比叡山焼き討ち信長による延暦寺での「大虐殺」

比叡山焼き討ち

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事件簿
事件名
比叡山焼き討ち(1571年)
場所
滋賀県
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二条城

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世界遺産
比叡山延暦寺

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元亀2年(1571年)8月、織田信長は比叡山延暦寺(現滋賀県大津市)を攻め、焼き滅ぼしました。この「比叡山焼き討ち」は当時の史料などによれば数千人の死者を出したとされており、僧侶や男女、子供まで皆殺しにされた信長の「悪逆非道」な行いの一つとして知られています。ところが後世の発掘調査により、実際はそこまで死者はいなかったとの説が有力視されています。今回はそんな比叡山焼き討ちについて、詳しく見ていきます。

比叡山延暦寺とは

焼き討ちの話に入る前に、比叡山延暦寺とはどのような寺院なのかを確認しておきましょう。世界文化遺産にも登録されている比叡山延暦寺は天台宗の総本山です。天台宗を開いた最澄が延暦7年(788年)、同地に一乗止観院(現在の根本中堂の前身)を建立したのが始まりと言われています。最澄亡き後に「延暦寺」の寺額を勅賜され、現在のように比叡山延暦寺と呼ばれるようになりました。そして、3代目の座主・円仁(慈覚大師)と5代目の座主・円珍(智証大師)により比叡山延暦寺は拡大していきます。また、比叡山延暦寺は浄土真宗の開祖・親鸞や臨済宗の開祖・栄西をはじめ有名な僧たちが修行した場としても知られており、「日本仏教の母山」とも呼ばれています。

比叡延暦寺は平安時代から、円仁派と円珍派に分かれて内部抗争を繰り返してきた歴史があり、僧兵による武装化が進んでいきました。『平家物語』によれば、院政をおこなっていた当時の権力者・白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と話したという逸話が伝わっています。ここで出てくる「山法師」が比叡山延暦寺の僧兵のこと。義経に付き従った武蔵坊弁慶ももともとは比叡山延暦寺で修行した僧兵だったと伝わっており、比叡山延暦寺=僧兵のイメージは平安時代から根付いていました。

武力を背景に勢力を拡大した比叡山延暦寺は独立国家のような存在となり、政治に大きな影響を及ぼすことになります。こうした寺社勢力は、意に添わないことが起こると武装した信者や僧兵などを権力者の元に向かわせて要求をおこなう「強訴」を実施していました。特に比叡山延暦寺と奈良の興福寺の力は強く、「南都北嶺」と恐れられていました。その勢力は鎌倉・室町期にも衰えることなく続いていきます。

比叡山延暦寺は信長の前にも焼き討ちにあっていた!

実は比叡山延暦寺は織田信長の前に2度燃えています。独立国家を呈していた比叡山延暦寺を制圧しようと最初に動いたのが室町幕府の第6大将軍・足利義教でした。義教は将軍に就任する前は153代目の天台座主、つまり比叡山延暦寺のトップでした。このため将軍就任後、弟を天台座主に任命して比叡山延暦寺勢力の取り込みをはかります。ところが諸大名の反対もありうまくいきません。業を煮やした義教は永禄7年(1435年)、比叡山延暦寺の有力な僧侶達を謀略によりおびき寄せて斬首するという武力行使に出ます。これに反発した比叡山延暦寺の僧たちは根本中堂に立てこもって抗議。しかし義教の方針は変わらず、僧侶たちは2月に根本中堂に火を放ち焼身自殺します。これにより根本中堂をはじめいくつかの堂が消失したようです。その後義教は比叡山延暦寺を制圧した後、根本中堂を再建しています。

一度は室町幕府の支配下に入った比叡山延暦寺でしたが、義教が嘉吉元年(1441年)の「嘉吉の乱」で赤松満祐に討たれた後は武装化して勢力を拡大。権力者に対抗するため数千規模の僧兵を擁し再び独立国のような状態になりました。そんな比叡山延暦寺を再び燃やしたのが、政務全体を管理する将軍の補佐役・管領を務めていた細川政元です。政元は、明応2年(1493年)の「明応の政変」で将軍の首を足利義材から足利義澄に挿げ替えるクーデターを起こした人物。この義材VS義澄の戦いに介入し、義材を擁護したのが比叡山延暦寺でした。

京の北東にある比叡山延暦寺は京と近江を結ぶ街道を押さえる重要な軍事拠点になりえます。しかも多くのお堂や坊舎があり、兵力を蓄えることが可能なスポットでした。比叡山延暦寺が義材についたことを知った政元は、明応8年(1499年)7月、比叡山延暦寺を攻撃して大規模な焼き討ちを実施しました。この際根本中堂をはじめ、大講堂や常行堂など山上にある主な伽藍は焼失しています。その後比叡山延暦寺は何とか復興しますが、戦国時代の戦火に再び巻き込まれていくことになるのです。

焼き討ちの原因となった信長と浅井・朝倉氏の対立

細川政元の次に比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは織田信長です。では、なぜ信長が比叡山を攻撃する羽目になったのか。それは信長と浅井・朝倉氏の対立が大きく関わってきます。もともと信長と浅井長政は義兄弟にあたり、信長の妹・お市の方と長政の結婚を機に同盟を結んでいました。その同盟の一つの条件が「朝倉氏への不戦の誓い」。浅井氏と朝倉氏が同盟関係にあったためですが、朝倉氏は足利義昭の信長包囲網の呼びかけに答える形で信長と敵対。信長は長政との盟約を破って朝倉氏を攻めますが、その信長を長政は背後から攻めました。これが元亀元年(1570年)4月に起きた「金ヶ崎の戦い」です。

その後、信長と浅井・朝倉氏の戦いは激化。同年6月の「姉川の戦い」で信長・徳川家康連合軍は朝倉・浅井軍を破りますが、決定的な打撃を与えるまでには至りませんでした。そうこうしているうちに、信長と敵対する三好三人衆が摂津国中嶋(大阪府大阪市)に野田城と福島城を築城して8月に挙兵。9月には石山本願寺の門主・顕如が一向宗の門徒に対して檄文を飛ばし、反信長の兵を挙げます。

こうした対応に追われる信長方を見てチャンスと考えたのが浅井・朝倉氏です。琵琶湖西岸を南下し、3万の兵を率いて京に向けて出陣。これに一向一揆衆も加わり軍勢はさらに膨れ上がりました。こうして約3ヶ月にわたり、信長と浅井・朝倉軍は争うことになるのです(志賀の陣)。

信長が比叡山を敵視するきっかけとなった「志賀の陣」とは?

志賀の陣の始まりは宇佐山城(滋賀県大津市)の戦いからでした。元亀元年(1570年)9月16日、織田信長方の重臣・森可成が守る宇佐山城付近で戦が起こります。可成らはわずか1000の兵で奮戦するも、敵方には比叡山延暦寺の僧兵も加わったため劣勢になり敗退。可成は戦死してしまいましたが、城は落城することなく持ちこたえました。その後、浅井・朝倉軍は山科や醍醐に放火しながら将軍のいる京に迫ります。

9月22日に浅井・朝倉軍の動きを知った信長は石山本願寺との戦いの真っ最中でしたが、浅井・朝倉軍から京を守るために摂津からの撤退を決意します。9月23日には全軍を徹底させ、同日京に戻りました。信長が戻ったことを知った浅井・朝倉軍は比叡山に逃げ込みます。

こうして信長と浅井・朝倉軍は比叡山でにらみ合うことになります。この時信長は比叡山延暦寺の僧侶を招き、浅井・朝倉軍に味方にならないよう説得。信長方につけば織田領内にある延暦寺領(荘園)は元通り返還する、どちらかににつくのが難しいのであれば中立を保ってほしい、と訴え、朱印状まで出しました。さらに浅井・朝倉軍につく場合は「延暦寺の根本中堂をはじめ山ごと焼き払う」と脅しましたが、比叡山延暦寺から返答はありませんでした。

このため信長は明智光秀と佐久間信盛に比叡山を囲んで包囲戦に持ち込みます。ところが信長の周囲には三好三人衆や一向一揆衆、六角義賢など油断ならない敵ばかりで、この機を狙わんとばかりに信長を攻めます。信長としては早く包囲線を終わらせようとしますがなかなか決着がつきません。10月20日には浅井・朝倉軍に決戦を呼びかける使者を派遣しますが、朝倉方からは答えはなく、後に和睦の申し入れがある始末。『信長公記』によれば、この時信長は「是が非でも戦って鬱憤を晴らしたい」と考えたようで、和睦は受け入れませんでした。

戦線が膠着する中、11月30日、信長は朝廷と足利義昭に働きかけて仲介を依頼し、浅井・朝倉氏との講和を模索し始めます。一方の浅井・朝倉氏も豪雪で本国・越前国(福井県嶺北地方など)との連絡が途絶えがち。雪で国に帰れなくなる可能性もあります。このため和睦が成立しそうになりますが、唯一反対したのが比叡山延暦寺でした。結局、正親町天皇が「比叡山延暦寺領を安堵する」という綸旨を出し、それに信長が同意するという誓紙を提出したことで、比叡山延暦寺も和睦を受け入れます。どことなく上から目線の対応に信長はいらだったに違いありません。

こうして12月13日に講和が成立し、約3ヶ月に渡った志賀の陣は終結しました。この戦いの際に延暦寺が信長に対して取った行動が、翌年の比叡山焼き討ちの要因になるのです。

信長の比叡山焼き討ち①総攻撃であっという間に灰に

織田信長と浅井・朝倉氏の和睦は長くは続きませんでした。元亀2年(1571年)2月には信長が佐和山城(滋賀県彦根市)を攻撃し、城主の磯野員昌は織田方に下っています。佐和山城は交通の要衝であり、信長は重臣の丹波長秀を送り込みました。

同年8月、信長は北近江に進軍して浅井攻めを開始。9月3日に近江一向一揆の拠点だった金森城(滋賀県守山市)を落とした後、9月11日に園城寺(三井寺、滋賀県大津市)付近に陣を置き、比叡山延暦寺攻めの準備をします。この園城寺は比叡山延暦寺と同じ天台宗の寺ですが、比叡山延暦寺と宗教的に対立していた僧侶たちの拠点で、幾度となく武力衝突も起こしていました。

こうした信長の動きは延暦寺側も察していたため、信長に対し黄金を送って攻撃をやめるよう嘆願します。ところが信長は拒否。このため延暦寺側は僧兵たちを山頂の根本中堂に集合させるなどして攻撃に備えました。

そして9月12日に信長は比叡山延暦寺に対する総攻撃を命令。まずは比叡山山麓にある坂本(滋賀県大津市)に火を放ちます。この時の様子が『信長公記』に書かれていますが、火は根本中堂・日吉大社をはじめとして仏堂に神社、僧坊や経蔵などを一棟もの残すことなく焼き払い、煙は雲のごとく湧きあがり、山は灰燼の地と化したとのこと。当時の史料によれば、煙は京の町からも見えるほどでした。

『信長公記』によれば、人々は八王子山に逃げのぼり、日吉大社の奥宮に逃げ込みましたが、信長の兵は攻め登り「僧俗、児童、智者、上人一々に首をきり」落としたそうです。また、女性や小さい子供は捉えて信長の前に突き出されたとあります。とにかくひたすら首を落としたので、あたりには数千もの死体がごろごろ転がっており、目にも当てられぬ有様だったそうです。

また、同時代の公卿・山科言継による『言継卿記』にも記述があり、言継は「僧俗男女三四千人切り捨て、堅田等放火、仏法破滅、説くべからず、王法いかにあるべきや」と信長を非難するとともに不安をあらわにしています。

信長の比叡山焼き討ち②本当に大規模なものだったの?

以上が文献から読み解く比叡山焼き討ちについてですが、実際はここまでひどいものではなかったという説が現在は有力視されています。昭和後期に数度にわたって実施された発掘調査の結果、焼き討ちで焼失したことが分かる建物は根本中堂と大講堂のみで、それ以外は焼き討ち以前になくなっていたものが多いことが分かりました。また、発掘では虐殺があったとすれば出てくるべき大量の人骨も出土されていません。このため実際は寺社の一部と坂本の町を焼いた態度だったのでは、との説が出ています。

『信長公記』によれば、当時の比叡山延暦寺の僧侶たちの評判が著しく悪く、山に女性を招いて色欲にふけり、仏教で禁じられた肉食をし、金銀財宝をため込んでいたとのこと。奈良興福寺多門院の僧侶による『多聞院日記』でも、元亀元年時点で比叡山延暦寺の伽藍は荒れ果てており、僧侶たちはほとんどが坂本に住んでおり、乱れた生活をしていた様子が分かります。

そもそも『信長公記』は信長の死後に書かれており、『言継卿記』もまた聞きの内容を書き記したもの。結局のところ、比叡山焼き討ちについては燃えてしまったこともあり、はっきりとしたことはあまりよくわかっていないのが現状です。

信長の比叡山焼き討ち③焼き討ちした理由は?

織田信長が比叡山焼き討ちをした理由について、『信長公記』では戒律を破り勝手気ままにふるまう僧侶たちに対する憤りと、自ら敵対する浅井・朝倉軍に与したことに対する「鬱憤」が記されています。

信長自身はキリスト教を保護しつつも神仏は否定しない、いわば宗教的には特に偏りがないスタンスだったようですが、自らに歯向かうものには容赦しませんでした。しかも延暦寺は僧兵のいる軍事拠点で、地理的にも近江につながる交通の要衝。京を守るには押さえておくに越したことはありません。こうした複合的な理由で比叡山は焼き討ちされるに至ったと考えられています。

焼き討ち後の比叡山延暦寺

比叡山延暦寺の焼き討ち後、織田信長は9月13日には比叡山を出て上洛し、将軍御所に報告をしたのち9月20日には岐阜に戻っています。その後、延暦寺と日吉大社の寺領・社領は没収の上、明智光秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家・丹羽長秀の5名に配分されました。特に明智光秀は近江国志賀郡(滋賀県大津市など)の支配を任せれ、坂本城を築城して居城としています。当時の書状から見ると、光秀は比叡山焼き討ちに積極的に関与していたようです。

その後、比叡山延暦寺は逃げ延びた僧侶達によりたびたび復興を企てられますが、信長がストップをかけます。結局復興が許可されたのは比叡山の焼き討ちから約13年後、豊臣秀吉の時代に入ってからでした。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。