耳川の戦い九州最強、島津氏が本領発揮、大友氏を破る
耳川の戦い
戦国時代、九州では大友氏、島津氏、龍造寺氏の3勢力が争う「九州三国志」状態でした。そんななか、天正6年(1578年)に日向国高城川原(現宮崎県木城町)で大友氏と島津氏が争ったのが「耳川の戦い(高城川の戦い)」。勢力を拡大する島津氏を大友氏が攻めた戦いは、「戦国最強」と名高い島津が釣り野伏などを巧みに使って勝利し、九州統一に大きく歩みを進めました。今回はそんな耳川の戦いについて解説していきます。
戦国時代の「九州三国志」
戦国時代、九州内では大名たちが覇権を争い、激しい戦いを繰り広げていました。そして年号が元亀から天正に変わる1573年頃には九州北東部・豊後(大分県中南部)の大友氏、九州北西部・肥前(佐賀県)の龍造寺氏、南九州・薩摩(鹿児島県)の島津氏の3強が覇権を争う「九州三国志」時代が訪れていました。
しばらく三すくみの状態が続いていましたが、そんななか、天正5年(1577年)に日向国の伊東義祐が島津氏の猛攻に敗れ、縁戚関係にあった大友氏を率いる大友宗麟を頼ったことで、島津氏と大友氏の対立が深まることになります。
大友宗麟は伊東義祐を庇護するとともに、旧領地の半分を譲渡するので日向を取り返そうと願う義祐を助力することを決定します。宗麟は島津氏の勢力拡大を恐れていました。日向国が島津氏の手に落ちたことで、周辺の小勢力は島津氏の傘下に入ろうとしていたのです。さらに、大友方についていた日向国北部の土持親成が、島津氏の調略の結果島津についたことも対する怒りも、日向への遠征の一因だったようです。
キリシタン大名、大友宗麟の野望
また、この時大友宗麟には1つの大きな野望がありました。それが「日向をキリスト教徒の楽園にしよう」というものです。いきなり何だ?と思われるかもしれませんが、宗麟はもともとキリスト教への関心が高く、常にポルトガル人宣教師を保護してきました。キリスト教の布教を保護しながら南蛮貿易を実施し、海外とのパイプを強くしていきます。そして天正6年(1578年)、ついにキリスト教徒に改宗。反対する、宮司の娘で神道を信仰していた正室の奈多夫人を捨てて側室のキリシタン・ジュリアと臼杵に引っ越しています。
キリスト教に傾倒していった大友宗麟は、キリスト教徒のための理想郷を作ろうと考えるようになっており、伊東義祐の申し出はまさにタイミングとしては最適でした。「天が与えたもうたチャンス」と思ったのか、天正6年(1578年)、宗麟は島津氏から日向を取り戻そうと、3万(一説には4万)の兵を率いて日向に出兵します。ちなみにこの出兵、立花道雪をはじめとした家臣からは反対を受けていますが、キリスト教命の宗麟は聞きいれませんでした。こうしてキリスト教は大友氏の内部分裂を進めていったのです。
出兵を決めた大友宗麟は軍を肥後口と自ら率いる豊後口に分け、豊後口の軍は2月には日向国の門川城に入城し、伊東氏の家臣たちと合流。伊東氏家臣の長倉祐政・山田宗昌は島津氏の勢力圏内である石城に入り挙兵します。さらに伊東氏の家臣たちは、島津方だった縣城の土持親成を攻めます。4月には松尾城に籠城していた土持親成を、城を落とした後に捕縛し殺害。こうして大友氏は耳川以北の土持領の制圧に成功しました。一方、肥後口の軍は高千穂に向かい、吉村氏を滅ぼしています。
無事に土持親成の領土を得た大友宗麟は、早速キリスト教徒の理想郷づくりに乗り出します。8月には無鹿(むじか、宮崎県延岡市)に本営を置き、教会を建設して毎日ミサを実施。理想のキリストに基づく街づくりにいそしんでいました。
島津氏の反撃・石城の戦い
一方、島津氏といえば、当主・島津義久とその弟の義弘・歳久・家久が九州統一をめざして北上している最中。義久は日向を取り返そうと、従兄弟で家老の島津忠長率いる7000の軍を派遣し、長倉祐政・山田宗昌など伊東氏の家臣団がこもる石城(宮崎県児湯郡木城町)を攻めます。
石城は三方を急流に囲まれており、背後は険しい山がそびえる山城で攻めにくいのが特徴。7月の戦いでは伊東軍が勝利し、島津軍は500人もの死者を出すばかりか、副将の川上範久は討ち死にし、島津忠長も矢で射抜かれて重傷を負いました。島津軍は一度は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)に撤退しますが、9月には島津以久が大将となり、1万の軍で再度石城を攻めました。約10日の激戦の結果、援軍もなくも兵糧も不足してきた伊東軍側が不利に。結局伊東軍は9月29日、講和の末城を明け渡して門川に撤退しました。
なお、この日向攻めの際、大友宗麟はキリスト教信仰のために土持領の寺社仏閣を破壊。経典や仏像まで徹底して打ち壊しました。もともと寺社仏閣が強い地域だったことから、その力を弱めようという政治的な理由もあったようですが、この行為は家臣から大反発を招きます。宗麟自身はキリスト教徒でしたが、部下や領内の民たちは仏教を信じているものもいたため、こうした宗麟の行為は大友氏の団結を崩し、分裂を招く一因になっていくのです。
耳川の戦い①大友軍が高城を包囲
10月20日、大友軍は3万(または4万)の大軍で再度南下を開始します。そして島津方の山田有信ら300の兵が高城を包囲。高城は東・南・北が断崖絶壁で、西には空堀が7つ(5つとも)設けられる堅城でした。そこで大友軍はまず、「国崩し」ことフランキ砲や大量の鉄砲を活用して、砲撃で攻めたてます。フランキ砲は大友宗麟が南蛮貿易でポルトガルから手に入れていたもので、国も崩せそうな破壊力があることからその名がつけられました。もっとも家臣からは「値段が高いからうちの国が崩されそうだ」と皮肉られたそうですが。
こうして大友軍は3回にわたって高城を攻めましたが、フランキ砲を設置した場所が遠かったこと、そもそもうまく使いこなせなかったこともあって効果はあまり出ず、結局それほど役には立ちませんでした。
大友軍が高城を攻める中、援軍と共にこっそりと高城に入城したのが援軍で島津兄弟4男・家久でした。家久は山田有信らと総勢3000の兵を率いて高城を必死に守り、大友軍はなかなか城を落とすことができません。そのため兵糧攻めに切り替えることに。なお、このとき大友宗麟は無鹿の本陣から指揮をとっていましたが、現場には一切姿を見せていません。
それもあってか大友軍の士気はそれほど高くなかったようです。そもそも大友宗麟の家臣の中にはキリスト教の楽園建設といった目標に「付き合ってられないよ」という武将達もいました。だいたい家臣すべてがキリスト教徒だったわけもなく、宗麟の命令で自ら信じる自社仏閣を破壊させられたことを不満にも思うものもいたようです。さらに筑前(福岡県北西部)や筑後(福岡県南部)など遠方からわざわざ参加しにきた武将たちは疲れもたまっていました。当時の文書から、反大友氏の武将が島津に内応しようとしている様子も見て取れます。
耳川の戦い②島津軍の「釣り野伏」がさく裂
一方の島津軍は、本隊が援軍を率いて高城の救援に向かいます。10月24日、島津義久は3万の兵を率いて佐土原城に到着。日向内にいた島津軍と合流し、11月9日には財部城(宮崎県児湯郡高鍋町)に入って軍議を開催します。ここでは島津のお家芸「釣り野伏」について話し合いがなされました。
釣り野伏とはどういうものか。島津義久が考案したと伝わる、島津氏のお家芸的な戦略で、簡単にいうと囮を使った包囲作戦です。部隊を左・中央・右の3つにわけ、中央の部隊が囮として正面から敵と戦い、負けたふりをして後退。敵を「釣り」ます。そして追撃してきた敵を左右の伏兵、つまり「野伏」が攻撃し、囮の軍も反転。こうして敵を包囲殲滅するというものなのです。
今回は軍を4つに分け、囮部隊は300人、2つの伏兵部隊はそれぞれ500人の編成。本体の3000人も伏兵として伏せます。さらに島津義弘らが率いる別動隊が、小丸川の南に布陣しました。
釣り野伏のターゲットは松原に布陣している大友軍。島津軍は高城の南を流れる小丸川(高城川)を渡ります。まずは囮部隊が大友軍を攻撃。大友軍が囮部隊を追いかけると、囮部隊は伏兵のいる場所まで退却し、それに呼応して高城の島津家久も出撃して作戦をカモフラージュします。囮とも知らずに追いかける大友軍は、気づけば伏兵部隊になし崩しにされて敗走。こうして島津軍が勝利を収めました。島津軍の一部は高城に入ることができ、無事に救援は成功したのです。
耳川の戦い③大友軍の大敗北
11月11日の島津軍の勝利により、大友軍は大きな被害を受けました。このため、大友軍のうち講和派の田原親賢は島津軍に使者を派遣し、講和を申し出ます。しかし、この日は講和はなりませんでいた。さらにその夜、大友軍の軍議では講和を主張する親賢に対し、主戦派が反論。佐伯宗天は無鹿にいる大友宗麟に援軍を求め、敵の攻撃を待ち慎重に動くべきと訴えます。一方、田北鎮周は「相手が強いからと言って弱腰になるなどそれでも武士なのか!」と意気軒昂、援軍など恥ずかしいと拒否し、積極的に攻めるよう主張します。
このように意見がまとまらずグダグダの会議を経て、明けた12日早朝のこと。なんと、田北鎮周と、「鎮周に臆病者だと侮辱された」と感じた佐伯宗天が、勝手に島津軍の前衛部隊を攻撃してしまいました。奇襲を受けた島津軍の前衛部隊は壊滅しており、勢いづいた軍はそのまま島津軍を攻めます。他の大友軍の武将達も先発隊を追いかけて島津を攻めはいじめます。こうして最終決戦がなし崩しに始まるのです。
奇襲攻撃を受けた島津軍といえば、実は再び釣り野伏の準備をしていました。伏兵部隊の隊長は島津征久。2部隊合わせて1300人ほどが伏兵として小丸川沿いに隠れました。そして島津義久・歳久達は1万の兵と共に根白坂に本陣を置き、抑えの役割を担います。
前衛部隊を倒して小丸川を渡り、島津軍を攻めようとする大友軍。小丸川を渡り、島津本陣を攻めようとした途端、島津義弘ら島津軍が大友軍の前面に撃って出ます。さらに島津征久の合図で、島津軍の伏兵が横から大友軍に一斉に襲い掛かりました。大友軍は撤退しようと試みますが、なかなか川を渡って撤退することができません。しかも高城の島津家久なども呼応して大友軍をたたく状態。後方への撤退は難しい状況でした。
体制を崩された大友軍は北西方向の耳川方面へと撤退を開始するも、現場は大混乱。撤退の際は川のふちに迷い込んで溺死する兵も出たほどです。耳川に向かったものたちもいましたが、追撃する島津軍は大友軍が耳川を渡る前で追いついてしまいます。そこで両者戦闘が、と思いきや、大友軍の兵士たちは疲労とパニックで極限状態にあったのか、自ら耳川に飛び込んで溺死。川がここ数日の雨で増水していたこともあり、多くの被害がでたそうです。こうして耳川の戦いは島津軍の勝利で終結。11月13日には島津軍はさらに北上し、大友軍の敗残兵を討ち取ります。
一方、無鹿にいた大友宗麟は自軍の敗走の知らせを聞いて着の身着のまま、即座に無鹿を脱出。冬の寒い時期に苦労しながらも、なんとか豊後へ逃げ延びました。なお、豊後へ向かう最中に寺社仏閣に助けを求めたりもしましたが、これまでさんざんキリスト教のために寺社仏閣を迫害してきたつけが回ったのか、匿うことを断られています。
大友宗麟、秀吉に泣きつく~そして九州征伐へ~
こうして大友氏は耳川の戦いでその力を大きくそがれることになりました。3すくみ状態の1角が弱体化したのですから大ピンチ!と思いきや、島津氏は龍造寺氏と戦になったため、なんとか体制の立て直しに成功。とはいえ天正12年(1584年)3月、島津氏は島原半島の「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を討ち取って肥前(長崎県)・肥後(熊本県)を制圧しており、その後北上を続けてほぼ九州全域を統一するところまで勢力を拡大しました。
そんな島津氏の前に立ちふさがったのが、豊臣秀吉率いる中央政権でした。実は大友宗麟は島津氏の九州統一を防ぐため、大坂城の秀吉を頼っていたのです。秀吉の傘下に入ることを条件に支援を願う宗麟の願いを受け、秀吉は両者に停戦命令を出します。しかし、島津氏は当然これに従いません。反抗し続ける島津氏に対し、秀吉は討伐を決定。こうして天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)4月まで、豊臣連合軍と島津家が争う「九州平定」へと続いていくのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。