治になるまで江戸で過ごし、晩年にようやく盛岡に戻るこ
とができました。

14代藩主南部利剛は、家督相続する際に激しく反発を受けました。
実兄である先代・利義の隠居より家督を継いだのですが、家臣団の中には彼を受け入れな
い者も多く、前述したように利義の藩主復帰を求めて一揆まで起きています。
ついに幕府が盛岡藩の藩政に介入し、父と兄の藩政への関わりが禁止されましたが、盛岡
では家老で母方の従弟の楢山佐渡と、同じく家老で極端な改革を進める東政図が対立して
おり、藩政は混迷を極めました。

慶応4年(1868年)、明治政府に従う態度を見せた秋田藩を攻めるために奥羽越列藩同盟の
盟約に従って出兵をしますが、同年9月、新政府軍に降伏を申し入れて認められました。
その結果、明治政府から隠居と領地没収が命じられ、さらに楢山佐渡以下3名の家老が切
腹になっています。

最後の藩主である南部利恭は、陸奥国白石13万石に減転封されましたがすぐに大政奉還が
起こったため、そのまま盛岡藩知事に転任し、藩知事を辞職した後は伯爵に任じられます。

盛岡藩まとめ

盛岡藩は何度も飢饉に見舞われ、財政はほぼ破綻状態でありながら、国替えもなく明治時
代まで南部氏が納め続けました。なお、南部氏は現在も血統が続いており、大正天皇の学
友であり、日露戦争で戦死した南部利祥氏は、最後の藩主南部利恭氏の長男に当たります。
現在の当主は後陽成天皇の男系十一世子孫にもあたり、実業家として銀行の非常勤監査役
などを務めています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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