中富川の戦い(2/2)長曾我部元親、阿波を制覇

中富川の戦い

中富川の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
中富川の戦い(1582年)
場所
徳島県
関連する城
勝瑞城

勝瑞城

岡豊城

岡豊城

関係する人物

このため中富川の戦いは壮絶を極め、『元親記』には敵味方入り乱れ「討ちつ討たれつ火花を散らし」て戦った様子が記されています。十河軍は中富川を渡ってきた長宗我部軍に襲いかかり、数的不利をものともせずに奮戦しますが、やがて押され始めます。寛文3年(1663年)以前に阿波国出身の医者・福長玄清が書いたとされる『三好記』によれば、十河存保はこのとき討ち死に覚悟で討って出ようと最前線近くまで行ったものの、部下に止められて勝瑞城に撤退しています。

一説によればこの時の死者は両軍あわせて約1500名で、このうち約800名(900名とも)は十河軍でしたが、残りは長宗我部軍でした。なお、この日の戦いで十河軍に加わっていた主な城主たちはほとんど討ち死にしています。

その後、長宗我部軍は勝瑞城を包囲しました。9月に入り、5日間降り続いた大雨により中富川と近くの吉野川が氾濫したことで、長宗我部軍は避難。この際十河軍に攻められ苦境に陥りますが、水が引いたのちに再び勝瑞城を攻めて巻き返します。十河軍は長宗我部軍の猛攻に耐えきれず、9月21日に十河存保は城を明け渡して降伏。存保自身は十河氏の本拠地である讃岐虎丸城(香川県東かがわ市)へと逃れました。

元親は勝瑞城をすぐに廃城にしました。そして三好康長の嫡男・三好康俊が守る岩倉城(徳島県、美馬市)を攻めてこれを攻略。康俊は討ち死にしたとも逃げたとも言われています。このほか、9月3日には長宗我部方とみなされていた一宮城主の一宮成相を、9月16日には富岡城主の新開実綱(道善)を謀反の疑いで殺しています。

こうして元親は阿波国の統一に成功した、と言われていますが、統一していなかったという説を唱える学者も存在しており、議論されています。実は勝瑞城が破却された後も、阿波国板東郡の土佐泊城(徳島県鳴門市)の森氏が元親に対し抵抗を続けていました。最終的に元親は土佐泊城を落とすことができず、このため元親は厳密には阿波国・ひいては四国を「統一」できていなかった、というわけです。とはいえ、元親が阿波国をほとんど制圧したことは間違いありません。

中富川の戦いを経て四国制覇へ

中富川の戦いの後、長曾我部元親は四国を統一しようとさらに兵を進めます。十河存保を追う形で讃岐国に侵攻した元親は、苦戦しながらも十河氏の本城にあたる十河城(香川県高松市)を攻略して讃岐国を統一。伊予国の西園寺氏と河野氏を降し、天正13年(1585年)には四国を制圧しました。ただし、讃岐・伊予国についても統一していなかった説があり、論争が続いています。

いずれにせよほぼ四国を手中にした元親でしたが、天正13年6月からはじまった豊臣秀吉による「四国攻め(四国征伐)」により、元親は数ヶ月で秀吉に降伏。土佐一国のみ安堵となってしまいます。その後、元親は秀吉の部下として、豊臣政権下で生き残っていくことになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03