薩英戦争イギリスと薩摩藩はどっちが勝ったか? 勝敗のきっかけと原因

薩英戦争
文久3年(1863年)7月、鹿児島湾でイギリス軍艦の大砲が火を噴きました。薩摩藩(現鹿児島県本土・宮崎県の南西部など)対イギリスの「薩英戦争」の始まりです。薩摩藩がイギリス人を殺傷した「生麦事件」をきっかけに起こった戦争の結果、薩摩藩はイギリスと接近し、富国強兵と殖産興業を押し進めていくことになります。今回は幕末の薩摩藩、ひいては明治維新に大きな影響を与えた薩英戦争について分かりやすく解説します。
薩英戦争の背景:さまざまな思想が入り乱れる幕末
薩英戦争発生当時、日本は外国からの圧力を受け、江戸幕府が諸外国と次々と開国のための条約を結んでいました。安政5年(1858年)、幕府は天皇の許可を得ることなくアメリカ、オランダ、ロシア帝国、イギリス、フランスと修好通商条約を締結しますが、これらは治外法権や関税面での相手国の優遇などから「不平等条約」として知られています。
こうしたなかで幕府を批判し天皇をトップとした政治体制を主張する「尊王」思想、外国を排斥しようという「攘夷」思想が広がってきます。薩摩藩は当初は天皇を尊重し、朝廷と幕府、そして雄藩が協力して政治を行う「公武合体」論を唱えていました。その象徴が第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹である和宮の婚姻です。
尊王思想、公武合体論で天皇家に近づいた薩摩藩でしたが、孝明天皇が強硬に訴える「攘夷」についてはやや消極的でした。もともと薩摩藩はいわゆる鎖国時も海外との窓口「四つの口」のひとつとして、琉球王国と外交・貿易を実施していたからです。
薩英戦争の原因となった「生麦事件」
公武合体派と尊王攘夷派の争いが続くなか、公武合体の中心的人物だった薩摩藩の島津久光は朝廷への働きかけのため、文久2年(1862年)に1000人の兵を率いて上洛します。久光は11代藩主・島津斉彬の弟で12代藩主・島津忠義の父でもあり、「国父」と呼ばれる薩摩藩内の最高権力者でした。
京で朝廷との交渉に成功した久光は、朝廷の使者とともに江戸に向かって幕府と交渉します。要求を通して満足した久光は8月21日に江戸を出発し、東海道経由で京に向かう途中、武蔵国橘樹郡生麦村を通過しました。
その際、久光の大名行列にイギリス人4名が遭遇します。本来ならば大名行列に遭遇した場合、相手は下馬するのが常識で、無作法があった場合は藩士に切られても文句は言えませんでした。イギリス人は下馬せず乗馬したままで行列に突っ込んだため、薩摩藩士はイギリス人に斬りかかり、チャールズ・レノックス・リチャードソンが死亡、同行していた2名が重傷を負いました。これが薩英戦争の原因となった「生麦事件」です。
この事件に対し、イギリス側は外交ルートで抗議します。イギリス側の窓口は公使代理のジョン・ニールで、幕府に謝罪と10万ポンドの賠償金を要求しました。加えて薩摩藩には2万5000ポンドの賠償金(遺族向け見舞金)と、犯人の公開処刑を求めています。イギリスは支払わない場合の報復措置として武力行使をちらつかせ、横浜に艦隊を集結させました。こうした圧力により、結局幕府は賠償金を支払いました。
一方の当事者である薩摩藩は賠償金の支払いを拒否。さらに久光の命で、イギリス艦隊が鹿児島に来ることを予想し、防備を固めます。砲台の修築や弾薬の増産などさまざまな準備を行い、演習も頻繁に実施しました。
薩英戦争①イギリス艦隊が鹿児島湾に現れる
薩摩藩が賠償金を支払わないため、公使代理のジョン・ニールをはじめとするイギリス側は文久3年(1863年)6月22日、当時横浜に停泊していた旗艦「ユーリアラス」をはじめとする7隻の軍艦を鹿児島湾に移動させます。
艦隊は6月27日に鹿児島湾に到着しました。その後、6月28日午前中に児島城下の給黎郡喜入郷前之浜(鹿児島市喜入前之浜町)約1km沖に錨を下ろし、艦隊を訪れた薩摩藩の使者に国書を提出。生麦事件犯人の逮捕と処刑、亡くなったリチャードソンの親族と他の被害者3名に2万5000ポンドの賠償金の支払いを要求しました。さらに、24時間以内に回答するよう求め、要求を阻止した場合は攻撃するとしています。
薩摩藩側は回答を控え、翌日に鹿児島市内の接待施設での会談を提案しましたが、イギリス側はこれを拒否します。実は薩摩藩側はイギリス側を閉じ込めて殺害しようとたくらんでいたのです。
薩摩藩としては「大名行列に無礼なふるまいをした外国人を斬り捨てて何が悪い」との考えがあったようです。しかも幕府が賠償金を支払ったのになぜ我々までという思いもあったことでしょう。
薩摩藩側はその後、西瓜などの果物や卵や魚肉を売る商人に化けて艦隊に侵入し、船を乗っ取ろうと計画しますがこちらも失敗に終わります。ちなみにこの作戦に参加した藩士たちは「西瓜売り決死隊」と呼ばれています。
薩摩藩側は7月1日にイギリス側に返書を出すものの、イギリス側が満足するものではありませんでした。犯人は行方不明なので裁判も死刑もできない、さらに通商条約には大名行列は妨害してよいなどと書かれていないので、イギリス人側が悪い、と主張したのです。これを受けたニールは武力行使をおこなうという最終通告を出します。
一方、薩摩藩側は鹿児島城(※荒田とも)にあった本営を西田村の千眼寺(鹿児島県鹿児島市常盤町)に移動。これは鹿児島城がイギリス軍の大砲の射程距離だったからで、島津久光ら首脳陣もここに移動しました。
さらに城下町には藩士3万5000名が詰め、城下町の女性や老人、子供などの住民は避難しました。加えて砲台の砲弾を準備。イギリス軍の上陸に備えて遊撃隊を伏せさせつつ、戦に備えます。
薩英戦争②嵐のなかの開戦
文久3年(1863年)7月2日、イギリス艦隊は暴風雨の中、鹿児島湾内に停泊していた薩摩藩の蒸気船「天祐丸」「白鳳丸」「青鷹丸」3隻を拿捕しました。この際天祐丸の上で引き渡しを抵抗した太鼓役の本田彦次郎が銃で撃たれて海に落下。船長などが捕虜として捕まっています。
イギリスが3隻の船を拿捕したのは、資産価値のある蒸気船を拿捕することで、賠償金の交渉を有利に進めようと考えたためとされています。ちなみに都合よく3隻の蒸気船が停泊したのは嵐が迫っていたためでした。
イギリス側の行動を宣戦布告なしの海賊行為とみなした薩摩藩は開戦の意思を示し、嵐の中にも拘わらず、正午頃から7か所の砲台で射撃をスタート。薩英戦争の始まりです。
このとき本営に最も近かった天保山砲台に走ったのが大久保一蔵(のちの大久保利通)で、一蔵の姿を見ただけで砲手が命令を察知して先んじて発砲。この発砲が開戦の合図となりました。このほか、城ヶ平砲台・辨天波戸砲台・磯砲台、櫻島砲台などからも攻撃が始まりました。
このとき砲撃を受けたイギリスの艦船は「ユーリアラス」と「パーシュース」で、ユーリアラスは火薬庫の前に幕府から得た賠償金が積みあがっていたため攻撃をせずに鎖を切ってその場を逃れます。一方、櫻島砲台から攻撃を受けたパーシュース号は、櫻島砲台の存在を認識していなかったため被弾。大慌てで錨を切り捨てて沖合に逃げました。
その後、イギリス側は邪魔になりそうな薩摩藩から得た蒸気船を焼却し、戦列を縦に整えて薩摩藩の砲台に向かって100ポンドアームストロング砲を発砲。双方間で砲撃合戦が起こります。
薩英戦争③薩摩藩対イギリスの砲撃合戦
砲撃合戦は双方に甚大な被害を与えました。イギリス側は暴風雨が吹き荒れるなかでの操船に大苦戦。大砲の狙いを定めるのにも一苦労でした。そんななか、先頭にいた「ユーリアラス」に辨天波戸砲台から放たれた砲弾が中甲板の砲門を直撃。艦長や副長など7名が戦死し14名が負傷しました。また、「レースホース」は嵐の波や機関故障などにより座礁してしまいます。とはいえ兵士たちは小銃で砲台に攻撃を続け、後に他のイギリス艦隊の船により救出されています。
一方の薩摩側は、砲台への攻撃により大砲が破壊されたほか、イギリス艦隊の大砲やロケット弾による砲撃で、「集成館」が破壊されています。集成館は島津斉彬が造った近代的西洋式工場群で、反射炉や溶鉱炉、硝子工場、大鵬製造所等からなりました。砲撃により反射炉と溶鉱炉を除いて焼失したことは、薩摩藩にとっては大打撃でした。
さらに日没後の「パーシュース」の攻撃では鹿児島城の城下町のうち上町地区を砲撃。多くの民家や侍屋敷、寺社などが焼失しました。
7月3日、イギリス艦隊は死者を水葬したのち、再び砲台や市街地を攻撃しつつも鹿児島湾を南下して沖合に逃げます。傷ついた艦を修復するためでした。そして7月4日、イギリス艦隊や弾薬や燃料不足から鹿児島湾からの撤退を決定。横浜に向かって出発しました。
薩英戦争④結局どっちが勝ったのか
薩英戦争の結果、イギリス側の被害は大破した艦船が1隻、中破2隻という結果になりました。当時の戦死者は13名、重軽傷者50名でしたが、後に負傷者7名が死亡し、戦死者は20名まで増えています。
一方で薩摩藩側は藩汽船3隻をイギリス側に沈められたほか、各種砲台の破損、鹿児島城の櫓や門などの損壊、集成館や民家、藩士屋敷の焼失、砲撃による火災などが発生し、大きな被害を受けています。イギリス側の砲撃により発生した火災により、なんと城下市街地の1/10が焼失したそうです。ただし、死者については死者5名、負傷者13名とイギリス側よりは少なくなっています。城下町の住民を避難させていたためで、民間人の被害はほぼ出ていません。
薩英戦争については決着がつかないままイギリス艦隊が撤退しており、どちらが勝ったかというのははっきりしません。人的被害はイギリスの方が大きかったですが、薩摩藩側の物的被害は甚大なものでした。また、薩摩藩としては嵐という悪天候に大いに助けられたことは言うまでもありません。
とはいえ、世界の強国・イギリスに日本の一地方の大名が挑んで負けなかったという事実は国際的にも注目されました。アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は「イギリス軍の撤退は日本軍の勝利と呼ぶべき」と評しており、日本の勇敢さを絶賛しています。
薩英戦争⑤戦後の和平交渉から明治維新へ
鹿児島での戦闘後、薩摩藩はイギリスの再来に備えて砲台等の修復と機能の強化を急ぎます。さらに焼失した集成館を復興し、大砲や砲弾の製造を再開しました。そんななか、藩内ではイギリス艦隊を追い払うことができたのは悪天候のおかげであり、再びイギリスが装備を整えて来訪した場合はどうなるのかという意見が出始めました。
これまで薩摩藩は天皇の意向をくんで、積極的ではないにしろ「攘夷」を受け入れていました。しかし、イギリスの強さを思い知ったことで「攘夷は不可能」ということが理解できたのです。そして、むしろイギリスと親交を深めて彼らの技術を取り入れ、薩摩藩を発展させようという考えが強まりました。薩摩藩の人々はイギリスの強さを十分に認めていたのです。
一方のイギリスも薩摩藩の力を高く評価しました。加えて、本国ではイギリス艦隊が市街地を焼いたことに対する人道的な立場からの批判が相次ぎ、後にヴィクトリア女王は薩摩藩に対し遺憾の意を表明しています。
こうしたなか、両者の和平交渉は文久3年(1863年)9月28日からスタートしました。薩英戦争から2か月超かかっているのは、薩摩藩がイギリスと直接和平交渉することを幕府が許可しなかったためです。なお、この際薩摩藩のメンツの問題もあり、薩摩藩主・島津氏の支族にあたる佐土原島津家が治める佐土原藩が仲介として参加しています。
薩摩藩側は重野安繹や岩下方平、イギリス側は代理公使のニールらが交渉のテーブルにつきましたが、交渉は難航します。薩摩藩側はイギリス艦隊が薩摩藩の蒸気船を拿捕し沈めたことを非難。開戦の責任はイギリスにあるとしました。一方イギリス側は生麦事件を非難し犯人を処刑するとともに、賠償金の支払いを求めます。
4回にわたる交渉の結果、薩摩藩のメンツの問題から、佐土原藩の名前で2万5000ポンドの賠償金を払うこと、生麦事件の犯人を捕縛したら処刑することを確約しています。一方でイギリス側からは軍艦購入と留学生派遣のあっせんが約束されました。
なお、薩摩藩は幕府から賠償金を借りましたが、返す前に江戸幕府が倒れてしまったので、返金しないままとなりました。また、生麦事件の犯人は「結局見つからなかった」としていますが、イギリス側はこれを黙認しました。
講和が成立したのち、交渉の中で互いを認め合った薩摩藩とイギリスは友好的な関係を築いていくことになります。薩摩藩はイギリスから得た知識や購入した艦船、武器等を活用しつつ富国強兵、殖産興業による近代化を加速させていきます。やがて薩摩藩は長州藩と薩長同盟を締結し倒幕運動を進めていきますが、その際もイギリスは(自国の利益になるとはいえ)金銭的・軍事的にも薩摩藩を助け続けていくのです。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。