明応の政変戦国時代の幕開けとなったクーデター
明応の政変
日本史の華ともいえる群雄割拠の戦国時代のきっかけとなった事件が、明応2年(1493年)4月に京都で起きた「明応の政変」です。室町幕府8代将軍・足利義政の正室・日野富子と細川政元が将軍をすげ替えたクーデターにより、幕府の権威は落ち、下剋上が広まり戦国時代が訪れました。今回はそんな時代のターニングポイントともいえる明応の政変について、背景とその影響などを解説していきます。
明応の政変の背景にある「応仁の乱」
明応の政変を解説する前に、押さえておきたいのが応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年間にわたって起こった「応仁の乱」です。この戦いはそもそも
- 幕府の要職(三管・四職)についていた細川勝元と山名宗全の権力争い
- 「三管」の畠山家や斯波家の権力争い
- 8代将軍・足利義政の後継者争い
主にこの3つ要因で起こりました。
このうち今回最も注目したいのが③の将軍家の後継者争いです。足利義政とその正室・日野富子の間には長い間跡継ぎの男子が育ちませんでした。そのため義政は出家していた弟の足利義視を還俗させて養子に迎え、自らの跡継ぎにします。後見には細川勝元がつきました。
ところがその後、日野富子が足利義尚を出産。自らの息子を将軍にしたい富子は義視を追い落とそうと根回しを続けます。このとき富子を助けたのが山名宗全でした。こうして山名宗全・足利義尚が率いる西軍と細川勝元・足利義視が率いる東軍が対立し、諸国の守護大名たちがそれぞれの軍勢を支持。大規模な内乱「応仁の乱」が発生します。
応仁の乱は当初東軍が有利でしたが、中国地方や北九州の一部を治める守護大名・大内政弘が西軍についたことで形勢は逆転します。そんななか東軍の総大将を務めていた足利義視が東軍から逃げ出して西軍に入り、事態は混迷していきます。文明5年(1473年)には山名宗全・細川勝元が相次いで死亡しますが、戦乱は続きます。
結局文明6年(1474年)に足利義政が隠居し、第9代将軍に足利義尚が着任。細川勝元の息子・細川政元と山名宗全の孫・山名政豊の間に和睦が締結されて戦は一段落します。その後、畠山義就と大内政弘は戦争の継続を叫びますが、日野富子の仲裁などにより文明8年(1476年)12月に西軍が解体され、応仁の乱は終結しました。
幕府の権威を再び!第一次六角征伐
応仁の乱により室町幕府の権威は低下しました。こうした厳しい状況のなかで即位した第9代将軍・足利義尚はなんとか幕府の権威を取り戻そうと努力していくことになります。
応仁の乱の後、幕府の力が失われていくなかで各地の守護大名や豪族たちは勢力を拡大していきました。その1人が近江国(現滋賀県)守護の六角高頼で、公家の荘園などを横領して力をつけていました。ところが長享元年(1487年)に高頼の公家・寺社領地の横領が発覚。幕府は高頼を討伐するために近江に遠征します(第一次六角征伐・鈎の陣)。
遠征は幕府の存在感を再び高め、威信の回復をねらう目的もあり、実施されました。ところが六角高頼は甲賀と協力してゲリラ戦を展開。戦いは長期化し、延徳元年(1489年)3月、足利義尚は病没します。享年25歳でした。このため幕府軍は六角征伐を取りやめます。
10代将軍決めで再び後継者争い
足利義尚には子供がいませんでした。このためまたもや後継者争いが勃発します。「三管」と呼ばれる将軍を補佐し、政務全体を管理する管領職を務める一家である細川家の当主・細川政元が推したのは、足利義政の異母兄で伊豆国(静岡県伊豆の国市)を中心に統治する堀越公方に就いていた足利政知の子、足利義澄でした。義澄は当時、京都・嵐山の天龍寺香厳院(京都市右京区)の禅僧で「清晃」と名乗っており、その後数度にわたり改名を繰り返しますが、ここでは混乱を避けるため義澄で表記を統一します。
一方、足利義政の正室・日野富子や畠山政長は足利義視の子供、足利義材(のちの義稙)を推挙します。義材の母は富子の妹・日野良子。つまり富子は甥を将軍の座につけようとしたのです。
延徳2年(1490年)1月、一時期政務を執り行っていた足利義政が病没すると、跡継ぎに決まったのは足利義材でした。将軍家に嫁いで約40年、芸術に逃げがちな義政に代わって政務を取り仕切った日野富子の力の方が細川政元よりも強かったわけです。
この決定に不満を持ったのが細川政元と伊勢貞宗でした。政元については、足利義材が「政務は政元に一任する」と約束して将軍に就任したため、一度は落ち着きますが、こんな約束が守られるわけはなく、政元は約束を破られて不満を募らせていきます。
伊勢貞宗は足利義政の側近・伊勢貞親の息子です。貞親は文正元年(1466年)夏の「文正の政変」の際、義政に義視の追放と抹殺を殺害するよう讒言していました。このため義視-義材ラインが権力を握ると冷遇される、もっといえば自らの身が危険になるかもしれません。そう考えた貞宗は不満を抱えながらも家督を息子に譲って隠居します。
こうして日野富子・足利義視・義材VS細川政元・足利義澄の対立が深まっていく…かと思いきや、富子の思わぬ行動が波紋を生むことになります。富子は同年4月、富子が義尚とともに住んでいた小川御所(京都市上京区)を義澄の住処として譲ることを決めます。義澄サイドへのフォローのつもりだったのかもしれませんが、前将軍の象徴ともいうべき屋敷を義澄に受け継がせるということは、現将軍の義材を軽視することにつながります。これに激怒した義視は富子に無断で小川御所を叩き壊し、土地を差し押さえました。
日野富子の行動の理由として、足利義視・義材が権力におごって暴走しないように牽制することを狙った、という説があります。自分の意のままにならなかったら義澄につく、という脅しの意味もあったのかもしれません。富子の考えははっきりしませんが、この件で富子と義視・義材との間には亀裂が生じました。そもそも義視と富子は応仁の乱で将軍の座を争った敵同士。こうして一枚岩だったはずの10代将軍サイドで内輪もめが起こります。7月5日、義材は10代将軍に就任。義視は大御所として政権を運営しますが、延徳3年(1491年)に病没しました。義視の死後も義材と富子の仲は回復せず、対立は続いていきます。
2度目の六角征伐と河内征伐
大御所として頼りにしてきた足利義視が死亡し、後ろ盾となっていたはずの日野富子との関係も悪化、加えて細川政元との対立も続く。そんななか足利義材がとった策は、9代将軍がなしえなかった六角征伐を成功させ、再び幕府の権威を高めることでした。政元は強硬に反対しますが2度目の六角征伐は実施され、六角高頼を伊勢へと追いやることができました。
成功裏に終わった六角征伐ですが、細川政元は「政権運営は任せる」との約束を反故にされ、足利義視の死後も自らの意見を聞き入れない義材に対し不満を強めます。さらに、2度目の六角征伐の際、代わりに派遣した家臣の安富元家が大敗したことで、義材は政元以外の大名を頼るようになっていきます。こうして政元はさらに義材に不満を募らせるという負のスパイラルに陥るわけです。
そんなことは気にしないのか、足利義材は畠山家の家督争いを収めるために河内(大阪府南東部)への出兵を決定します。畠山家で畠山持国の跡継ぎを巡り、息子の畠山義就と甥の畠山政長が争っており、それが応仁の乱の一因になっていました。応仁の乱後も争いは続いていましたが、義就は延徳3年(1491年)に病没したため、義就の息子・畠山基家(義豊)と政長が戦っていました。義材は政長と連携しており、政長の要請を受けて基家討伐に動き出したのです。
これに反対したのが細川政元でした。細川家は畠山家と同じ管領を輩出する三管領家であり、地盤も同じ畿内だったため、長年ライバル関係にありました。細川家にとっては畠山家が内乱で弱ることは好都合のため内乱を放置したかったのです。しかし、結局河内征伐は実施されました。
足利義材は2月15日に討伐軍を出発させ、24日には正覚寺(大阪市平野区)に本陣を置きます。そして畠山基家のいる高屋城(大阪府羽曳野市)を包囲し、順調に討伐を進めていきます。基家は敗北寸前まで追い詰められました。
こうした動きを見た細川政元は、畠山家の内乱を長引かせるため、討伐対象で自らも敵対していた畠山基家と手を組むという大胆な策をおこないます。さらに当時京では「足利義材は基家の討伐が終わった後に細川政元を討伐する」という噂が流れていたこともあり、政元は義材へのクーデターを決意。本拠地の京に義材がいない今が挙兵のチャンスと考え、義材に不満を抱いていた伊勢貞宗や、義材と対立していた日野富子を説得し、味方に引き入れます。
さらに細川政元は姉の洞松院を赤松政則に嫁がせ、政則を味方につけます。政則は第一次六角討伐の際の戦奉行でかなりの有力者。もともと赤松家は侍所長官を務める「四職」の一家でしたが、嘉吉元年(1441年)に起きた、第6代将軍足利義教暗殺事件(嘉吉の乱)の首謀者として幕府に討伐されていました。その後、赤松家は政元の父・細川勝元の助力により政界復帰を成し遂げており、細川家には多大なる恩を感じていたのです。
明応の政変①細川政元の挙兵
こうして着々とクーデターの準備を進めた細川政元は明応2年(1493年)4月22日の夜、ついに京で挙兵します。明応の政変の始まりです。政元はまず、自分が擁立した足利義澄を保護。そして河内にいる10代将軍・足利義材の関係者や姉妹のいる屋敷を次々と攻撃します。加えて義澄を11代将軍に擁立することを宣言し、4月28日には将軍に就任させました。
そして細川政元は朝廷に根回しし、足利義澄を将軍として認めさせます。後土御門天皇は勝手に将軍をすげ替えられたことに怒りを感じましたが、結局将軍交代を認めました。その決め手の一つが政元による政治献金だったという、なんともいえない話も残っています。
一方、細川政元挙兵の知らせを受けた足利義材は驚愕します。諸大名、室町幕府の将軍直臣たちは「将軍が2人だと・・・?」と大混乱に陥りました。そうしたなか、伊勢貞宗から「新将軍に従うように」との書面が届くと、河内にいた大名や将軍直臣たちは足利義澄につこうと京に戻ります。これは、立て続く六角征伐・河内征伐が大名たちに多大な負担を強いたことが一因でした。とはいえ日野富子や伊勢貞宗の力も大きく働いたのはいうまでもありません。結局義材のもとに残ったのは畠山政長のみ。とはいえ約8000の兵がともにおおり、義材は徹底抗戦するつもりで準備を進めるのでした。
明応の政変②足利義材、正覚寺で敗北
細川政元は閏4月7日、上原元秀・安富元家らを足利義材討伐軍として河内に派遣します。この軍に畠山基家や政元に与する大名たちも加わり、討伐軍はおよそ4万にまで膨れ上がりました。これに対し、義材と畠山政長は正覚寺に立てこもり、100以上の櫓を建てるなどして守りを固め、討伐軍を待ち構えました。
実は足利義材たちには勝算がありました。それが政長の治める紀伊(和歌山県、三重県南部)からの援軍です。約1万の援軍が正覚寺に向かっており、援軍が来れば巻き返しが期待できます。しかし援軍は堺で赤松政則により足止めされてしまい、戦闘の挙句敗北し、正覚寺にたどり着けませんでした。
そうしているうちに城の食糧は減り、兵士たちの士気も徐々に低下していきます。そして食糧がほぼなくなった閏4月24日、討伐軍は総攻撃を開始。翌朝には城は陥落し、畠山政長は重臣たちと共に自害しました。足利義材は討伐軍に投降し、京に送られ竜安寺で幽閉生活を開始します。こうして明応の政変は終結しました。
明応の政変後の室町幕府
明応の政変後、細川政元は幕政を掌握し、将軍は傀儡化していくことになります。とはいえ、11代将軍に就任した足利義澄の背後には日野富子や伊勢貞宗がおり、政元の専横は度々ストップされるわけですが…。また、義澄が成長するにつれ政元と義澄の政治的対立が起こりますが、細川家の跡継ぎ争いに絡んだ将軍職争いで室町幕府の権威は地に落ち、幕府は緩やかに崩壊していくことになります。
細川家の跡継ぎ争いの原因は細川政元にありました。修験道にハマったことで生涯独身だった政元には実子がおらず、3人の養子がいました。当初は摂関家の九条家から養子に取った細川澄之を嫡子にしましたが、後にこれを廃嫡して細川一門の阿波守護家から迎えた細川澄元を嫡子にします。このため澄之派と澄元派が細川家内で争うことになりました。
そして永正4年(1507年)6月23日、細川政元は澄之派閥の香西元長らに暗殺されてしまいます(永正の錯乱)。その後、政元の跡目は紆余曲折の結果、もう1人の養子・細川一門出身の細川高国と連携した細川澄元が継ぎました。ところがこの澄元と高国が対立。細川家の内部争いはその後20年以上続くことになります。
将軍家の跡目争いは足利義材が幽閉先から脱出し、畠山政長の重臣・越中(富山県)守護代の神保長誠のもとに逃げ延びたことから再び始まりました。義材は「越中公方」として勢力を拡大。畠山政長の息子で正覚寺から脱出に成功していた畠山尚順らとともに細川政元討伐を訴え、たびたび上洛を目指して軍事行動を起こします。明応7年(1498年)には義尹と改名し、朝倉氏を頼り、比叡山延暦寺、高野山などと挙兵して近江まで進出しました。そして細川政元が暗殺されると、細川高国が義尹に接近。高国の後ろ盾を得た義尹は幾多の争いの結果、永正4年(1507年)7月に将軍に返り咲きました。
足利義尹により京を追われた足利義澄と義澄と組んでいた細川澄元は亡命生活を続けます。義澄は将軍に帰り咲くことなく命を落としますが、息子の足利義晴が第12代将軍を継いでいます。このように室町幕府は「義稙流」と「義澄流」の二派に分裂し、それぞれの派閥から将軍が生まれます。この両派の争いが全国に戦を拡大させていくことになり、やがて部下が主君を討つ下剋上の風潮の広がりとともに戦国時代が訪れることになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。