真田幸村日本一の兵(ひのもといちのつわもの)

真田幸村

真田幸村

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人物記
名前
真田幸村(1567年〜1615年)
出生地
長野県
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上田城

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忍城

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関係する事件

戦国時代とも呼ばれた室町時代後期は、徳川家康によって終焉します。
関ヶ原の戦いで勝った家康は江戸幕府を開きました。更に家康は豊臣秀吉が残した豊臣家を、大坂の陣で滅ぼします。この大坂の陣で家康を窮地に追い込んだのが、真田幸村(本当の名は幸村、この話では幸村とします)でした。なぜ幸村が、大坂の陣で徳川家と戦ったのか。今回は、真田幸村の生涯を見ていきたいと思います。

出生から真田家の独立

永禄10年(1567、又は元亀元年《1570》とも)、真田昌幸の次男として誕生。通称は、兄の信之が源三郎を称し、幸村は源二郎と称しました。

真田氏は信濃国小県郡の国人衆で、幸村の祖父、真田幸隆のころに甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属します。幸隆は信玄の信濃国(現在の長野県)の平定に尽力し、幸隆の長男、真田信綱は武田家の先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争に尽くすなど、真田家は新しい武田の家臣の中でも群を抜いて活躍しました。
幸村の父、昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将となって武田庶流の武藤氏の養子となっていましたが、天正3年(1575)長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継ぎました。

天正10年(1582)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順します。幸村は関東を平定する為に送り込まれた織田家の滝川一益のもとに人質となりました。
ところが同じ年の6月、本能寺の変により織田信長が亡くなります。武田家の所領でした甲斐国(現在の山梨県)や信濃国は混乱し、上杉家、北条家、徳川家の三者で武田遺領を巡る争いが発生しました(天正壬午の乱)。

この混乱の中、真田家は上杉家に従う事で織田家から分かれて自立します。幸村は滝川一益の人質から上杉家への人質となり、越後国(現在の新潟県)に赴きました。
そこから、徳川家にも従属するなど目まぐるしく立場を変えましたが、天正13年(1585)、信濃国を占有しようとした徳川家が兵を送り込み、真田家と争っています、第一次上田合戦です。上杉家の援軍を得るなどして、真田家は徳川家を撃退しました。

幸村と豊臣秀吉

織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると、上杉家と共に昌幸はこれに服属します。
豊臣家の下、真田昌幸は独立した大名として扱われるようになりました。幸村は人質として大坂城に移り、後に秀吉の馬廻り衆となると知行を得るようになります。又、秀吉の小姓から越前の大名となった大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎え婚姻を結びました。

天正17年(1589)、豊臣秀吉は真田信之の城、沼田城を関東の北条家に引き渡すよう命じます。ところが北条家は裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、秀吉によって全国の大名に対して小田原征伐に繋がってしまいました。
翌年の遠征において、父の昌幸と兄の信幸は前田利家、上杉景勝らと松井田城や箕輪城を攻め、幸村と吉継は石田三成の下で忍城攻めに参戦します。こうして秀吉は北条家を滅ぼしました。

更に、秀吉の行った朝鮮の役において、真田家は肥前名護屋城で在陣しています。幸村は名護屋城の三ノ丸御番衆の御馬廻組の中に属していました。
文禄3年(1594)真田幸村は、従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されました。この幸村の出世は、岳父の大谷吉継の意向が反映されていたと言われます。

関ヶ原の戦い

真田幸村が仕えていた豊臣秀吉は慶長3年(1598)に死去。
秀吉死後、武家において朝廷の最高位にいた徳川家康が台頭します。
慶長5年(1600年)五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすと、留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ります。
幸村は、義父の大谷吉嗣が石田方に付いたこと、また父の真田昌幸も石田方に付いたこともあって石田三成の陣営に入ります。妻が本多忠勝の娘(小松殿)である兄の信之は徳川方に味方しました。
父、弟と兄とが陣営を分けた事になります。
徳川家の本隊は関東から徳川秀忠(家康の三男)に率いられて中山道を進んできました。昌幸と幸村は居城上田城に籠り、徳川秀忠の足止めを行います。少数の真田隊に手間取った秀忠勢は攻略に時間が掛かり、家康からの上洛を命じられ、攻略を諦めて去りました。
(第二次上田合戦)

しかし関ヶ原の戦いで、石田三成は徳川家康に敗北します。
昌幸と幸村は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところでしたが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しもあって、高野山配流を命じられるにとどまり、紀州国(現在の和歌山県)九度山に移りました。
九度山幽閉中の幸村は地域の人々や老僧と深く交わり、狩りや寺に遊びに行っては囲碁、双六に興じ、屋敷では夜更けまで兵書を読み耽っていたといいます。また、近隣の郷士や郎従をしばしば集めては、兵術、弓、鉄砲の訓練を行っていたそうです。
蟄居中の慶長16年(1611)父の真田昌幸は死去。慶長17年(1612)に幸村は出家、好白と名乗りました。

幸村の九度山脱出と大坂冬の陣

慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。
この間も、真田幸村は紀州国九度山にて蟄居を行っていました。
ところが慶長19年(1614)、徳川家と豊臣家は方広寺鐘銘事件をきっかけに関係が悪化します。
大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集め軍備を強化。九度山で蟄居している幸村の元にも、使者が訪れ大坂城の入城を要請します。幸村は生まれ育った信濃国にいる父・昌幸の家臣たちにも参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助と共に大坂城に入りました。
大坂城に入った幸村の軍は、赤一色で統一したそうです。

慶長19年(1614年)大坂冬の陣で幸村は、軍を整えて京に侵出し城の外で戦う事を主張しました。城に集められた浪人衆は賛成を表明しますが、豊臣家の方が受け入れずに籠城することになります。そこで幸村は大坂城の最弱部とされる三の丸南側に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築きました。
ここで幸村は、寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなります。
ところが、戦い半ばで豊臣家と徳川家とは講和することになりました。

大坂夏の陣と幸村の最後

大坂冬の陣が講和により、戦いは中断します。
幸村の造った真田丸は講和の条件として堀埋め立ての際に取り壊されてしまいました。そして豊臣方の弱体化を謀る徳川家康は、真田幸村に信濃国で領地を提供する条件を提示し、「承知するならば誓詞を与える」と寝返るように説得されています。
しかし、幸村は「秀頼に恩がある」と言ってこれを断りました。

慶長20年(1615年)、豊臣家と徳川家との講和は破られます。再び大阪城での戦さが起こることになりました、大坂夏の陣です。
大坂城の堀が徳川家により埋められたので、豊臣家は積極的に打って出る事になりました。
幸村は、河内国の道明寺の戦いに参加。伊達政宗隊を銃撃戦の末に一時的に後退させます。しかし、道明寺での戦いでは大坂方の諸将が討ち取られ、不利となっていきます。ここで幸村は殿軍(しんがり)を務め、迫って来た伊達家の軍を撃破しつつ、豊臣家の撤収を成功させました。
城に戻った幸村は、大坂方の諸将と共に最後の作戦を立案し軍を進めました。
しかし、作戦は失敗に終わり、大坂方の諸将は孤立していきます。
死を覚悟した幸村は、徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行。
この突撃は幸村の軍だけではなく、大坂方の諸将が参加し全線にわたって奮戦した為、徳川勢は押されて劣勢に立たされます。

幸村が指揮を執る真田隊は徳川方の軍を突破し、家康本陣の前に辿り着きます。更に家康の本陣に向かって突撃を敢行。徳川家康の周りを固める兵も蹂躙した為、真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったといわれます。
しかし、突撃の度に兵が討たれていき、ついに撤退を余儀なくされました。攻め続けていた大坂方も総崩れとなり大坂城への退却を開始し、大坂方の敗北が決定的となりました。

幸村は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家の侍に発見され、「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られました。享年49。

大坂夏の陣において真田幸村が、徳川家康の本陣まで攻め込み、獅子奮迅の戦いを行った事から江戸幕府や諸大名家の各史料に記録されます。そして、そこから「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評されるようになりました。

真田幸村の由来

真田幸村は「幸村」の名で知られていますが、本当は「信繁」が正解です。直筆の書状や他の史料においても、「幸村」と使われているものはありません。
では、どうして「幸村」という名前が広まったのでしょうか。
「幸村」という名が使われ出したのは、大坂の役から60年ほど経ったころです。
お話として作られた話の中に初めて、真田昌幸の次男、「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」として名前が上がります。

なぜ「信繁」という名前が「幸村」となったか分かりませんが、一説には「幸」は真田家の当主が代々名前に付けていたためだと言われています。
「村」については、徳川家に縁起の悪い刀、村正から取られたから、という説や幸村の子孫が仕えた仙台藩主、伊達綱村の「村」から取られたという説があります。

ところが「幸村」と名は江戸時代半ば広く知られてしまい、徳川光圀の晩年の言語禄「桃源遺事」において編集者が「幸村」は誤りで、「信仍」が正しい(ただし「信仍」も誤りで「信繁」が正解)と書き記したほど、幸村の死後100年も経たずに流布します。
さらに時代が下がると「幸村」の名前が定着しすぎて、江戸時代の系図資料や松代藩真田家の公式資料にまで「幸村」の名前が使われるようになりました。

ただし、松代藩真田家では「幸村」の名前が誤りで「信繁」が正しい事は把握していたようで、江戸幕府から幸村の名前に関する照会が来た時、「信繁」だと回答。「幸村」は大坂の役に入ってから名乗った名前だ、と返答しています。
こうして真田昌幸の次男、真田信繁は江戸時代を通して庶民に親しまれるがあまり、名前が真田幸村となりました。

真田信之と所縁の地

紀州九度山の真田ミュージアム
九度山町(和歌山県伊都郡九度山町)は、関ヶ原の戦いのうち上田合戦に敗れた真田幸村が父真田昌幸とともに蟄居した村です。
村では、その真田幸村父子と幸村の息子、真田大助を語り継ぐ真田ミュージアムを作り、展示を行っています。ドラマで使われた衣装や小道具、またパネル展示やドラマ仕立てで真田家三代の生涯を紹介しています。
紀州九度山の真田庵(善名称院)
九度山町には、真田父子が住んでいた真田屋敷の跡に真田庵(善名称院)が建てられました。
六文銭が刻まれた門をくぐると、敷地内には、真田昌幸と言われる墓や、真田幸村が落ちた雷を閉じ込めて村人を救ったという「雷封じの井」、真田家所縁の資料館などがあります。
紀州九度山の真田まつり
九度山町は真田父子が蟄居していた場所として所縁があり、親しまれています。その真田父子を讃える為に、5月の2日間、「紀州九度山真田まつり」を毎年行っています。メインは2日目の、道の駅から真田庵まで町中を練り歩く真田の武者行列です。
三光神社と真田の抜け穴と銅像
大坂冬の陣に置いて真田幸村が建てたのが真田丸です。真田丸があったのは現在の大阪市天王寺区のあった辺りですが、現在ではその有った場所に真田山があります。その真田山の近くにあるのが三光神社です。この三神社には、大坂の陣のときには真田幸村が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている「真田の抜け穴」や真田幸村を元にした像があります。
真田山三光神社と真田祭
三光神社では、毎年11月に真田幸村を偲んで真田祭を行っています。境内にある「真田の抜け穴」の公開や、子供たちへの甲冑体験、真田にちなんで忍者ショー、鉄砲撃ち体験などを行っています。

真田幸村と上田城

上田城(うえだじょう)は長野県上田市にある日本の城です。真田幸村の父、真田昌幸が天正11年(1583)築城した平城でした。
関ヶ原の戦いで、真田幸村は父の昌幸と共に不惜身命を意味する六文銭の旗を並べて上田城に籠り、徳川秀忠を足止めする戦いを行い勝ちます。その為、翌慶長6年(1601)関ヶ原の戦いに勝った徳川家により破却されました。

現在の上田城は、上田城跡を中核とした上田城跡公園となっており、樹齢100年といわれるケヤキ並木をはじめ、約千本の桜など市民の憩いの場所となっています。
本丸跡にある真田神社は、上田合戦で「落ちなかった」城であることにあやかり、受験生の必勝祈願のスポットとして賑わっています。

関係する事件
葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。