大政奉還徳川慶喜が二条城で政権を朝廷に返上
大政奉還
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慶応3年10月14日(1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜は、朝廷に対して政権を返上するという前例のない決断を下しました。これが「大政奉還」と呼ばれる出来事で、これにより260年以上にわたり日本の統治機構であり続けた江戸幕府は終焉へと進んでいくことになります。今回は大政奉還はなぜ行われたのか、その裏側を含め分かりやすく解説していきます。
大政奉還に至った背景①第二次長州征伐での敗北
幕末期、日本は深刻な政治的混乱下にありました。嘉永6年(1853年)のペリー率いる黒船来航をきっかけに、各国が開国を求めるなか、幕府は天皇の許可なく日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国条約」を締結して開国し、さまざまな勢力から大きな非難を受けます。
そんななか、攘夷を主張する孝明天皇が率いる朝廷に加え、尊王攘夷を掲げる長州藩、雄藩が政治に参加したうえで朝廷と幕府が協力して政治を行う「公武合体」派の薩摩藩など、さまざまな考えを主張する派閥が台頭。幕府は諸派のかじ取りに失敗し、尊王攘夷、ひいては倒幕運動が盛んになっていきます。
当初は敵対しあっていた薩摩藩と長州藩も、第二次長州征伐前夜の慶応2年(1866年)1月22日、薩長同盟を締結して協調路線をとるようになります。
同盟により薩摩藩は第二次長州征伐で出兵を拒否し、征伐は長州藩が優勢のまま進みます。そんななか、7月20日に将軍徳川家茂が脚気で死亡。これをきっかけに、第二次長州征伐は事実上幕府の敗北で終結しました。
大政奉還に至った背景②徳川慶喜が将軍に就任
家茂の次の将軍は誰にするか…紆余曲折の上、跡を継いで第15代将軍に就任したのは徳川慶喜でした。
慶喜はもともと朝廷とのパイプ役として活躍しており、元治元年(1864年)3月25日には禁裏御守衛総督に就任。京都で朝廷との連携を強め、同年7月19日の「禁門の変」では獅子奮迅の活躍を見せ、朝廷や天皇に信頼されるようになりました。
さらに、京都守護職で会津藩主の松平容保と、京都所司代で桑名藩主・松平定敬と協力して三者による「一会桑政権」を形成し、朝廷と武士の橋渡し役として活躍します。なお、一会桑政権は慶喜の将軍就任と前後して終了しています。
慶喜は将軍就任後も、孝明天皇の後ろ盾のもと、政権を運営するはずでした。しかし、慶喜が12月5日に正式に将軍に就任した直後、12月25日に天皇は35歳の若さで突然崩御してしまいます。死因は天然痘とされていますが、余りの突然の死に毒殺説もあるほどですが、真偽は定かではありません。
大政奉還に至った背景③慶喜の改革
孝明天皇という後ろ盾を失った慶喜は薩摩藩ら雄藩と協力しようとしますが、兵庫港の開港問題で決裂してしまいます。もともと兵庫港は安政五カ国条約などにより「1868年1月1日」の開港が約されていましたが、その後イギリスをはじめとした各国から早期に開港するよう要求されていました。
このため慶喜は兵庫港の開港について諸藩に諮問しますが、一方で諸国には兵庫港の開港を自ら宣言し、諸藩の回答を待たず朝廷に兵庫開港の勅許を出すよう誓願しました。このため薩摩藩などは慶喜の裏切りに怒り、両者の間に大きな亀裂が入りました。
その後、慶喜は幕府中心の政権運営の安定と、フランスから援助を受けたうえ、幕政の立て直しのために「慶応の改革」を実施します。慶喜はフランスを参考に陸軍の洋式化をはじめとした軍制改革や、人材登用を通じた官僚制の合理化等に取り組みました。日本初の近代的な造船所・軍事工場である横須賀製鉄所(造船所)を設立したのもこの頃です。
大政奉還に至った背景④薩長が倒幕運動を進める
薩摩藩ら雄藩は対慶喜対策として、慶応3年(1867年)5月、慶喜や新幕府派の摂政・二条斉敬への諮問機関的な存在である「四侯会議」を設立します。メンバーは薩摩藩の島津久光、前越前藩主の松平春嶽、前土佐藩主の山内容堂、前宇和島藩主の伊達宗城でした。
議題は長州藩への処分問題と兵庫開港問題でしたが、メインは兵庫開港問題となりました。慶喜の強硬な兵庫開港への主張に対し、四侯会議ははなすすべもなく、朝廷は押し切られる形で開港の勅許を出します。こうして慶喜を押しとどめることに失敗した四侯会議は崩壊し、薩摩藩は武力での討幕をかかげて長州藩との連携を強化。さらに土佐藩とも武力行使による討幕で協力する「薩土密約」を締結します。
ただし、土佐藩のなかでも武力による討幕か、平和的な倒幕か、意見が割れていました。平和的な倒幕に臨む土佐藩参政の後藤象二郎は、坂本龍馬とともに「大政奉還」を主張します。ちなみに坂本龍馬が象二郎に大政奉還を含む「船中八策」を提示したというストーリーもありますが、こちらは後世の創作です。
象二郎と龍馬は慶応3年(1867年)6月17日、京都の土佐藩邸で幹部に王政復古と将軍職の廃止を訴えます。これを受け入れた土佐藩は薩摩藩と6月22日、武力討幕を回避して大政奉還を実現させるための「薩土盟約」を締結しました。
この時の盟約の内容は、将軍による大政奉還、朝廷による政治、上院・下院からなる議事院の設立です。ここでははっきりと「将軍の辞任」が記されており、慶喜に出す建白書にも明記するように、と約束されていました。
大政奉還前夜:山内容堂が建白書を提出
武力による討幕と大政奉還による平和的な倒幕。矛盾した2つの約定をした土佐藩が最終的にとったのは、平和的な倒幕でした。土佐藩をけん引していた前藩主の山内容堂が武力行使に大反対し、後藤象二郎たちの大政奉還の提案に賛成したのです。
慶応3年(1867年)8月20日、山内容堂は藩主の山内豊範とともに重臣を招集し、慶喜への大政奉還の建白と、薩摩藩が求めていた藩兵の出兵見合わせを通達しました。これにより、象二郎らは高知を出発して京都に向かいます。そして薩摩藩と協議の上、薩土の盟約を廃止したのです。
10月3日、山内容堂は慶喜に大政奉還の建白書を提出しました。建白書では政権を朝廷に奉還したうえで、諸侯会議を設置し、新政府を樹立する構想が示されていました。
これを受けて、慶喜は大政奉還を検討し始めます。そして10月11日、京都に滞在していた10万石以上の諸藩重臣に対し、「国家の大事なため、見込みお尋ねの儀」があるとして、二条城に13日正午に出仕するよう命じます。12日には老中や幕府の役人に対し、大政奉還の決意を告げました。
二条城で大政奉還が告げられる
10月13日、40藩の重臣50名が二条城の二の丸大広間に集結します。そこで老中の板倉勝静が大政奉還の案を廻覧させ、参加者に意見を求めました。
多くの参加者はかなりの大事だったため意見を出さず無言で了承しましたが、土佐藩の後藤象二郎と福岡孝弟、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の辻維岳、宇和島藩の都築温、備前藩の牧野権六郎ら5藩6名は慶喜に拝謁しました。この時帯刀は「未曾有の御英断、真に感服に堪えず」と大政奉還への賛同の意を示しています。
薩摩藩は裏では討幕に向けた準備を進めているわけですから、帯刀の行動には驚かされます。一説によれば、帯刀は慶喜に「薩長が武力行使を検討している」とリークしたのだとか。薩摩藩としては慶喜が大政奉還を拒否することを想定し、それを討幕の大義名分にしたかった、または真逆の論に対しそれぞれ保険を掛けた、などいろいろ言われていますが、帯刀としては内乱に反対だったかもしれません。
朝廷に「大政奉還上表」を提出
主要な藩の同意を得られたことで、慶応3年10月14日(1867年11月9日)朝、慶喜は高家の大沢基寿を使者とし、朝廷に「大政奉還状上表文」を提出しました。
上奏文の内容は、従来の幕府政治を自己否定するのではなく、昨今の政治的混乱は「自分の不徳である」としています。そして、外国との交流が盛んになったことで、「愈朝権一途ニ」、つまり朝廷に権力を統合して一つにしなければ国がり絶たない、と主張し、従来の旧習を改めるとともに「政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ」、つまり政権を朝廷に返して広く会議を尽くし、天皇の聖断を仰ぐべきとしています。
そのうえで皆で心を一つにして協力して日本を守れば、海外諸国と並びたてる、自分にできるのは権力を天皇に返すことだけ、と締めくくりました。
こうして慶喜は大政奉還により、天皇を中心に広く会議を尽くす、つまり大人数で会議をしたうえで天皇の決断を仰ぐ、合議制を主張したのです。
翌15日(11月10日)、朝廷はこの上奏を正式に受理し、勅許を与えました。こうして政権は朝廷に返されましたが、実は将軍職の辞任について、大政奉還では全く言及がありませんでした。辞職すると旧幕臣たちが不満を抱くから、という理由でしたが、これに小松帯刀は反発し、自粛を進言します。結局慶喜は10月24日に征夷大将軍を辞職する旨を朝廷に伝えました。
慶喜はなぜ大政奉還を決意したのか
慶喜が大政奉還を決意した理由としては、複数の説が上がっています。まず第一に挙げられるのが、武力による討幕の回避です。慶喜は薩長の動きに気付いており、内乱を避けようと考えたのです。
薩長が武力行使に踏み切れば、全国規模の戦乱に発展する可能性が高く、諸外国との外交関係が難しいなか、日本の国力が著しく損なわれることは大きなマイナスでした。
実は、薩長は朝廷に働きかけ、慶喜が朝廷に大政奉還の上表文を出したのと同日に「討幕の密勅」を得ていました。討幕の密勅は両藩にあてられた慶喜追討を命じる詔書(綸旨)ですが、事前の根回しで得たものでした。ただし、こちらは天皇の直筆や玉璽がない、出されるまでの手続きに疑問があるなどの理由から偽勅ではないか、とも言われています。
しかし、密勅が効果的なのは明らかでした。このため慶喜は、密勅を盾に討幕のための武力蜂起がおこる前に、政権を朝廷に返上してしまえば良いと考えました。この点から、大政奉還は倒幕の密勅を政治的に無効化するための先制的措置だったのではと言われています。
第二の理由としては、徳川家が天皇をトップとした新体制の中核に残る余地を確保するための政治戦略という側面です。慶喜は、政権を返上したところで朝廷に政権を運営する能力がないため、海外とのパイプもしっかりと築いている自分は新政府の中心的な存在になれるであろう、と考えていました。そもそもいきなり政権を返されたところで、朝廷がすぐに実権を握ることは不可能です。
実際、10月22日には、朝廷から諸侯の合議制が整うまでは、日常の政務はそのまま徳川氏=幕府が担当するように、と連絡がきており、徳川氏が実権を握り続けることに変わりはありませんでした。さらも朝廷側の権力者は新幕府派が中心でした。
しかも徳川氏は8000石の大大名。やがて開催されるであろう諸侯会議でも確実に頭角を現していくことはあきらかでした。
薩長派による「王政復古のクーデター」
結局は徳川氏の一人勝ちになってしまう…そう危惧した薩長ら討幕派は思い切った行動に出ます。12月9日、京都御所を封鎖し、明治天皇に働きかけを行ったのです。
この結果、同日に「王政復古の大号令」が出され、慶喜の将軍辞職と摂政・関白・江戸幕府の廃止、新たな枠組みの政治体制の構築が宣言されました。
さらに同日の夕方には朝廷で小御所会議が開催され、慶喜から内大臣の官位の返上、領地の返納等が決定されます。
ただし、徳川氏にとって余りに過酷で屈辱的な決定だったため、諸大名から慶喜への同情が集まります。また、慶喜も諸外国との関係性を盾に王政復古の大号令を拒否。加えて決定を不満に思った旧幕府側は武力蜂起に踏み切り、戊辰戦争が起こることになるのです。
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- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。