琉球侵攻薩摩・島津氏が琉球を支配下に
琉球侵攻
慶長14年(1609年)、薩摩藩主・島津忠恒(家久)は兵を率いて琉球王国を攻めて支配下に置きました。これが「琉球侵攻」と呼ばれる事件です。島津侵入事件、島津の琉球入り、琉球出兵などと呼ばれるこの事件により、琉球王国は「王国」としての地位を保ちつつも、実質的に江戸幕府・薩摩藩の支配を受けることになるのです。今回はそんな琉球侵攻について、重要なファクターである日明貿易について触れながら、詳しく説明します。
「琉球侵攻」のターゲット・琉球王国とは
琉球侵攻を語るには、琉球王国について知っておく必要があります。14世紀ころから沖縄本島では「北山」「中山」「南山」の3王国が乱立して争っていました。これを1429年に中山王の尚巴志が統一したことで琉球王国が成立。首都を首里城に定め、貿易拠点を那覇に移しました。
そして日本本土や明(中国)、朝鮮半島やマラッカ王国など東南アジアと交易を実施。海禁政策を取っていた明とは、他のアジア諸国と同様、皇帝に貢物を送って服従の姿勢を示し、皇帝から君主と認めてもらうとともに下賜品を拝領する、冊封体制下の「朝貢貿易」を実施していました。沖縄本島では14世紀の三国時代から冊封体制下にあり、これを琉球王国も継承したのです。
琉球王国は明から貿易面でかなり優遇されていました。通常貿易は3年に1度などの回数制限や訪れる港も決まっていましたが、琉球王国は毎年1、2回訪問でき、決められた港以外でも入港可能にするなど、他国よりもフレキシブルに貿易できたのです。その理由は、明が取り締まりに苦慮していた倭寇(海賊および密貿易集団)が関係していました。明は倭寇の貿易相手として琉球王国を位置づけ、倭寇の略奪による被害などを減らそうと考えたのです。さらに、倭寇の情報収集先や、日本との交渉先としても琉球王国を利用する考えでした。
琉球王国はこうした背景をもとに、東シナ海と南シナ海を結ぶ中継貿易の拠点として発展していきます。中継貿易というのは、明で得た品物を日本に再輸出するといった、いわゆる転売です。琉球では胡椒、硫黄や馬、刀剣などさまざまな品物が往来することになりました。
ところが明が徐々に朝貢貿易を縮小し、ポルトガルを始めとした西欧諸国が東南アジアに進出してきたことで、16世紀に入ると琉球王国の中継貿易には陰りが見え始めます。それにより、これまで貿易相手国として付き合いを続けてきた日本との関係にも、従属的なものに変化していくことになります。
琉球王国と島津氏の関係は?
島津氏が琉球王国と関わり始めたのは諸説ありますが14世紀後半頃からと言われており、琉球王国経由で朝鮮と交易をしたり、明に朝貢を試みたりしています。さらに文明3年(1471年)には室町幕府の許可を得て、島津氏が発行する「琉球渡海朱印状」を持たない貿易船は渡航できないというルールを作り、琉球王国に対しても朱印状を持たない船の入港を拒否するよう求めています。島津氏は日本/琉球間の貿易独占を狙ったのです。
そんな島津氏ですが、戦国時代後期には北九州以外を手中に収め、九州統一を目指して大友氏と対立。ところがこれに豊臣秀吉が待ったをかけ、天正14年(1586年)7月から翌天正15年(1587年)4月までの「九州平定(九州征伐、島津征伐とも)」が起こります。この結果島津氏は秀吉に敗退し、秀吉の傘下に入ることになりました。
その後、秀吉は琉球王国にも服属を求めて上洛するよう要求します。天正16年(1588年)に島津義弘は、琉球王国に書簡を送り、秀吉関白就任を祝う使節を派遣するよう要求。これに対し、翌年琉球王国の尚寧王は使者を出します。琉球王国としては服属をはっきり認めたわけではありませんが、秀吉は「琉球が服属した」と一方的に決めつけました。
琉球王国と「朝鮮侵略」
その後、豊臣秀吉は朝鮮侵略(文禄・慶長の役)の際、軍役負担を薩摩と属国と位置付ける琉球王国に強います。天正19年(1591年)、島津氏は秀吉の命として、琉球王国に対し、「薩摩と琉球王国合わせて1万5000人の軍役を求められているが、琉球王国は戦闘経験がないため軍勢の派遣は求めない」と説明。その代わりに兵糧舞7000人・10か月分の供出を命じます。
これに対し、琉球王国は、ちょうど明からの冊封使を迎える時期だったので経済的に余裕がありません。さらに、日本側への肩入れが明にばれた場合、明との関係が悪化する可能性も十分にあります。重要な貿易国である明との関係は維持したいところ。このため琉球王国は軍役の半分のみを負担するにとどまります。残り半分は薩摩氏が負担したため、琉球王国は薩摩氏に借りを作ることになってしまいました。
なお、この際島津氏は朝鮮侵略を他国に漏らさないよう口止めしていますが、琉球王国は明に対し使者を送って秀吉の動向を報告。そして文禄2年(1593年)に文禄の役が終了した後は明よりの姿勢を強めていきます。
その後、慶長2年(1597年)から始まった「慶長の役」は翌3年(1598年)、秀吉の死で終わりを告げます。秀吉の死後は五大老の筆頭にのし上がった徳川家康が力を増し、天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いを経て、徳川・江戸幕府が日本を支配していくことになるのです。
江戸幕府が琉球王国に求めた「日明貿易の仲介」
慶長8年(1603年)に江戸幕府を立ち上げた徳川家康は、明との貿易再開をめざします。交易復活の鍵として考えたのが明と朝貢関係にある琉球王国でした。実は慶長7年(1602年)、東北の伊達政宗領内に琉球船が漂着しており、その際家康は漂着者たちを丁重に扱い、島津氏に付き添いを命じています。琉球王国に恩を売ることで、琉球王国が明との仲介を助けてくれるのではと期待したのです。
ところが琉球王国はお礼の返礼使節すら送りません。このため慶長9年(1604年)、島津義久は尚寧王に対し、漂流者を送り届けたことに対する返礼の使節を送るよう要望。その際、徳川家康が漂流者を送り届けた理由として、「琉球王国が薩摩の従属国であるから」としています。これは朝鮮出兵の際、豊臣秀吉が琉球王国を島津氏の「与力」、つまり軍事指揮下にあるとみなしたことが根拠でした。
琉球王国側はこれに反発。要望に応えて返礼使節を送るということは、日本の従属国であることを自ら認めることになってしまうため、島津義久の要望を拒否します。
そうこうしているうちに慶長10年(1605年)、明から帰国途中の琉球船が平戸に漂着。幕府は「もう一度チャンスが来た」とばかりに、漂着した一行を琉球王国に丁重に送り届けるとともに、平戸領主の松浦鎮信を使って琉球王国に謝意を表するよう求めます。これを見た島津氏は危機感を募らせます。これまで独占していた「琉球王国との窓口=島津」という独占的地位が揺らぎ始めていたからです。
実は島津氏の財政は九州征伐での敗退や朝鮮出兵によりボロボロの状態でした。加えて慶長11年(1606年)には年貢の徴収が難しい荒れ果てた知行地が発覚。全知行地の2割にも及ぶ広さの役立たずな土地が増えたことで、財政はさらに悪化します。この立て直しのためには貿易による富を持つ琉球王国を支配下に入れるしかない。そう考えた新藩主・島津忠恒(家久)にとって、松浦鎮信の動きは邪魔でした。
島津忠恒は一向に来ない返礼使節を理由に、6月に大島出兵を幕府に願い出、許可を得ます。いざ琉球王国攻め、と思いきや、同時期に琉球王国に明からの冊封使がやってきていたことなどから、この年の出兵は中止されました。
このとき冊封使として明からやってきたのが、琉球について書いた『使琉球録』を書いた夏子陽です。夏子陽は琉球王国に対し、薩摩軍に備えて軍備を強化するように主張。これに対し、三司官(国王を補佐して国務をつかさどる役人)は「琉球の国の霊威ある神が助けてくれるので恐れるに足らず」と回答しています。琉球は古来より祭司の力が重要視されており、王と国土を守護する存在として崇められていました。この現状に危機感を持った夏子陽は琉球王国に武器を作らせるとともに、防御策を指導しています。
その後、徳川家康は再度琉球王国に対し使節を送るよう求めますが、琉球王国は拒絶し続けます。島津忠恒も最後通牒を突きつけますが、琉球王国がこれを拒否したことで、琉球討伐がスタートすることになるのです。
琉球侵攻は島津軍の圧倒的勝利
慶長14年(1609年)3月4日、薩摩軍は約3000名を率いて約100隻の船で山川港(現鹿児島県指宿市)を出発。大将は重臣・樺山久高で鉄砲734挺、弾丸は1挺につき約300発と重装備です。対する琉球王国の武器は明の支援を受けたとはいえ弓がメインで、戦慣れしていません。戦う前から結果は見えていたといえるでしょう。
3月7日、薩摩軍は奄美大島に到着し、ほぼ戦闘はなく島内を制圧。奄美大島は琉球王国の支配下にありましたが、琉球王国を見限って薩摩藩に全面的に協力しました。その後、薩摩藩は3月20日に大島を出航して徳之島に向かいます。
こうした薩摩藩の動きは琉球王国も察知していました。3月10日に薩摩軍が奄美大島に到着した報告を受け、琉球王国は降伏を申し入れようと長老の天龍寺以文を派遣しますが、以文は隠れて薩摩軍と出会わずに終了します(戦闘があったという説もあるようです)。
薩摩軍は3月22日には徳之島を制圧。銃を駆使する薩摩軍に対し、徳之島の人々は丸太棒や竹やりで戦いましたが数百人の被害を経て敗退しました。その後、薩摩軍は3月24日に沖永良部島に到着。徳之島の敗退を聞いた沖永良部島の主は降参しました。3月25日には沖縄本島北部の運天港に入り、3月27日に今帰仁城を占領しました。これに対し琉球王国は西来院菊隠を和睦の使者として派遣しましたが、ここでは講和とはならず、那覇で和睦の会議をすることが決まりました。
薩摩軍は海路・陸路で南下を続け、4月1日には那覇港に到着して首里城を包囲。ここで戦闘があり、琉球王国は一度は薩摩の船団を退けますが、薩摩の陸軍に大敗します。その後和睦を話し合う会議が行われた結果、4月5日には琉球王の尚寧王が下城し、首里城は開城しました。こうして島津氏による琉球侵攻は終わりをつげ、琉球王国は江戸幕府・薩摩藩の属国化することになったのでした
琉球侵攻後の江戸幕府と琉球王国
琉球侵攻後、琉球王国の尚寧王と重臣たち約100名は薩摩に向かって旅立ちました。そして翌年(1610年)、薩摩から島津忠恒とともに江戸へと出発し、駿府城で徳川家康に、8月28日に江戸城で2代将軍・徳川秀忠と謁見しています。
このとき島津忠恒は家康から「御内書」で琉球の支配権を承認されており、さらに奄美大島については薩摩の直轄地となりました。一方、秀忠は「琉球王国は他の姓のものを国主にして改易することはせず存続させる」ことを決定。これは琉球王国に日明貿易のサポートを期待してのことで、このため琉球王国には「王国」であり続けることができたのです。ただし、島津氏には琉球王国から年貢を徴収することを許可しており、実質的には島津氏の支配下にありました。
謁見後、尚寧王たちは薩摩に戻り、「今後は薩摩に忠誠を誓うように」と起請文を強制的に書かされました。琉球の場合、起請文は神仏に誓う重要なもの。このとき三司官の謝名親方が起請文を拒否し、その結果処刑されています。
また、薩摩は「掟十五カ条」を琉球王国に申し渡します。内容は、薩摩の命令のない明への朝貢品の禁止、薩摩の許可のない商人の取引の禁止、琉球から他領への貿易船渡航の禁止、年貢の取納などでした。なお、年貢については検地により約9万石と定め、米や芭蕉布などを年貢として納めさせています。
これを尚寧王たちは受け入れ、慶長16年(1611年)9月に薩摩を出発し、2年半ぶりに琉球王国に帰国します。さらに、琉球王国は江戸幕府や薩摩に服属していることを内外に示すため、王の代替わりの際は「謝恩使」を、徳川将軍の代替わりのときには「慶賀使」を江戸に派遣することを義務づけられました。これが俗にいう「江戸上り」で、その異国情緒あふれる華やかな様子は注目の的になりました。
その後、琉球王国は明の次に興った清ともバランスの良い関係をとり、江戸幕府と清の二国に服属する両属関係を保ち続けました。そして明治維新後に琉球王国が廃止される「琉球処分」が起こるまで、琉球王国は「王国」としての地位を保ち続けていくことになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。