慶長出羽合戦(2/2)もう一つの関ヶ原!「慶長出羽合戦」~上杉景勝VS最上義光・伊達政宗

慶長出羽合戦

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
慶長出羽合戦(1600年)
場所
山形県
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米沢城

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鶴ヶ城

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そして慶長5年9月8日、上杉軍は最上領への侵攻を開始します。米沢と庄内の2つの方面に兵を分け、最上領を攻める作戦で、米沢を出発した上杉本軍を直江景勝が率いました。9月12日には畑山城を包囲し、激戦の結果13日に陥落させました。

一方、最上軍は少ない兵力を拠点の城に集中させる戦略を取ります。いくつかの城を捨てても重要拠点を守ろうと考えたのです。

慶長出羽合戦②長谷堂城を巡る攻防戦

次々と最上方の城を陥落させながら進む上杉軍。そして9月14日、上杉本軍は長谷堂城を包囲しました。長谷堂城は最上義光が籠城する山形城から約8kmに位置する山城で、防衛の要として重要な拠点でした。

長谷堂城は独立峰に建てられているため城からの見晴らしがよいのが特徴。山の周囲は深田で足を取られやすく、頂の主郭までの道には水堀や土塁、虎口などが設けられており、近くを流れる本沢川が天然の外堀のようになっているため攻めにくい城でした。そんな城を志村光安率いる1000人が必死の思いで守っていました。

そして9月15日、直江兼続が率いる上杉軍1万8000が城攻めを開始しますが、最上軍は必死の抵抗を見せます。偶然にもこの日は関ヶ原の戦いの日。この時点で石田三成率いる西軍は徳川家康率いる東軍に敗退していますが、その情報はまだ東北には届いていないため、戦は続きます。

9月16日には光安が決死隊約200名と共に上杉軍に夜襲を仕掛け、約250名を討ち取るという成果を見せました。この時活躍したのが鮭延秀綱。上杉本陣に迫る勢いでもう攻撃を仕掛け、兼続からは敵にもかかわらず「鮭延の武勇は信玄・謙信にも覚えがないほどだ」と絶賛されたそうです。その後も上杉軍は長谷堂城を攻めますが、光安率いる鉄砲隊が必死に守りぬき、上杉軍の挑発にも乗らずに籠城を続けました。

慶長出羽合戦③最上義光、伊達政宗に援軍を依頼

長谷堂城の戦いの最中、最上義光は何をしていたか。9月15日、義光は伊達政宗に援軍を依頼する使者を派遣しました。政宗の母の義姫は義光の妹なので、義光と政宗は叔父・甥の関係にあったわけです。伊達家と最上家は以前から敵対したり味方になったりと因縁がありましたが、キーパーソンの義姫がいるので援軍が来る可能性は十分にありました。

一方の政宗は援軍を出すか否か迷います。「上杉家とは和睦したばかり。しかし、家康に協力することにもなっている」。80年近く後の元禄期に編纂された「伊達治家記録」には、部下の片倉景綱からは「援軍を黙殺して上杉が最上を攻め落としたところ、伊達が討ち取ればいいのでは?」というシビアな意見が出され、政宗が「家康に応えるためと、山形城にいる義姫を救うために援軍を出す」と答えたというエピソードが残っています。

その通りの会話があったかは定かではありませんが、義姫からの働きかけもあり、結果として政宗は留守(伊達)政景率いる援軍3000を出すことを決定。ところが援軍はなかなかつかず、義姫からは「早く来なさい!」と怒りの書状が届いたそうです。援軍が遅かったのは、政宗が迷っていた証拠かもしれませんね。

9月21日、最上軍のもとにようやく援軍が到着。義光も山形城から出陣して戦に備えます。その後はしばらく膠着状態が続きますが、9月29日、上杉軍が最上軍に総攻撃を仕掛け、双方ともに多くの死者が出ています。そしてこの日(翌日の9月30日とも)、上杉軍にようやく「関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍が敗れた」という知らせが届いたのです。

慶長出羽合戦④石田三成敗退!上杉軍は急いで撤退

西軍が負けた。そのことを知った直江兼続は大いに焦ります。これ以上徳川家康方の最上義光を攻めても何一つ良いことはありません。最上家の領土を得たところで家康の怒りを買ってしまえばおしまいです。兼続は一時、自害まで考えましたが、前田慶次に諫められて撤退を決断します。

一方の最上・伊達軍には9月30日、西軍敗退の情報が伝わりました。必死の籠城から一転、東軍の勝利に大喜びで士気は上がります。10月1日に上杉軍が米沢に撤退し始めたのを見て、最上義光自ら軍を指揮して追撃を開始。伊達軍も続きました。ここで今までの攻守が逆転することになります。

撤退戦は激戦で多数の死者が出ました。最上軍サイドの情報によれば、上杉軍が1580人、最上軍が623人亡くなったそうです。兼続は殿として少しでも兵を逃がそうと試み、鉄砲隊をフル活用して追撃の足を止める作戦で最上軍を大いに苦しめます。この時義光の兜にも鉄砲玉が当たっています。そして10月4日、撤退しきれなかった味方もいましたが、兼続は何とか米沢城に帰還することができました。

なお、その後勢いに乗った義光は旧領だった庄内地方を攻め、上杉家から庄内地方全域を奪還しています。伊達政宗も上杉領内の旧伊達領を攻めましたが攻め切れず、陸奥国の刈田郡2万石を取り戻すにとどまりました。

こうして慶長出羽合戦は終わりを迎えました。最終的には最上・伊達軍の勝利で終了した合戦ですが、情報1つでガラッと変わる戦の攻守はとても興味深いものがありますね。

慶長出羽合戦後の東北地方

徳川家康は慶長出羽合戦での最上義光の活躍を高く評価しました。関ヶ原の戦い後の論功行賞の際は、義光に庄内地方を与えるなど大きく加増しました。その結果、最上家は現在の山形県全域と秋田県南部を治める57万石の大名にのし上がります。

伊達政宗はといえば、2万石を得て60万石となって終了。「百万国のお墨付き」はあったものの、上杉家と和睦を結んでいたこと、慶長出羽合戦中に徳川方の南部氏領内で発生した和賀忠親による「岩崎一揆」の黒幕が政宗だったことなどから家康の不審を買い、恩賞の希望はことごとく却下されてしまいました。

一方敗者側の上杉家は、上杉景勝と直江兼続が上洛して家康に謝罪。家康もこれを受け入れ、上杉家をつぶすことまではしませんでした。上杉家は120万石から30万石に減らされ、会津から米沢へと国替えされます。

領地が4分の1になってしまったことから、家臣の中からは部下の人員整理、いわゆるリストラを進言する声もありましたが、兼続は全員を米沢に連れていきました。そして新田開発や治水事業、城下町の整備など内政に取り組み、米沢藩の発展の基礎を築いていくのです。

とはいえ、明らかに武士過剰の状況ですから、米沢藩は日本一の貧乏藩として江戸時代の多くを過ごすことになります。江戸時代後期、「為せばなる」で有名な上杉鷹山により、米沢藩の財政の立て直しはようやくなされることになるのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03