琉球侵攻(2/2)薩摩・島津氏が琉球を支配下に

琉球侵攻

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事件簿
事件名
琉球侵攻(1609年)
場所
沖縄県
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ところが琉球王国はお礼の返礼使節すら送りません。このため慶長9年(1604年)、島津義久は尚寧王に対し、漂流者を送り届けたことに対する返礼の使節を送るよう要望。その際、徳川家康が漂流者を送り届けた理由として、「琉球王国が薩摩の従属国であるから」としています。これは朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が琉球王国を島津氏の「与力」、つまり軍事指揮下にあるとみなしたことが根拠でした。

琉球王国側はこれに反発。要望に応えて返礼使節を送るということは、日本の従属国であることを自ら認めることになってしまうため、島津義久の要望を拒否します。

そうこうしているうちに慶長10年(1605年)、明から帰国途中の琉球船が平戸に漂着。幕府は「もう一度チャンスが来た」とばかりに、漂着した一行を琉球王国に丁重に送り届けるとともに、平戸領主の松浦鎮信を使って琉球王国に謝意を表するよう求めます。これを見た島津氏は危機感を募らせます。これまで独占していた「琉球王国との窓口=島津」という独占的地位が揺らぎ始めていたからです。

実は島津氏の財政は九州征伐での敗退や朝鮮出兵によりボロボロの状態でした。加えて慶長11年(1606年)には年貢の徴収が難しい荒れ果てた知行地が発覚。全知行地の2割にも及ぶ広さの役立たずな土地が増えたことで、財政はさらに悪化します。この立て直しのためには貿易による富を持つ琉球王国を支配下に入れるしかない。そう考えた新藩主・島津忠恒(家久)にとって、松浦鎮信の動きは邪魔でした。

島津忠恒は一向に来ない返礼使節を理由に、6月に大島出兵を幕府に願い出、許可を得ます。いざ琉球王国攻め、と思いきや、同時期に琉球王国に明からの冊封使がやってきていたことなどから、この年の出兵は中止されました。

このとき冊封使として明からやってきたのが、琉球について書いた『使琉球録』を書いた夏子陽です。夏子陽は琉球王国に対し、薩摩軍に備えて軍備を強化するように主張。これに対し、三司官(国王を補佐して国務をつかさどる役人)は「琉球の国の霊威ある神が助けてくれるので恐れるに足らず」と回答しています。琉球は古来より祭司の力が重要視されており、王と国土を守護する存在として崇められていました。この現状に危機感を持った夏子陽は琉球王国に武器を作らせるとともに、防御策を指導しています。

その後、徳川家康は再度琉球王国に対し使節を送るよう求めますが、琉球王国は拒絶し続けます。島津忠恒も最後通牒を突きつけますが、琉球王国がこれを拒否したことで、琉球討伐がスタートすることになるのです。

琉球侵攻は島津軍の圧倒的勝利

慶長14年(1609年)3月4日、薩摩軍は約3000名を率いて約100隻の船で山川港(現鹿児島県指宿市)を出発。大将は重臣・樺山久高で鉄砲734挺、弾丸は1挺につき約300発と重装備です。対する琉球王国の武器は明の支援を受けたとはいえ弓がメインで、戦慣れしていません。戦う前から結果は見えていたといえるでしょう。

3月7日、薩摩軍は奄美大島に到着し、ほぼ戦闘はなく島内を制圧。奄美大島は琉球王国の支配下にありましたが、琉球王国を見限って薩摩藩に全面的に協力しました。その後、薩摩藩は3月20日に大島を出航して徳之島に向かいます。

こうした薩摩藩の動きは琉球王国も察知していました。3月10日に薩摩軍が奄美大島に到着した報告を受け、琉球王国は降伏を申し入れようと長老の天龍寺以文を派遣しますが、以文は隠れて薩摩軍と出会わずに終了します(戦闘があったという説もあるようです)。

薩摩軍は3月22日には徳之島を制圧。銃を駆使する薩摩軍に対し、徳之島の人々は丸太棒や竹やりで戦いましたが数百人の被害を経て敗退しました。その後、薩摩軍は3月24日に沖永良部島に到着。徳之島の敗退を聞いた沖永良部島の主は降参しました。3月25日には沖縄本島北部の運天港に入り、3月27日に今帰仁城を占領しました。これに対し琉球王国は西来院菊隠を和睦の使者として派遣しましたが、ここでは講和とはならず、那覇で和睦の会議をすることが決まりました。

薩摩軍は海路・陸路で南下を続け、4月1日には那覇港に到着して首里城を包囲。ここで戦闘があり、琉球王国は一度は薩摩の船団を退けますが、薩摩の陸軍に大敗します。その後和睦を話し合う会議が行われた結果、4月5日には琉球王の尚寧王が下城し、首里城は開城しました。こうして島津氏による琉球侵攻は終わりをつげ、琉球王国は江戸幕府・薩摩藩の属国化することになったのでした

琉球侵攻後の江戸幕府と琉球王国

琉球侵攻後、琉球王国の尚寧王と重臣たち約100名は薩摩に向かって旅立ちました。そして翌年(1610年)、薩摩から島津忠恒とともに江戸へと出発し、駿府城で徳川家康に、8月28日に江戸城で2代将軍・徳川秀忠と謁見しています。

このとき島津忠恒は家康から「御内書」で琉球の支配権を承認されており、さらに奄美大島については薩摩の直轄地となりました。一方、秀忠は「琉球王国は他の姓のものを国主にして改易することはせず存続させる」ことを決定。これは琉球王国に日明貿易のサポートを期待してのことで、このため琉球王国には「王国」であり続けることができたのです。ただし、島津氏には琉球王国から年貢を徴収することを許可しており、実質的には島津氏の支配下にありました。

謁見後、尚寧王たちは薩摩に戻り、「今後は薩摩に忠誠を誓うように」と起請文を強制的に書かされました。琉球の場合、起請文は神仏に誓う重要なもの。このとき三司官の謝名親方が起請文を拒否し、その結果処刑されています。

また、薩摩は「掟十五カ条」を琉球王国に申し渡します。内容は、薩摩の命令のない明への朝貢品の禁止、薩摩の許可のない商人の取引の禁止、琉球から他領への貿易船渡航の禁止、年貢の取納などでした。なお、年貢については検地により約9万石と定め、米や芭蕉布などを年貢として納めさせています。

これを尚寧王たちは受け入れ、慶長16年(1611年)9月に薩摩を出発し、2年半ぶりに琉球王国に帰国します。さらに、琉球王国は江戸幕府や薩摩に服属していることを内外に示すため、王の代替わりの際は「謝恩使」を、徳川将軍の代替わりのときには「慶賀使」を江戸に派遣することを義務づけられました。これが俗にいう「江戸上り」で、その異国情緒あふれる華やかな様子は注目の的になりました。

その後、琉球王国は明の次に興った清ともバランスの良い関係をとり、江戸幕府と清の二国に服属する両属関係を保ち続けました。そして明治維新後に琉球王国が廃止される「琉球処分」が起こるまで、琉球王国は「王国」としての地位を保ち続けていくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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