西南戦争士族最後の戦い、西郷隆盛VS政府
西南戦争
明治2年(1869年)に戊辰戦争が終結した後、新政府(明治政府)は改革を次々と進めていきます。そんななか、士族たちが西郷隆盛を旗印に起こした反乱が、明治10年(1877年)2月15日から9月24日にかけて、熊本・宮崎・大分・鹿児島県で発生した西南戦争です。追い詰められた士族たちによる国内最後の内戦は、悲惨な戦いとしても知られています。今回はそんな西南戦争について、分かりやすく解説していきます。
西南戦争はなぜ起きた?士族の反乱の背景は
戊辰戦争で旧幕府軍が敗退した後、明治政府は次々に改革を実施。明治2年(1869年)6月には版籍奉還で大名達に土地(版)と人民(籍)を天皇に返納させました。大名たちは知藩事に任命されて引き続き統治を続けましたが、あくまでも天皇がTOPに立ったのです。さらに明治4年(1871年)7月には全国の藩を廃して府や県を置く廃藩置県をおこないます。天皇への中央集権化が急速に進んでいきます。
政府は明治6年(1873年)には国民皆兵を原則として農民も兵役を課せられる徴兵令を実施。明治9年(1876年)には帯刀を禁止する廃刀令と、武士に対して政府が俸禄代わりに支払っていた秩禄を廃止する秩禄処分をおこないます。秩禄は国家予算の約4割占め、財政をひっ迫していました。人口の5%程度しかいない士族たちに多額の金を払っていることへの批判も相次いでおり、秩禄の廃止は時代の必然だったといえるでしょう。
実は政府は明治維新時点で武士の秩禄をかなり削減しており、明治3年(1870年)には武士から農民や承認に「転職」する場合は禄高の5年分を払う制度を作るなど、武士たちの廃業を進めていました。秩禄処分もその流れで発生したものです。とはいえ一方的に秩禄を廃止しただけでは士族たちのほとんどが路頭に迷い、不満が噴出することは確実でした。そこで政府は退職金として、禄高の数年から十数年分の金禄公債を与えます。公債を持っていれば利子が発生するので、士族は引き続き金を受け取れるのです。しかし利子はわずかにすぎず、公債を売り払って商売を始める士族もいましたが成功したものはごくわずか。かといって能力重視の政府の官僚になるには力不足でままならない。こうして没落士族が大量に発生しました。
武士の命である刀を禁じられ、既得権益ともいえる秩禄がストップして生活苦に陥り、にっちもさっちもいかなくなった士族たちは、江戸時代の特権階級としてのプライドはずたずた。その怒りは政府に向けられます。こうして不満が募った士族により各地で反乱が発生していくことになるのです。
西南戦争のキーマン・西郷隆盛と私学校
維新の三傑として知られる「西郷隆盛」「大久保利通」「木戸孝允」。このうち西南戦争で政府と敵対したのが西郷隆盛です。当時明治政府内では朝鮮との関係を巡って対立が起きていました。朝鮮攻めを主張する板垣退助に対し、西郷隆盛は朝鮮に使者として出向いて朝鮮側を説得しようと試みます。これに対し、岩倉具視や大久保利通たちは内政優先を主張し隆盛の使節派遣を拒否。隆盛が使者として朝鮮で殺されてしまうと、なし崩しに戦争が勃発してしまうと考えたからです。こうした政府内での対立の結果、隆盛は明治6年(1873年)に板垣退助らと参議を辞職して下野します(明治六年政変)。
その後、西郷隆盛は鹿児島に帰り、明治7年(1874年)に鹿児島の士族たちのために私学校を設立。士族たちの不満解消の意も込めて作られた学校は、篠原国幹が銃隊学校、村田新八が砲隊学校や幼年学校を監督。桐野利秋が吉野開墾社を指導して開墾事業を手がけました。私学校は鹿児島市内に10以上、県下を合わせると約150の分校を有しており、県令の大山綱良も私学校に賛同していたことで、鹿児島で一大勢力になりました。県内の市長や警察官などは私学校の関係者が務めることになり、鹿児島の政治に入り込んだ結果、鹿児島県は私学校派による半独立国家の様相を呈してきました。
そうしたなかで明治9年(1876年)、廃刀令と秩禄処分により士族の不満は爆発。九州では熊本県や福岡県などで士族たちが反乱を起こします。これに対し政府は「次は鹿児島か」と警戒を強めます。もともとカリスマ性の高い人物として知られていた西郷隆盛が反旗を翻すことは何としても防ぐ必要があり、警視庁のトップ・川路利良は密偵を鹿児島に放って監視を続けます。
さらに明治10年(1877年)1月、政府は鹿児島県の陸軍が保有していた武器弾薬を大阪に移転。私学校派の手に武器が渡るのを防ぐための措置でしたが、私学校派はこの動きに反発して弾薬掠奪事件を起こします。さらに、政府が西郷隆盛の暗殺計画を企てていたことが明らかになり、私学校派の政府に対する怒りはピークを迎え、2月に会議を開いて政府への対応を議論しました。
会議では別府晋介が武装放棄を主張。一方永山弥一郎はまずは話し合いからとの考えで、西郷隆盛らが明治政府を詰問すべく上京すべきとの意見を挙げます。このほか天皇に直接訴えるべきという意見などが出て議論は紛糾。最終的には私学校で力を持っていた桐野利秋が出兵を主張し、結果大多数が政府との戦に賛同しました。
ちなみに、桐野利秋は幕末に「人斬り半次郎」(中村半次郎)として恐れられた武闘派。西郷隆盛を慕っており、暗殺計画に怒りを覚えていたことは間違いないでしょう。当事者の西郷隆盛は政府との戦に対しては慎重派だったようですが、私学校派に擁立される形で政府との戦いを決意。こうして西南戦争が始まることになるのです。
なお、この西郷隆盛の暗殺計画は大久保利通によるものという説や、実は密偵にだされた「シサツ」という命令が、本来は「視察」だったのを私学校派側が「刺殺」と誤解したという説がこれまで有力でした。近年はそもそも暗殺計画はなく(企てたとされる密偵が拷問により自白を強要された)、政府と敵対した士族たちの大義名分として暗殺計画が利用されたという見方もできます。もっとも、政府が私学校の生徒たちの力と、それを率いる西郷隆盛を警戒していたことは事実。両者の対決は避けられなかったことでしょう。
西南戦争①熊本城の戦い
西郷隆盛は鹿児島の私学校の生徒たちと対政府で軍をまとめ、2月15日、数十年ぶりと言われる大雪の中、熊本方面に向かって出発しました。その数約1万3000人。軍はその後、徴兵などを繰り返したことで約3万に膨れ上がります。一方、政府は2月19日、有栖川宮熾仁親王を総司令官として旗印に掲げ、実務担当の副司令官として陸軍中将の山縣有朋と海軍中将の川村純義を任命。総兵力は5万とも10万とも言われており、隆盛と共に明治維新をかけぬけた黒田清隆や従兄弟の大山巌なども参加しています。元薩摩藩の士族たちは西南戦争で真っ二つに割れたのです。
さて、薩摩軍がまず向かったのは熊本鎮台(陸軍部隊)の守る熊本城でした。ところが薩摩軍が熊本城を包囲する前の2月19日、熊本城内で火災が発生し、天守閣と本丸御殿は全焼してしまいます。火災の原因は明らかになっておらず、政府軍(官軍)の仕業とも薩摩軍の仕業とも、失火とも言われています。
2月20日には薩摩軍と熊本鎮台が衝突。22日には桐野利秋や池上四郎らが率いる薩摩軍が熊本城を包囲して一斉に攻撃を仕掛けます。ところが熊本城は焼けたとはいえ築城の名手・加藤清正が当時の最新技術を駆使して建てた堅城。しかも熊本城には井戸が120もあり、畳はかんぴょうや芋がらで作られているため籠城対策もばっちりでした。このため熊本鎮台司令長官・谷干城率いる3500の兵は籠城を続け、薩摩軍は兵糧攻めに切り替えるもなかなか城を攻め落とすことができません。そうこうしているうちに2月26日には政府の援軍が福岡に到着。戦は徐々に拡大していきます。
西南戦争②ターニングポイントとなった「田原坂の戦い」
南下する政府の援軍と薩摩軍が激突したのが、熊本県熊本市北区にある田原坂です。長さ1.5km、道幅4mほどの緩やかな坂ですが、曲がりくねっており、加藤清正が熊本城の守りとして北からの攻撃に備えて開いた道とされています。薩摩軍にとって官軍を迎え討つのに最適な場所でした。一方で官軍にとっては大砲や物資を運ぶための広い道は田原坂だけしかなく、避けては通れない交通の要所でした。こうして田原坂で両軍が激突し、3月4日から20日まで激戦が繰り広げられました。
最新鋭の兵器を備えて攻める官軍に対し、薩摩軍は豪を用意しつつ旧式の装備で奮闘。白兵戦では薩摩示現流が官軍の兵士を次々と倒していきました。官軍は狙撃で対応しますが、坂はなかなか超えられません。1日32万発もの弾丸が降り注いだと伝わっており、激戦の様子は民謡「田原坂」で「雨は降る降るじんばは濡れる越すに越されぬ田原坂」として歌われています。
奮闘を続ける薩摩軍ですが、相次ぐ雨で旧式の銃が上手く働かず、次第に消耗していきます。さらに、官軍は白兵戦対策として元士族の剣術に秀でた警察官からなる「警視庁抜刀隊」を組織。構成員は明治六年政変の際に大久保利通についた鹿児島県士族たちで、薩摩軍と互角に戦える腕の持ち主たちでした。抜刀隊の活躍もあり官軍は調子を取り戻し、薩摩軍に猛攻をかけます。そして3月20日、朝霧に紛れて薩摩軍に総攻撃を実施。不意を突かれた薩摩軍を下し、ついに田原坂の突破に成功します。
両軍合わせて1万3000人以上の死者が出た田原坂の戦いですが、西南戦争のターニングポイントとなり、その後は官軍有利で戦が進んでいくことになります。
西南戦争③城山で西郷隆盛死去
田原坂を突破された薩摩軍は次第に後退。4月14日には官軍の一部が熊本城に入ったことで、西郷隆盛は熊本城の包囲を解いて鹿児島に撤退します。なお、この熊本城の戦いについて、隆盛は「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と話しています。
その後、薩摩軍は熊本県南部の人吉地方を拠点にして官軍と戦いますが、官軍の最新鋭の装備に負け続けます。そして8月15日、宮崎県北部の延岡にある和田峠の戦いで、薩摩軍3500が山縣有朋の指揮する官軍約5万と戦い敗退。そして4月16日、西郷隆盛は軍の解散を発表。「降伏するものは降伏し、戦で死ぬ覚悟のあるものは残れ」と話したことで、降伏するものが相次ぎ、残すは1000名のみとなりました。
残った士気の高い精鋭たちを連れて西郷隆盛は鹿児島に向けて出発します。自らの故郷で散ろうと考えたのか、9月1日に鹿児島入りし、鹿児島市中央部の城山に籠城しました。当初は住民たちの協力もあり、薩摩軍は鹿児島市街をほぼ制圧に成功しますが、官軍の巻き返しにあい、9月6日に官軍に城山を包囲されてしまいます。この時点で薩摩軍は350名あまりまで減少していました。
薩摩軍はしばらく持ちこたえますが焼け石に水。9月19日には山野田一輔と河野主一郎が西郷隆盛の救命を訴えるため、隆盛には「挙兵の意を説くため」と嘘をついて軍使として隆盛の縁戚である川村純義のもとに出向き捕らえられました。これを知った隆盛は22日に「城山決死の檄」を告知。2名の派遣を「味方の決死の覚悟を敵陣に伝え」るものであるとし、「大義名分を貫徹して斃れるつもり」と主張。「この城を枕にして決戦すべき。一層奮起して後世に恥辱を残さず覚悟して戦うように」と薩摩軍を奮起させ、討ち死にの覚悟を表しました。なお、山縣有朋からは隆盛に対し、総攻撃前に自決をするよう求める書状が届いていますが、隆盛は無視しています。
そして9月24日の早朝、官軍の最後の総攻撃が始まります。軍の幹部たちが次々と倒れる中、西郷隆盛も銃弾で負傷。最後まで隆盛についてきた別府晋介に「晋どん、もう、ここでよかろう」と話し切腹の準備を整えます。晋介は「ごめんなったもんし」と叫んで隆盛を介錯。こうして隆盛は51歳でその生涯を終えました。
晋介は西郷隆盛の介錯後、その場で切腹。残る桐野利秋をはじめとした幹部たちは戦を継続し、戦死または自刃しました。こうして西南戦争は終結し、挙兵の意を法廷で主張すべきと主張していた別府九郎など一部を除き、薩摩軍はほぼ全滅したのでした。
西郷隆盛の遺体と首は丁寧に葬られましたが、賊軍の将として官位をとりあげられたままでした。しかし、黒田清隆をはじめ隆盛と敵対していた政府の首脳陣にはその人柄を惜しむものが多く、明治天皇も「惜しい人物を亡くした」と語っています。戦後、隆盛の名誉回復のための運動がなされ、明治22年(1889年)に隆盛は正三位に序されています。
西南戦争後の士族たちと自由民権運動
西南戦争の終結は不平士族たちに大きな影響を与えました。つまり、「政府に武力で反抗するのは不可能」との認識を広めたのです。西南戦争を機会に、士族たちは言論の力で政府と戦うことを決意します。
ここでスポットライトを当てたいのが、西郷隆盛と同時期に下野した板垣退助です。庶民が自由に発言し、政治に参加できる権利を求める自由民権運動を展開し、言論で政府に戦いを挑んでいました。退助は明治7年(1874年)に民選の議会開設を要望する建白書を出しており、その後自由民権思想は全国に広がっていくことになります。この自由民権運動に不平士族たちも賛同していくことになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。