一乗谷城の戦い一乗谷城の戦いで朝倉氏滅亡!従弟に裏切られた最期とは

一乗谷城の戦い

一乗谷城の戦い

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事件簿
事件名
一乗谷城の戦い(1573年)
場所
福井県
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一乗谷朝倉邸

一乗谷朝倉邸

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長きにわたり越前国(福井県)を支配していた名門・越前朝倉氏を織田信長が滅ぼしたのが、天正元年(1573年)に起こった「一乗谷城の戦い」です。朝倉家当主の朝倉義景は元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の戦い」で信長を追い詰めた人物。ところが優柔不断な性格が響いたのか信長を攻めきれず、「刀根坂の戦い」で大敗し、ついには従弟の裏切りにあって自害させられてしまいます。今回はそんな朝倉義景の最後の戦いである「一乗谷城の戦い」について解説します。

一乗谷と朝倉氏の関係は?

「一乗谷城の戦い」は天正元年(1573年)8月18日、朝倉義景と織田信長が一乗谷城(福井県福井市)で戦った合戦です。「刀根坂の戦い」と合わせて「一乗谷城の戦い」と呼ぶこともあります。信長は同年の8月初旬から義景・浅井長政軍と戦い続けており、対朝倉戦としては一乗谷城の戦いが最終戦になります。

そもそも越前朝倉氏は南北朝時代から続く名家で。朝倉氏はもともと足利氏の有力一門だった斯波氏に仕えており、初代の朝倉広景が越前国に所領を与えられたことをきっかけに国内で力を伸ばし、やがては斯波氏に代わって越前一国を任されるに至ります。一乗谷は当初から朝倉氏の本拠地で、応仁の乱の際は荒廃した京都から朝倉氏を頼って公家や文化人などが避難してきたため、「北ノ京」と呼ばれるほど発展を遂げ、文化の一大拠点となりました。

そんな一乗谷で育った義景は朝倉氏の11代目当主。父の朝倉孝景が天文17年(1548年)に急死したことで、16歳の若さで跡を継ぎ、従曾祖父にあたる名将・朝倉宗滴がその補佐につきました。義景と宗滴は加賀の一向一揆の鎮圧に尽力しますが、その途中の弘治元年(1555年)、宗滴が病で亡くなってしまい、その後は義景が朝倉氏を率いていくことになります。

足利義昭の上洛要請を拒否

永禄9年(1566年)9月、朝倉義景は将軍になる前の足利義昭を保護することになりました。義昭は上洛して室町幕府を継ごうと考えており、義景に助けを求めましたが、慎重な義景は動こうとしません。このため義昭は義景を見限って織田信長を頼って上洛し、永禄11年(1568年)10月に室町幕府の第15代将軍に就任しました。義昭を擁立して天下に名乗りを上げるチャンスでしたが、義景はその機会を逃してしまったのです。

信長について将軍になった義昭ですが、義昭を傀儡化しようとする信長への不信感から徐々に信長との仲が悪化していきます。そして義昭は各地の武将に信長を討つ、つまり「信長包囲網」の一員となるよう呼びかけはじめます。義景はこの呼びかけに応え、信長と敵対していくことになります。

「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)」で朝倉・浅井軍に織田軍敗退

元亀元年(1570年)4月、織田信長は朝倉義景に自分の命にしたがい上洛するよう呼びかけますが、義景はこれを拒絶。理由は信長に利用されることを避けるためとも、自国の一揆を押さえることに専念したかったとも言われています。この命令違反を口実にした信長は、徳川家康とともに約3万の軍を率いて越前を得ようと出陣します。

ところが、これは信長の同盟相手である浅井長政をないがしろにする策でした。長政は信長の妹のお市を正室に持つ、信長にとっては義弟にあたる人物。2人は結婚を機に同盟を結んでおり、その際信長は浅井氏が朝倉氏と同盟を結んでいたことから、長政に対し「朝倉家への不戦の誓い」を立てていたのです。

にもかかわらず朝倉家を攻めた信長に対し、長政は織田軍につくか朝倉軍につくかを迷い、結果朝倉軍につくことを決意して信長を背後から攻めることに。挟み撃ちを恐れた信長は急いで引き返し、殿の豊臣秀吉や明智光秀、池田勝正らの活躍もあり、なんとか京都に戻ることができました。これが「金ヶ崎の戦い」で、信長の撤退戦であることから「金ヶ崎の退き口」とも言われています。信長を討伐するチャンスでしたが、朝倉・浅井軍は信長を攻めきれませんでした。ここでも義景はチャンスを逃すことになったのです。

「姉川の戦い」は朝倉・浅井軍が敗退

京都に戻った織田信長はすぐさま反撃に出ます。岐阜に帰国して体制を整え、元亀元年6月、徳川家康とともに近江国(滋賀県)の浅井長政のいる小谷城を攻めます。両軍の兵力差は文献によりさまざまで、織田・徳川軍が1万3万~4万人、朝倉・浅井軍が1万3000~3万人となっています。両軍は姉川付近で激突しました。

「姉川の戦い」と呼ばれるこの戦いは、最初は朝倉・浅井軍が健闘して織田軍を追い詰めますが、徳川軍が横から回り込んで朝倉・浅井軍を追い詰めたことで織田軍が勝利。朝倉・浅井軍は浅井家の遠藤直経、朝倉家の真柄直隆など多くの戦死者を出しました。

ちなみに、このとき浅井軍の援軍に駆け付けた朝倉軍を率いていたのは、朝倉義景ではなく部下の朝倉景健。義景は出陣していないというのは少し驚きです。義景という武将は文化人で穏やかな気質だったようで、優柔不断な性格がチャンスを逃しやすかった、と言われています。本人が援軍に駆けつけていたら味方の士気が上がり、ひょっとしたら形勢が逆転していたかもしれません。

朝倉・浅井軍、他勢力と協力して信長を攻める

姉川の戦い後の9月から12月にかけて、織田信長は比叡山延暦寺や石山本願寺の支援を受けた朝倉・浅井軍と戦います。「志賀の陣」と呼ばれるこの戦いでは、信長は9月の宇佐山城での戦いで弟の織田信治や森可成などを失い、11月の堅田の戦いでは朝倉・浅井軍に敗れるなど打撃を受けています。

志賀の陣は朝倉・浅井軍が比叡山に立てこもったことで長期化しますが、信長の働きかけで朝廷が仲介に入ることになり、和睦が成立しました。なお、この戦いがきっかけで信長は2年後の元亀2年(1571年)9月、延暦寺を焼き討ちしています。

元亀2年8月には朝倉・浅井軍が織田方の横山城や箕浦城を攻めていますが敗退。織田軍の調略もあり、朝倉・浅井軍はじわじわと弱っていきますが、朝倉義景と浅井長政は信長と小競り合いを繰り返しつつ、信長包囲網の一員として信長を攻め続けました。

同年10月、武田信玄が織田方の徳川軍を攻める「西上作戦」を開始しますが、義景はその際に援軍を要請されています。義景は信玄との協力を決意し出兵。ただし、積雪や兵の疲労などを理由に信玄の到着を待たずに越前に撤退してしまい、信玄から「信長を滅ぼすチャンスを逃すとはありえない」と非難されています。その後も信玄や本願寺顕如から出兵の依頼はありましたが、義景は動きませんでした。

信長包囲網の要といえる信玄が元亀4年(1573年)に亡くなると、包囲網は徐々に瓦解していきます。信長はチャンスとばかりに足利義昭を追放し(槇島城の戦い)、237年続いた室町幕府を滅ぼしました。ちなみに、この時元号が「元亀」から「天正」に改元されています。

「刀根坂の戦い」で朝倉・浅井軍大敗、滅亡への第一歩

天正元年(1573年)8月、信長は近江国へ出陣して浅井攻めを開始します。浅井長政は5000人の兵とともに小谷城に籠城して信長の猛攻に耐えますが、小谷城のすぐ西にある山本山城の城主、阿閉貞征が織田軍に寝返ってしまいます。すぐそばの城が敵軍にとられたわけですから、長政は大ピンチです。

一方、朝倉義景は長政救援のための援軍を出そうとして従弟の朝倉景鏡などの重臣に協力を求めますが、重臣たちは兵の疲労などを理由に出兵を拒否。このころ、織田方の調略などで朝倉家の団結はかなり崩れていたようです。義景は仕方なく自分で出陣することになり、2万の兵とともに小谷城北の田上山に本陣を設置。大嶽砦など周辺の砦にも兵を送りました。一方の織田軍は約3万の兵とともに小谷城を包囲し続けます。

そして8月12日、信長は暴風雨が吹き荒れる中、1000名を率いて大嶽砦を攻めます。信長の伝記「信長公記」によれば、降伏した兵たちをあえて殺さず本陣に逃げ込ませることで士気を下げようと画策。さらに、信長は義景の性格から「朝倉軍は今夜中に撤退する」と考え、すぐさま追撃しようと準備を進めるとともに、部下の武将たちに撤退開始のタイミングを見張るよう厳命しました。

ところが部下たちはタイミングを見逃してしまい、結局信長が先駆けして朝倉軍を追撃することに。信長が部下たちに激怒したことは言うまでもありません。このとき怒る信長に対し、佐久間信盛が「出遅れましたが、そのようなことを言われましても、我々のように忠実な家臣は他にはおりませんよ」と空気の読めない発言をし、信長の怒りの炎に油を注いでいます……。

8月13日、織田軍は敦賀方面に逃げる朝倉軍を追撃し、刀根坂で追いつきました。撤退しようとする朝倉軍は義景を逃がそうと奮闘します。殿を務めた山崎吉継や朝倉掃部助が一時織田軍を押し返しますが、織田軍の勢いには勝てず敗退。義景は何とか逃れたものの、当初逃げようとしていた敦賀城は諦めて本拠地の一乗谷城をめざします。

刀根坂の戦いにより、朝倉軍は朝倉景行や朝倉道景などの一門衆、山崎義家、河合吉統といった重臣など、多くの戦死者を出しました。一説によれば3000人以上の朝倉軍が戦死したと言われており、刀根坂の戦いでほぼ戦の結末は織田軍の勝利に決まったと言えます。

ちなみにこの時、永禄10年(1567年)8月に信長が美濃を平定した「稲葉山城の戦い」で信長に敗れた美濃斎藤氏の最後の当主、斎藤龍興が亡くなっています。信長に敗れた後は義景に保護されており、この時戦に参加していたようです。

朝倉氏がついに滅亡!「一乗谷城の戦い」

信長は8月14日まで朝倉軍を追撃。15日、16日は敦賀に駐屯し、休息を経て17日、朝倉方の前波吉継の案内で木ノ芽峠を越え、朝倉氏の本拠地である一乗谷に向かって出発しました。3年前の金ヶ崎の戦いの際、木ノ芽峠に差し掛かるあたりで飛び込んできたのが「浅井長政裏切り」の報告。今回は峠を越えて攻め込むことができたわけです。信長としては「ついにやった!」という思いだったのではないでしょうか。そして8月18日、信長は一乗谷の城下町を襲撃して焼き払います。一條谷城と「北ノ京」と呼ばれるほど華やかな城下町は今回の戦により焼失してしまいました。

一方の朝倉義景は生き残った武将や兵士とともに一乗谷城に逃げ込みました。一乗谷城に残った兵力は一説によればわずか500人。味方の少なさに絶望しつつも、義景は従弟の朝倉景鏡の意見を採用し、一乗谷城を捨て、景鏡の治める大野郡山田庄(福井県大野市)に逃れます。目的は朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺の僧兵の協力を経て、再起をはかること。ところが、豊臣秀吉の工作により、平泉寺は織田軍と内通していました。そして、実は景鏡も腹に一物あったのです。

従弟の裏切られた義景、最後は自刃

義景は8月19日、仮宿として景鏡が用意した六坊賢松寺に入ります。一息ついた翌20日の早朝、義景が見た風景は、景鏡ら200の兵士たちが寺を囲んでいる姿。そう、景鏡が最後の最後で裏切ったのです。義景は信じた味方に裏切られ、さぞかし絶望したことでしょう。結局、義景は自刃して果てました。景鏡は義景の首と、捉えた母親や妻子を信長に差し出して降参しました。その後、義景の母親や妻子を含む血族のほとんどは信長の命により殺されています。義景の首は京都で獄門に曝されました。

最後の最後で寝返った景鏡がその後どうなったかというと、信長の部下となり、名前を信長から一字貰って「土橋信鏡」に変更。本領を安堵された後に大野郡の内政に努めましたが、天正2年(1574年)に起こった越前一向一揆の標的にされて戦死しています。

「小谷城の戦い」で浅井氏も滅びる

小谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼしたあと、織田信長は越前を元朝倉方の前波吉継に預けたのち、残る浅井氏を滅ぼそうと小谷城に向かいます。「小谷城の戦い」の始まりです。小谷城は浅井一族が住む山城で、日本五大山城にも数えられる堅城でしたが、豊臣秀吉が奇襲作戦で浅井長政と父の浅井久政を分断し、久政を自刃に追い込みます。

その後、織田軍の猛攻に耐え切れずに長政も自害し、浅井氏は滅亡しました。なお、信長の妹で長政の正室だったお市の方と3人の娘、嫡男は長政が自害する前に秀吉に引き渡されています。この3人の娘が茶々、初、江の「浅井三姉妹」です。

一乗谷城の戦いで朝倉氏を、小谷城の戦いで浅井氏を滅ぼした信長。越前と近江を手中に収めた後は天正3年(1575年)の長篠の戦いを皮切りに武田氏攻略に乗り出し、天下統一への歩みを続けていくことになるのでした。

関係する人物
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。