盛岡藩(1/2)何度も飢饉に襲われた

南部家の家紋「南部鶴」

記事カテゴリ
藩史
藩名
盛岡藩(1590年〜1871年)
所属
岩手県・青森県
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盛岡を含む北奥羽は室町時代初期から南部氏によって支配されており、江戸時代も一度も
国替えや移封が行われず、南部氏によって治められた珍しい地域です。
盛岡は決して稲作に適した地域ではなく、江戸時代を通じて70回以上の飢饉に見舞われ
ました。そんな盛岡藩の歴史を紐解いていきましょう。

盛岡藩を明治まで治め続けた南部氏について

盛岡藩は、鎌倉時代に東北に移り住み、室町時代初期から盛岡を含む北奥羽地方一帯を支
配していた南部氏という一族が、明治時代で藩主を務めました。
一つの一族が700年近く同じ地域を治め続けた例はかなり珍しいことです。

戦国時代、南部氏は豊臣秀吉に忠誠を誓い、所領を安堵された後に盛岡城の前身である「不
来方城」を築き、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは東軍について徳川家康
に所領を安堵されます。
そして、10万石の外様大名として盛岡藩を開藩します。

なお、1600年前半は所領内が落ち着かず、元和3年(1617年)は初代藩主南部利直が八
戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収したり、寛永4年(1627年)には、南部本家
筋にあたる八戸直栄を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて根城南部氏を
消滅、遠野南部氏を誕生させるなど、強引な身内の人事も行われました。

南部氏の治世

現在の盛岡市がやっと城下町として機能しはじめ、盛岡藩の体制が整ったのは寛永10年
(1633年)、三代将軍徳川家光の時代のことでした。
城主は初代利直から二代目南部重直に代替わりしていますが、この重直は参勤交代に10日
間遅刻して将軍家光から叱責を受けるという失態をしたことで有名です。
また、寛永20年(1643年)に、盛岡藩領山田浦にオランダ船ブレスケンス号が上陸して
捕縛されたブレスケン号事件が起こったときは、オランダ人の船員達を気に入り、盛岡藩
内で丁重にもてなしたという記録が残っています。

3代目藩主盛岡重信は2代目藩主南部重直の弟に当たり、幼少の頃は国を継ぐ可能性が低い
ということで、百姓の子供達とも分け隔てなく遊んだという逸話が残っています。
兄重直が子どもを残さず亡くなったため、盛岡藩を継ぎました。そのとき、弟の重房が2
万石を受け継いだので、盛岡藩は10万石から8万石に目減りします。しかし、重信は新田
開発や枯渇しかけた金山に代わる銅山の開発などに力を入れ、藩の財政を強化し、「名君」
と呼ばれるようになりました。
なお、失火により焼失した盛岡城の天守が修繕されたのも重信の時代です。

しかし、4代藩主南部行信の時代は大凶作が発生、倹約令などの財政改革を試みましたが高
価はなく、行信の時代には5万人を超える農民が餓死しています。

5代藩主南部信恩の時代には、元禄地震が原因で江戸藩邸が全壊、6代藩主南部利幹の時代
には、参勤交代の費用が捻出できないほど財政が悪化してしまいます。

8代藩主南部利雄の時代には、再び飢饉(宝暦の飢饉)がおき、6万人以上が餓死、さらに
幕府の普請を引き受けたため、財政が破綻寸前まで悪化しました。

9代藩主は早世、10代藩主南部利敬は僅か2歳で家督を継ぎます。
南部利敬が盛岡に入ったのは13歳のことですが、藩政は大いに荒れており、そこに天明の
飢饉が追い打ちをかけました。
利敬は、なんとか財政を建て直そうと門閥重臣層よりも能力ある大小役人を重用しました
が、それが門閥重臣層からの反発を招きました。

11代目藩主である南部利用は、南部利敬の従兄弟にあたる人物ですが、14歳で家督を継い
だ後、15歳で庭の木から落下して死亡してしまいます。将軍のお目見え以前になくなって
しまったため、盛岡藩の改易・減封を恐れた家臣団が、本物の南部利用と年格好が似てい
る新屋敷南部家当主・南部信浄の三男・善太郎を身代わりにして、南部利用を名乗らせま
す。

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執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。