第一次長州征伐「朝敵」長州藩を幕府が討伐

第一次長州征伐
元治元年(1864年)7月、禁門の変で敗れた長州藩は、朝廷から「朝敵」とされました。幕府は長州藩を処分するため、2回にわたり出兵します。このうち、今回は実際に戦うことなく長州藩が敗北した「第一次長州征伐」(長州征討、長州出兵など)について、分かりやすく解説します。
尊王攘夷派の長州藩が下関事件を起こす
安政5年(1858年)、日米修好通商条約をはじめとした「安政五カ国条約」で日本が開国すると、天皇・公家を頂点にした政治体制を主張し、外国人排斥を訴える「尊王攘夷派」と、朝廷と幕府、雄藩が一体的に協力して政治を担う「公武合体派」が争うようになります。前者の中心が長州藩、後者の中心が薩摩藩です。
尊王攘夷派が朝廷の公家とともに幕府に攘夷実行の圧力をかけたことで、徳川家茂は文久3年(1863年)5月10日を攘夷の決行日と宣言しました。ただし、幕府は諸外国に軍事行動をしかけるのではなく、諸藩にも「外国から攻撃があった場合応戦する程度にとどめるように」としています。
しかし、長州藩は唯一、攘夷を実行しました。5月10日、関門海峡(馬関海峡)を通過するアメリカ商船に砲撃を加えたことを皮切りに、フランスやオランダの船を砲撃したのです(下関事件)。このため6月にはアメリカとフランスが報復措置として下関の軍艦や砲台を砲撃しました。
八月十八日の政変で長州藩が都落ち
大損害を受けた長州藩ですが、その後も急進的な尊王攘夷派であり続けました。孝明天皇の勅令を勝手に出して攘夷を進めようとし、天皇の攘夷親征に向けた大和行幸の詔も天皇の意思に反して出します。
尊王攘夷派ではあるものの、「攘夷は幕府の役目」と考えていた孝明天皇は、こうした急進的な尊王攘夷派の排除を決意。こうして文久3年(1863年)8月18日、孝明天皇と薩摩藩や会津藩などの公武合体派が組んだクーデター「八月十八日の政変」が起こりました。
これにより長州藩主・毛利敬親と子の毛利元徳は国元での謹慎を命じられ、長州藩士たちは京から追い出されました。加えて三条実美ら急進的尊王攘夷派の公卿たち7名に禁足が命じられます。7名は長州藩を頼り京から脱出しました(七卿落ち)。
禁門の変で長州藩が大敗
京から締め出された長州藩と七卿は政権復帰を試みますが、この時長州藩では「武力をもって京に侵攻し長州の無実を訴える」と主張する進発論者と「慎重に動くべき」と主張する慎重論者が対立していました。徐々に新発論者が優勢になるなか、元治元年(1864年)6月5日、新選組が京都の池田屋にいた長州藩など尊王攘夷派の志士たちを捕縛・虐殺します(池田屋事件)。
これに長州藩士の怒りは爆発し、進発論の声はますます強くなりました。池田屋事件前から計画していた毛利元徳の上洛がさらに大掛かりなものになり、毛利元徳と福原元僴、益田親施、国司親相の三人の家老が長州藩兵を率いて上洛することになりました。
こうして7月19日、長州藩兵と京都御所を守る会津・薩摩・幕府連合軍が激突する「禁門の変(蛤御門の変)」が起こります。激戦の結果長州藩が敗れ、長州藩は「朝敵」となりました。
第一次長州征伐①総督・徳川慶勝の思惑
7月22日、朝廷は長州藩の処分について朝議を行い、翌7月23日、長州藩を追討するよう勅命を出しました。幕府はこれを受け、中国、四国、九州の21藩に出兵を命令。征討軍の総督には御三家・尾張藩主の徳川慶勝を任命しました。
慶勝は当初、総督を辞退します。長州征伐が各藩に多くの金銭的負担を強いる点や、長州征伐という内乱を起こせば国力が疲弊し、諸外国が介入する原因になるのでは、と考えたからです。慶勝は武力行使ではなく対話で長州征伐を終結させようと考えており、朝廷政治の中心にいる関白の二条斉敬もこれに賛同していました。
このため慶勝は総督は置かず、家茂を上洛させて対処しようと考えますが、上手くいきません。結局慶勝は、自らの意見を通すべく「全権委任」を条件に、10月4日に就任を承諾しました。
その後、慶勝は京都から大坂に移動し、10月22日に大坂城で諸藩を集めて「大坂軍議」を実施します。この際、慶勝は諸藩にあらかじめ長州征伐を武力行使なしで終わらせるよう、ひそかに根回ししました。ただし、諸藩の足並みはなかなかそろわず、最終的に大坂軍議では五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)に軍を分けて進め、11月18日から攻撃を開始する、という計画が決定しました。
第一次長州征伐②西郷隆盛が「寛典論」を主張
第一次長州征伐が進むなか、長州藩に敵視されている薩摩藩はといえば、長州藩に対し、比較的軽い処分を求めようと各藩の説得に動いていました。この時の薩摩藩の窓口は西郷隆盛です。
実は、薩摩藩は禁門の変発生直後、長州藩に対し強硬策を主張しており、薩摩藩の窓口を担当していた西郷隆盛もかなりの強硬論者でした。しかし、9月11日に幕府方の勝海舟と面談した後、隆盛の考え方に変化が訪れます。
海舟は隆盛に対し、現在の幕府は安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の時のような、無能で保身に走る官吏が幅を利かせており、将軍の出陣は不可能だと説明。長州征伐の後は諸藩が参加する公議会(諸侯会議)を設けて対外政策や国家運営の方針を決める、新しい政治体制にすべきと主張しました。
海舟に感服した隆盛は、諸侯会議の開催の重要性と、もしそれが実現しなかった場合は、幕府と対峙する将来を見据え、薩摩藩で富国強兵に取り組むべきと考えるようになりました。
一方、本国・薩摩では軍賦役の黒田清綱が、長州征伐により幕府が先鋒に薩摩軍を据え、長州藩と積極的に争わせることで、力のある両藩を弱体化させようとしていると主張。戦費による藩の疲弊を避け、長州藩が素直に謝罪すれば比較的軽い処分にするべきではと提案しました。
薩摩藩で当時実権を握っていた島津久光はこの提案に賛同し、薩摩藩の藩論は強硬論から比較的軽い処分におさめ、穏便な解決をはかる「寛典論」に移行しました。こうした影響もあり、西郷隆盛も強硬策から寛典論に転換し、大坂軍議の際に徳川慶勝と会談してその意を伝えます。
加えて、隆盛は長州藩が幕府への抗戦を主張する「正義党」と、幕府に恭順の意を示すべきという「俗論党」に分裂していることを指摘し、この内部分裂を利用すべきとの持論を展開。武力ではなく策略をもって長州藩を下すことを主張しました。
隆盛の意見に慶勝は賛同し、協力を要請するとともに信頼の証として脇差を与えました。こうして隆盛は征伐軍の参謀格となり、以後活躍していくこととなります。
第一次長州征伐③長州藩の動き
幕府が長州征伐を進めるなか、当事者の長州藩では、藩論が正義党と俗論党で大きく分かれ、時に武力行使が行われるほど争っていました。
そんななか、8月5日に英仏蘭米による「四国艦隊下関砲撃事件」が起こります。連合艦隊による攻撃に長州藩はなすすべもなく敗退。正義党の高杉晋作が使者となり、講和条約を締結しました。とはいえ、強気の晋作の交渉の結果、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになったのですが…。
禁門の変、四国艦隊下関砲撃事件と2度の敗走が続いた長州藩では、戦うよりも幕府に従おうという風潮から、俗論党が主導権を握っていくこととなります。正義党は必死に抵抗しますが、10月には奇兵隊の解散が命じられ(ただし、奇兵隊はこれを拒否)、11月には俗論党トップの椋梨籐太が政権を握りました。なお、高杉晋作は政敵から逃れるため、脱藩して博多に逃げ延びています。
第一次長州征伐④長州藩が降伏、禁門の変の三家老が切腹
再び征長軍の動きに戻ります。征長軍は西郷隆盛ら率いる先発隊が11月4日に岩国に入り、岩国藩主の吉川経幹と面会しました。吉川経幹は宗藩である長州藩の危機的状況を以前から感じており、7月にはすでに長州藩に使者を出し「禁門の変の責任を取る形で、責任者だった福原元僴、益田親施、国司親相の三家老を処分すべき」と進言していました。これに対し、毛利敬親は「首を差し出す用意はある」と回答し、経幹に朝廷や幕府との交渉を依頼していたのです。
交渉の結果、長州藩は三家老の首級を差し出し、宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛の四参謀を斬首して恭順姿勢を示すことが決められました。11月11日から12日にかけて、三家老は自刃し、四参謀は斬首されました。14日には広島の国泰寺に三家老の首級が届けられ、総督名代の成瀬正肥らにより首実験が行われました。実験後、正肥はただちに11月18日に予定されていた総攻撃を延期しています。
11月19日、征長軍は長州藩に対し、幕府と朝廷に謝罪文書を提出するとともに、八月十八日の政変の際に、長州藩に落ち延びた五卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、四条隆謌、壬生基修)を引き渡し、山口城を破却するよう命じました。
実は大目付の永井尚志が加えて「長州藩主親子の面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)」「萩城の開城」という条件をつけ加えていますが、経幹は永井案を断固として拒否。西郷隆盛も「一戦も戦っていないうちに要求すべきではない」と非難し、このまま征伐が長期化すれば軍が疲弊し、幕府に従わない藩が出てくる可能性を指摘しました。これに対し尚志は主張を撤回し、隆盛にその後を託しています。このように、第一次長州征伐の際、薩摩藩は長州藩の処罰を軽くしようと、調整役として積極的に活動していました。
その後、12月5日には藩主親子の謝罪書が提出されます。五卿については福岡藩が預かる旨を申し出ましたが、奇兵隊や遊撃隊などの諸隊がこれに反発しました。そこで福岡藩士たちが中心に諸隊の説得に動き、最終的には西郷隆盛が下関を訪問して諸隊の幹部などと会談。五卿は福岡、久留米、佐賀、熊本、薩摩が1人ずつ預かることが決まりました。このほか、山口城は一部が破却されています。
第一次長州征伐⑤功山寺挙兵から始まる長州藩の内乱
こうした動きに反発したのが奇兵隊を率いていた正義党の高杉晋作でした。下関に戻り即時挙兵を主張しますが、長州征伐の終焉が見えていたこともあり、賛同者はほぼいませんでした。このため12月15日、高杉晋作は力士隊、遊撃隊とともに五卿のいる功山寺を訪れて決意を表明し、翌12月16日に挙兵しました。
当初はわずか50名ほどの兵力でしたが、長州藩を主導する俗論党へのクーデターは拡大し、長州藩内の内戦へとつながっていきます(元治の内乱)。軍艦を奪い、奇襲攻撃をかけたことで正義党からなる反乱軍は優位に立ち、最終的には2000人まで膨れ上がりました。
結局内乱は反乱軍が勝利し、以後、長州藩は正義党が主導していくこととなります。ただし、彼らは急進的な攘夷派ではなくなり、外国からの武器輸入により力を蓄え、幕府に恭順するふりをしながら倒幕をめざすようになっていきます。
長州藩が内乱で混乱するなか、役目を終えた征長軍は12月27日に長州藩から撤退。第一次長州征伐は終結を迎えました。ただし、元治の内乱を受け、江戸幕閣は元治2年(1865年)1月5日、徳川慶勝に長州藩主父子と五卿を江戸に償還するよう命令します。
命令書を受け取った慶勝は将軍から全権を委任されていることを理由にこれを拒否しました。さらに幕府は長州処分を江戸に行うため京によらないように命じますが、朝廷からは「入京するように」と勅令を得たことを理由に、1月24日に入京しています。
慶勝は京都で征長参加諸藩の意見を集約して朝廷に奏上しようとしますが、松平容保が「それよりも将軍の上洛を」と強硬に反対。結局慶勝は「所労(病、疲れ)」を理由に大坂にとどまりました。
その後、幕府は引き続き長州藩主父子を江戸に出頭させようとします。しかし、長州藩は倒幕に向けた軍備拡張・軍制改革に突き進んでおり、のらりくらりと命令を拒否し続けました。こうした長州藩の対応は、第二次長州征伐へと繋がっていくことになるのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。