松平定信寛政の改革を指導、失脚後は何をしていた?

松平定信
江戸時代の三大改革のひとつ、「寛政の改革」を指導した松平定信。徳川吉宗の孫で白河藩主を務め、老中として改革を進め、質素倹約に取り組みました。しかし、余りに厳しすぎる改革の内容に人々の不満は高まり最後には失脚。2025年の大河ドラマ『べらぼう』でも、蔦屋重三郎を弾圧する人物として登場しています。
今回はそんな松平定信について、失脚後にもスポットライトを当てつつ詳しく解説します。
御三卿の田安家に生まれる
松平定信は宝暦8年12月27日(1759年1月25日)、御三卿である田安徳川家の初代当主・徳川宗武の7男として生まれました。幼名は賢丸です。
御三卿は第8代将軍・徳川吉宗から第9将軍・徳川家重の時代にかけて創設されました。もとは跡継ぎ以外の将軍家の子が養子に貰われるまでの受け皿として作られましたが、後に将軍の跡継ぎを補完する役割を担うようになりました。定信の父・宗武は吉宗の三男で、一橋徳川家の初代当主・徳川宗尹は吉宗の四男、徳川家重の代にできた清水徳川家の初代当主・徳川重好は家重の次男です。
養子縁組で将軍の座を逃す
幼少より聡明だった定信は、嫡子の兄・治察が病弱だったことから田安徳川家の跡継ぎ、ひいてはなかなか男子に恵まれなかった第10代将軍・徳川家治の跡継ぎとみなされていました。しかし、宝暦12年(1762年)、家治に嫡男の家基(安政8年・1779年に18歳で死亡)が生まれると、跡継ぎは家基に決定します。
その後、安永3年(1774年)になると定信に白河藩(現福島県白河市)藩主の松平定邦の養子になる話が持ち上がります。田安家の当主であった治察に子がなかったため、田安家としては反対でしたが、幕府は養子を決定。その半年後に治察が亡くなったため、治察の母・宝蓮院は定信を田安家に戻すよう働きかけましたが、幕府により却下されました。
のちに定信が記した自伝『宇下人言』によると、この養子騒動は全て田沼意次のたくらみでした。意次が養子をとる際、田沼家の後継者がいなくなった場合は定信を戻すと約束していたのですが、これを守らなかったのです。定信としては、将軍の跡継ぎになれるチャンスを養子でつぶされたことにかなり不満があり、自伝でも「老中たちの悪だくみでやむなく養子になった」と書き記しています。また、「息子の家斉を将軍にしたい」と考えた御三卿の一橋家2代当主・一橋治済が背後にいたという話もあります。家督相続後、定信は意次に賄賂を贈るなどしていますが、内心は腹立たしく思っていたに違いありません。
天明の大飢饉で活躍
定信は天明3年(1783年)10月に26歳で家督を継ぎ「松平定信」となりました。ちょうどこのころは天明の大飢饉で米不足が発生し、打ちこわしなどが起こっていたころです。
定信は飢饉を踏まえ質素倹約を徹底し、白河藩の分領で米に余裕があった越後国から米を輸送。余裕のある藩から米を買い上げるなどして得た米を「救い米」として配ったほか、もみ殻や塩、味噌などを人々に支給しました。さらに「白河だるま」などの特産品を作るなど飢饉からの振興にも取り組み成功させています。このため飢饉による餓死者はなんと0だったとされており、民からは感謝され、周辺の大名からは「秘訣を教えてほしい」との声も。もちろん幕府からも評価されました。
田沼意次が失脚、老中に就任
天明の大飢饉対策に追われつつも、定信は昇進を狙って田沼意次に近づきます。賄賂を贈るなどした結果、「溜間詰」という老中と政務をおこなう政治顧問的な存在にまで出世しました。
当時、政治を主導していたのは意次でしたが、天保の大飢饉の責任を追及され、その求心力は弱まりつつありました。天明4年(1784年)には嫡男で若年寄の田沼意知が江戸城内での刃傷事件がもとで死亡。さらに意次を重用していた徳川家治が天明6年(1786年)8月に亡くなると、意次は完全に失脚し老中を辞職しました。
天明7年(1787年)4月に第11代将軍・徳川家斉が15歳で将軍に就任したのち、6月に定信は御三家と家斉の父・一橋治済の推挙により老中首座に就任します。実は意次が失脚したのち、定信を老中につけて政権運営を…という話があがったのですが、残った田沼派の老中たちなどが頑なに反対したため、定信の老中首座就任は田沼派を追い落としてからになり、かなり遅くなりました。こうしてまだ若かった家斉に代わり、定信が政治を主導していくことになったのです。
松平定信の代名詞「寛政の改革」
定信のおこなった政策の数々は「寛政の改革」として知られています。定信は白河藩主時代と同じく質素倹約をかかげ、民衆から幕府内に至るまで倹約と経費削減に取り組ませました。
寛政の改革で定信が実施したもののうち代表的なものが倹約令です。幕府や大奥、さらには庶民まで対象にしてぜいたく品を取り締まりました。服装を規制し、櫛やたばこなどを「ぜいたく」と禁じるなど、人々の生活にまで影響を及ぼす政策は大いに不評でしたが、幕府の財政としては赤字から黒字に転じています。また、定信は「棄捐令」を出し、御家人や旗本の借金の棒引きを命じています。具体的には6年以上前のものは債権を放棄、以降のものは利子を引き下げさせています。
意次の重商主義政策や天明の大飢饉で疲弊した農村に対しては、荒地の開墾促進や江戸などの都市に流出していた元百姓の帰農を促すための「旧里帰農奨励令」を発出しました。こちらは幕府が旅費や補助金を出すものでしたが、残念ながらあまり効果はありませんでした。
このほか、飢饉対策として米を備蓄する「囲米」制度や、江戸を対象にした天災や飢饉などでの利用を見越した「七分積金」(積立金)制度を実施しています。ちなみに七分積金は明治以降、渋沢栄一が政府の命で江戸の人々のために活用しています。
また、このころはロシアやフランス、英国、アメリカといった外国船が日本に訪れ始めていた時期で、定信は外交にも頭を悩ませなければなりませんでした。定信は寛政3年(1791年)9月に「異国船取扱令」を出し、異国船を見つけた場合は調査の上長崎に送り、命令に従わない場合は船を打ち砕き、船員は捕らえるように命じています。
寛政4年(1792年)、ロシア帝国からアダム・ラクスマンが来日して通商を求めた際も、定信が対応しました。定信は「鎖国」を盾に通商の要求を断りましたが、長崎での交渉を許可しています。定信としては最悪の場合開国することを視野に入れていたようですが、幸いラクスマンは長崎に寄ることなくロシアに帰りました。その後、定信は海防の重要性を強調し、海沿いの藩に海防強化を通達。自身は江戸湾の防備計画を進めていきます。
寛政の改革で思想・言論統制、蔦屋重三郎も被害に
松平定信の寛政の改革は、思想・言論にまで及びました。寛政2年(1790年)には朱子学以外を幕府御用達の聖堂学問所(のちの昌平坂学問所)で教えるのを禁じる「寛政異学の禁」を発出。朱子学以外を全面的に禁止したわけではありませんが、幕府の学問所の規制は全国に大きな影響を及ぼしました。
さらに定信は幕府に反する言論を弾圧し、出版業界に圧力をかける出版統制も実施しました。寛政2年(1790年)には「出版統制令」を出し、好色本を禁じ、美人画などに規制をかけました。
出版統制令は喜多川歌麿や朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝といった作家や絵師などに大きな影響を与えました。さらに、2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~』の主人公・江戸のメディア王こと版元の蔦屋重三郎も、この時多額の罰金刑を受けています。
実はこの「出版統制令」が出された一因が、定信を批判した文学でした。朋誠堂喜三二による『文武二道万石通』(天明8年・1788年))と恋川春町による『鸚鵡返文武二道』(天明9年・1789年)が有名ですが、2作とも蔦屋重三郎がプロデュースしたベストセラー本で、のちに発禁処分となっています。作者は両者とも武士でした。
定信は本の内容に怒り、朋誠堂喜三二の上司にあたる秋田藩9代藩主・佐竹義和に嫌味を言ったことが当時の文献に残されています。その後、上司から叱られた喜三二は黄表紙を書かなくなりました。また、春町に対しては定信は寛政元年(1789年)に呼び出しをかけていますが、春町は病気を理由に断り、その後隠居しすぐに死亡(※自殺説も)しています。
徳川家斉との不和、そして失脚
寛政の改革が進むにつれ、政策の厳しさや生活への影響への大きさから、定信は多くの人々から批判の対象になりました。それは「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と、田沼時代に戻りたいと皮肉った狂歌が流行るほどでした。
さらに、定信と後ろ盾である御三家や一橋治済との関係が悪化していきます。もともと定信は彼らの意見を聞いて政治改革を進めていきましたが、徐々に意見が対立してきたのです。加えて徳川家斉との関係にも「尊号事件」でひびが入ります。
これは光格天皇による「実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」との希望に定信が反対したことから始まります。実は、同じように家斉も「実父の一橋治済に大御所の尊号を贈りたい」と考えており、天皇の要求を退けたことで家斉の要求も成り立たなくなったのです。
こうして寛政5年(1793年)7月、定信は海防のために出張しているさなか、突然辞職を命じられて失脚しました。
白河藩で藩政に専念 文化振興も
老中を辞した後、白河藩の藩政に専念し、再度改革に取り組みます。白河藩の振興に向けキセルの製造、薬草や煙草などの栽培を奨励し、たたら製鉄の設備を新設。藩校・立教館や民間の学び場を作るなど、領民の教育にも力を入れました。
さらに享和元年(1801年)、公共事業として農民を労働力に一万六千坪の庭園を築造。「南湖」と名付け武士だけでなく庶民にも開放しました。現在も「南湖公園」として残されており、中には定信を祀った神社があります。
また、定信は老中時代からさまざまな戯作を執筆していましたが、引退後も日記をはじめさまざまな作品を残しました。寛政の改革時とは真逆ですが、作家や画家の支援も積極的に行っています。例えば改革中に弾圧した大田南畝に朋誠堂喜三二、山東京伝らには浮世絵集『近世職人尽絵詞』の詞書を依頼しました。『近世職人尽絵詞』は江戸の職人や庶民の風俗を3巻にわたって描いたものですが、絵師の鍬形蕙斎は『鸚鵡返文武二道』を描いた北尾政美と同一人物です。
また、定信は各地の古い書画や器物、武具などの古宝物を図録としてまとめた『集古十種』を編纂しています。全85巻で1859点にも及ぶ古宝物が収録され、大評判を得ました。
隠居後も力を持ち続ける
文化9年(1812年)、定信は家督を長男の松平定永に譲って隠居し、江戸築地の藩邸下屋敷「浴恩園」に移り住みます。隠居後は「楽翁」を名乗って読書や和歌の試作をはじめとする文化活動に取り組みつつ、幕府の要人たちと交流し、海防に取り組み続けました。
実は文化7年(1810年)から、白河藩は定信が提唱した「江戸湾警備」の第一号担当藩として、会津藩とともに警備に当たっていました。それが藩の財政を圧迫していたのです。これは文化3年〜4年(1806年〜1807年)、樺太や千島列島で日本とロシアが戦った「文化露寇」や文化5年(1808年)に英国のフェートン号がオランダ船のふりをして長崎港に不法侵入した「フェートン号事件」等が原因でした。こうした外国船対応については、定信は幕府に意見を求められています。
また、文政6年(1823年)には白河藩から桑名藩への国替えがありましたが、これは桑名の港を目当てとした定信の希望だったとされています。ちなみに、この国替えは異説として、白河藩の江戸湾防備への財政的負担が重すぎたため何とか逃れようとしたことが原因だったとも言われています。なお、定信は桑名には移住していません。
精力的に活動を続けた定信でしたが、文政12年(1829年)の正月下旬から風邪をひき、2月3日には高熱を出しました。3月21日、神田佐久間町河岸から出た火により浴恩園も被害にあったことで同族の伊予松山藩の屋敷に一時避難。手狭だったことで三田にある松山藩の中屋敷に移動します。一時的に回復し歌会なども開いていましたが、5月13日から病状が悪化してそのまま死亡。享年72歳でこの世を去りました。辞世の句は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」。長い人生を「やり切った」感が出ている句は、まさに定信にぴったりと言えるのではないでしょうか。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。