桑名藩複数の松平家が治める
松平家の家紋「六曜」
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桑名城は伊勢桑名藩の藩城として、また東海道の要所として幕末まで在り続けました。桑名藩は本多家以外、複数の松平家によって治められます。ここでは、伊勢桑名藩の歴史を解説しましょう。
本多家の治世
桑名は東海道の要所であることから、織田信長も豊臣秀吉も己の家臣団に治めさせた場所でした。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、徳川家康が天下を取ると徳川四天王の1人、本多忠勝に10万石を与えて桑名の治世を任せます。本多忠勝は 桑名城の築城をはじめ、城下町の整備に力を注ぎました。「慶長の町割り」と呼ばれる大規模な町割りをおこなったほか、商工業者を積極的に集めて油町、紺屋町、鍛冶町、鍋屋町、魚町、船馬町、風呂町、伝馬町などの同業者ごとに固まった街づくりを行います。
もともと桑名は織田信長、豊臣秀吉がこの地を治めていた時代から、「十楽の津」と呼ばれ貿易と商売の街として発展していました。本多忠勝はそれに商工業も加えて藩を発展させることにしたのです。また、東海道の整備と並行し、宿場町としての体裁も整えられていきました。本多忠勝は慶長14年(1609年)まで藩主を務めた後に隠居し、跡目を嫡男の本多忠政にゆずります。本多忠政は、大坂冬の陣・夏の陣に参戦して武勲を上げ、この戦いの後忠政の嫡男である本多忠刻と徳川家康の孫である千姫が婚姻しました。これをきっかけに本多家は元和3年(1617年)に15万石で播磨姫路藩に加増移封されます。しかし、残念ながら本多忠刻は31歳の若さで病死してしまい。千姫は播磨姫路から江戸城へ娘と共に移り一生をそこで過ごすことになります。
久松松平家の治世
本多家の国替えに伴い、桑名藩の城主になったのが徳川家康の異父弟松平定勝です。弟といっても、家康と定勝の年齢差は17才もあるので当時としては親子の間柄に近かったようです。松平定勝は、山城伏見藩の藩主で石高は5万石でしたが、そこから6万石加増の11万石で桑名藩に入りました。定勝は二代将軍徳川秀忠の相談役を長く務めるなど、主に幕府の要職として活躍し、永元年(1624年)に亡くなります。その後を継いだ嫡子の松平定行は、桑名城下町で水道の設置や上水道の工事、湿地開拓による三崎新田の開発などに力を入れました。
しかし、定行は寛永12年(1635年)15万石に加増されて伊予松山藩に移封となります。通常、このような場合は別の家が代わりに桑名藩に入るのですが、このときは松平定行の弟、松平定綱が11万3000石に増加されて藩主の座につきました。松平定綱は兄の事業を引継ぎ、新田開発・水利の整備・家臣団編成などに力を尽します。このため、後世の評価は松平定綱の方が高く、現在も鎮国公、鎮国大明神として祀られています。
しかし、松平家の当主達が必死に治水工事を行っても、桑名藩は揖斐川・長良川・木曽川という3つの大河が流れているので水害が起こりやすく、数年おきに数万石の被害が出る大規模な水害に見舞われています。松平定綱の後を継いだのは、次男の松平定良でしたが、病弱ゆえに藩主の座について3年で病没してしまいます。その後、伊予松山藩から養子として松平定重が第五代藩主として入りますが、治世の座に付いている間に7度の水害と4度の大火災に見舞われました。元禄14年(1701年)の大火では桑名城の天守が焼失し、以後再建はされていません。松平定重は53年もの長い間藩主の座について災害と闘い続けましたが、重用した下級藩士、野村増右衛門が家臣団の嫉妬をかい、ついに「野村騒動」というお家騒動にまで発展してしまいます。
野村騒動により野村増右衛門は死罪となりますが、久松松平家は藩を騒がせた罪を幕府から問われ、越後高田藩に松平重定は改易されてしまいます。野村騒動は、身分の低い野村増右衛門が、家臣のリストラを決行し大規模な倹約を行ったことで家臣団から妬まれ、無実の罪を着せられたというのが現在の通説になっています。野村増右衛門の罪は113年後に許されて供養塔が建立されました。
奥平松平家の治世
松平重定が越後高田藩に移封された後、桑名藩に入ったのは、奥平松平家の当主・松平忠雅です。同じ松平の性ですが、奥平松平家は徳川家康の重臣・奥平信昌と家康の長女・亀姫との間に生まれた四男・松平忠明の系統です。松平氏は家康をはじめとする歴代将軍の血を引く譜代大名などに用いられる姓なので、松平家はいくつも存在しています。奥平松平家は、松平忠雅は祖父の松平忠弘が陸奥白河藩主で合ったときに「白河騒動」と呼ばれるお家騒動を起こしたため、罰として石高削減、家老の処分、左遷移封などを受けた家ですが、松平忠雅自身は堅実な人柄で治世の手腕もあり、洪水と大火災で疲弊した桑名藩の立てなおしを行い、学業を振興させました。そのため松平忠雅は今でも「中興の祖」として慕われています。
奥平松平家は。忠雅をスタートに、松平忠刻・松平忠啓・松平忠功・松平忠和・松平忠翼と代を重ねていきます。藩主達は決して奢侈を行ったり国政をおろそかにしたりしたわけではありませんでしたが、桑名藩は何度も水害に見舞われて国政は常に逼迫していました。そして、松平忠刻が藩主だった時に行われた「宝暦治水」と呼ばれる大工事で、工事を任された薩摩藩から50名を超える自殺者と30名以上の病死者が出ます。これは「宝暦治水事件」と呼ばれ、桑名藩はこの一件で薩摩藩から強烈な恨みを買うことになりました。これ以外にも、桑名藩では、水害による飢饉が度々起こり、百姓一揆も勃発します。特に、松平忠翼の後を継いだ松平忠堯が武蔵忍藩に移封を命じられた際、これに反対して起こった一揆は大規模なものでした。
この一揆が起こった理由は、農藩財政の助成として民から講金を預かっていたにも関わらず、それを返済せずに藩を移ろうとしたためと言われており、一揆は藩の借金を豪商の山田彦右衛門に肩代わりしてもらって漸く収まりました。しかし、この一揆により20の庄屋が襲われ、鎮圧にはほかの藩から援軍を呼ばなければならず、奥平松平家は大いに混乱したと言われています。こうして、奥平松平家の治世は終わりを告げました。
久松松平家の再統治
奥平松平家が桑名を離れた後、入城したのが陸奥白河藩の藩主であった松平定永です。定永は松平定重の血統に連なっており、寛政の改革を行った老中首座で白河藩主である松平定信の嫡男です。この国替えは松平定信が権力を用いて奥平松平家から桑名藩を取り上げ、祖先が治めていた藩へ家臣団を里帰りさせたという説と、尊号事件の責任を取らせる形で定永を左遷させたという説の両方が存在しています。なお、松平定信自身が桑名藩主になりたがったという説もありますが、国替え当時すでに72才という高齢であったことから、桑名城の入城を果たすことはありませんでした。この国替えにより、武蔵忍藩を155年にわたって治めていた忠秋系阿部家も白河藩へお国変えになりました。
松平定永からスタートした久松松平家の統治は、松平定和・松平定猷と続いていきますが、桑名藩は水害や江戸藩邸の火災、さらに幕府から命じられた普請などによって財政が逼迫していきます。大坂や桑名の商人からの借財で急場を凌ぎますが、さらに追い打ちをかけるように大塩平八郎の乱に触発された生田万の乱により、魚沼・刈羽・三島・蒲原といった飛び地の領地を治める陣屋が襲撃されるなど、凶事が続きました。これに加えて、世は幕末の動乱期に突入し、桑名藩は幕府から房総沿岸の警備や京都警備などを任命され、さらに財政は逼迫していきます。この財政難は結局明治を迎えるまで根本的な解決をすることがありませんでした。
桑名藩と幕末の動乱
松平定猷の後を継いだ松平定敬は、美濃高須藩松平家出で初姫の婿養子でした。定敬は、御尾張藩主徳川慶勝・徳川茂徳・会津藩主松平容保・石見浜田藩主松平武成の実弟にあたります。さらに14代将軍徳川家茂と同い年ということもあり、彼からの信頼も厚く、藩主を務めながら、元治元年(1864年)には京都所司代に命じられます。定敬は最初年齢が若すぎることを理由に断ろうとしますが、実兄の松平容保が京都守護職に付いたこともあって断り切れず、兄弟で京都の治安を守ることになります。
ふたりが京都所司代と京都守護職に就いている間、池田屋事件・禁門の変・長州征討・天狗党の乱などが起こりました。将軍も徳川家茂から最後の将軍、徳川慶喜に代替わりします。
幕府側の代表者として事態の鎮圧した2人は、薩摩・長州の両藩から激しく恨まれることになります。さらに、幕府側とも第二回長州征伐の対応を巡って険悪になります。この頃、幕府は、会津藩・桑名藩と協力して薩摩・長州藩と戦っていましたが、会津・幕府側と桑名藩とで対立が深まり、そこに幕府と友好的であった孝明天皇の死が追い打ちをかけました。桑名藩は京都政界での立場を失い、将軍家慶も京都政界との対立を深めて行きます。
このあたりの政治情勢は多くの小説やドラマに描かれており、有名ですね。
その結果、旧幕府軍と新政府軍との戦いとなった鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の主力を会津・桑名の藩兵が務めることになります。
鳥羽・伏見の戦いでは兵力において旧幕府軍が圧倒的に有利でしたが、徳川慶喜をはじめとする上層部の対応が優柔不断であり、兵士達は実力を発揮することなく敗戦しました。なお、松平定敬は大阪城に兵を置き、さらに桑名城で徹底抗戦する構えでしたが、徳川慶喜に命じられてやむなく江戸城までの撤退に同行します。
そのため、城主を欠いた桑名藩は大混乱になりました。桑名藩の重臣たちは「開城して全藩士が江戸の定敬に合流して今後を決定する」ことを希望しましたが、下級藩士たちはそれを不服とし、松平定猷の実子、松平定教を新しい藩主として新政府軍に恭順する意思を示します。
議論は二転三転しましたが、最終的に松平定教が鳥羽伏見の戦いに参加し、桑名藩に帰還した兵を連れて東海道鎮撫総督・橋本実梁の下に出頭しました。こうして桑名城は無血開城しましたが、新政府軍はその証しとして辰巳櫓を焼き払ったのです。
江戸に戻った松平定敬は、兄の容保と共に新政府軍と徹底抗戦をする構えを見せましたが、徳川慶喜はそれを拒否します。松平定敬は将軍と袂を分かち、桑名藩の飛び地であった柏崎に拠点を移して新政府軍と戦いを続けます。長岡戦争や鯨波戦争、さらに会津戦争でも松平定敬率いる桑名軍は奮戦をしますが、寒河江での戦いを最後に降伏しました。しかし、松平定敬だけはさらに榎本武揚をたよって函館まで落ち延び、新撰組の土方歳三らと合流します。定敬は最後まで新政府軍と戦う気でしたが、桑名藩の家老「酒井孫八郎」らは、桑名藩存続のために彼を新政府軍へ出頭させようとします。松平定敬は激しく抵抗し、最後は上海まで逃亡しようとしましたが、路銀がつきてついに新政府軍へ出頭しました。明治2年(1869年)のことです。
桑名藩はその後、新藩主となった松平定教が新政府に恭順の意思を示したことにより、11万石から6万石に減らされたものの取り潰しは免れます。松平定敬はその後東京で取り調べを受けるも謹慎処分となり、その後渡米、さらに西南戦争にも桑名軍を率いて出兵するなどし、明治41年に死去しています。なお、最後の藩主である松平定教も藩知事の座を明治4年に退いた後、明治7年に松平定敬と共に渡米、帰国後は明治13年(1880年)に外務省の書記官となりました。その後、子爵に任ぜられ明治21年(1888年)には式部官として宮中に務めますが、翌年43才で死去しました。
明治以降の桑名藩
明治4年に廃藩置県が実施されて桑名藩がなくなっても、桑名出身の藩士たちは長州・薩摩出身の人々から敵視され続け、肩身の狭い思いをしたと伝わっています。そのため、西南戦争では400名以上の兵士が出兵して新政府への恭順を示しました。明治末期からは港町という地の利を活かして軍需産業の活発化させ重工業が大いに栄えています。現在でも桑名のとなり、四日市市は工業都市として日本の重工業の中心地となっています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。