新宮城跡和歌山県新宮市

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  • 熊野川河口を押さえた紀州藩附家老・水野氏の城
  • 石垣と水ノ手郭が残る水運拠点の城
  • 現在は丹鶴城公園として整備された続日本100名城

新宮城跡とは、和歌山県新宮市にある江戸時代初期の城跡である。熊野川河口南岸の独立丘陵に築かれ、丹鶴城とも呼ばれる。関ヶ原の戦い後、新宮に入った浅野忠吉が築城を始め、その後、紀州藩附家老の水野氏が城主となった。熊野川と熊野灘の水上交通を押さえる要衝にあり、城内には本丸、鐘ノ丸、松ノ丸、出丸、水ノ手郭などが配置された。現在は新宮城跡、丹鶴城公園として整備され、石垣、天守台、曲輪跡、水ノ手郭、熊野川を望む眺望が城の面影を伝えている。

新宮城跡の特長
目的 熊野川河口の支配、紀州藩附家老水野氏の居城、水上交通と物資流通の拠点
特長 丹鶴城、石垣、天守台、水ノ手郭、船着場、炭納屋、熊野川、続日本100名城
他の城との違い ・熊野川河口と熊野灘を押さえる水上交通の要衝に築かれた
・水ノ手郭に船着場や炭納屋を備え、物資流通の拠点として機能した
・山上の石垣と、川に直接つながる水ノ手郭をあわせて見学できる
新宮城跡の石垣・土塁
石垣 現存
土塁 一部あり
種類 野面積、打込接、石垣、天守台、曲輪、水ノ手郭、船着場、水城、平山城
石材 熊野地域で採石された火成岩など
特長 新宮城跡は、熊野川河口の独立丘陵上に築かれた平山城で、山上部には本丸、鐘ノ丸、松ノ丸、出丸などを囲む石垣が残る。石垣には熊野地域で採石された火成岩が用いられ、地域の地質を活かした城郭遺構としても見どころがある。城の東側には熊野川へ下る水ノ手郭があり、船着場や炭納屋群を備えていた。軍事施設としての石垣だけでなく、熊野川の水運を利用した流通拠点としての構造を見られる点が、新宮城跡の大きな特徴である。
新宮城跡DATA
別称 丹鶴城、沖見城
所在地 和歌山県新宮市
築城 1601年頃
築城者 浅野忠吉
住所 和歌山県新宮市丹鶴三丁目周辺
電話番号 0735-23-3368
開園時間 新宮城跡・丹鶴城公園は見学自由
休園日 なし
入園料 無料
備考 新宮城跡は国指定史跡で、続日本100名城にも選定されている。続日本100名城スタンプは新宮市立歴史民俗資料館に設置されている。新宮市立歴史民俗資料館の開館時間は9時~17時、休館日は月曜日、祝日の翌日、年末年始。新宮城跡はJR新宮駅から徒歩約10分、または熊野御坊南海バス「新宮城跡前」下車すぐ。
新宮城跡への交通アクセス
JR紀勢本線「新宮」駅から徒歩約15分。

HISTORY 新宮城跡について

新宮城跡の歴史
平安時代末期 源為義の娘・丹鶴姫の住まいがあったと伝わり、丹鶴城の別称につながる
1600年 関ヶ原の戦い後、浅野忠吉が新宮へ入る
1601年頃 浅野忠吉が熊野川河口南岸の丘陵上に新宮城の築城を始める
1615年 一国一城令により、築城工事が一時中断されたとされる
1619年 浅野氏が広島へ移り、紀州藩主・徳川頼宣の附家老として水野重仲が新宮へ入る
江戸時代 水野氏が代々新宮を治め、新宮城は紀州藩附家老水野氏の居城となる
江戸時代 熊野川水運の拠点として、水ノ手郭に船着場や炭納屋が置かれる
1871年 廃藩置県により新宮城が廃城となる
明治時代 城郭建造物の多くが失われる
2003年 新宮城跡附水野家墓所が国の史跡に指定される
2017年 続日本100名城に選定される

新宮城跡を藩庁とする、紀伊新宮藩の歴史

水野沢瀉

水野家の家紋「水野沢瀉」

紀伊新宮藩DATA
藩庁 新宮城跡
旧地域 紀伊国
石高 3万5000石
譜代・外様 外様・譜代
主な藩主 浅野家、水野家

新宮城 美しい石垣が残る水運の要衝

和歌山県新宮市にあった新宮城(しんぐうじょう)は、独立丘陵の丹鶴山に築かれた平山城で、「丹鶴城」の別名を持っています。現在は本丸跡周辺が丹鶴城公園として整備されており、平成29年(2017年)には続日本100名城に選ばれました。

新宮城
新宮城の歴史
和歌山県といえば熊野三山ですが、新宮城にはもともと熊野別当の屋敷がありました。そこには源為義と熊野別当の娘が暮らしていましたが、第19代別当行範に嫁ぎ、熊野水軍が源氏に見方をするのに助力したとされています。この娘が丹鶴姫と呼ばれていたことから、新宮城は「丹鶴城」と呼ばれるようになったのです。
同地は戦国時代には堀内氏が治めており、堀内新宮城(現全龍寺、和歌山県新宮市千穂)に拠点を設けていました。その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西方についた堀内氏は桑山一晴に攻められて降伏。徳川家康は紀州藩主に浅野幸長を据え、その重臣にあたる浅野忠吉が新宮に入り、丹鶴山に築城を開始しました。
城は慶長7年(1602年)に完成しますが、元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となってしまいます。その後元和4年(1618年)に再築が許可され、浅野忠吉が再建に着手しました。
ところが城が完成しないまま、浅野氏が備後三原の三原城(広島県三原市)へ転封になります。次の紀州藩主として家康の10男・徳川頼宣が入ると、新宮には付家老の水野重仲が配置されました。重仲は築城工事を継続し、城は寛永10年(1633年)、2代目城主・水野重良の時に完成しました。また、3代目の水野重上の時代には石塁などが増築されています。
以降は水野氏が代々城主を務め、明治維新後も新宮藩の藩庁として存続しました。明治4年11月(1872年1月)に和歌山県と合併し、その後の廃城令により多くの建物が取り壊されました。
跡地は天理教の教会や保育園、旅館などが建築されています(旅館は後に廃業)。その後、新宮市が本丸や二の丸の一部、三の丸などの主要部分を買い上げ、昭和55年(1980年)に丹鶴城公園として整備しました。現在は石垣や天守台などの遺構が残っています。平成15年(2003年)には「新宮城跡附水野家墓所」として国の史跡に指定されました。
新宮城の見どころ①さまざまな石垣
新宮城に当時の建物は残っていませんが、さまざまな時代の石垣がしっかりと残されています。本丸の西側に位置する天守台周辺は、明治以降に通路などが作られてために一部が崩れているものの、美しい算木積みと切込接ぎの布積みが残されています。本丸の反った扇の勾配や、南側にある「屏風折」の石垣もポイントです。
松の丸(二の丸)と鐘の丸(三の丸)の間には枡形虎口と鏡石が残っています。鐘の丸の切込接ぎの布積みも見ごたえがありますよ。また、現在は保育園となっているため中には入れませんが、二の丸の南曲輪にある算木積みの石垣も美しいと評判です。
このほか、本丸をはじめ城の69か所で、〇に点などの刻印が刻まれた石が見つかっているので、探しながら歩くのもおすすめです。
新宮城の見どころ1 新宮城の見どころ2 新宮城の見どころ3
新宮城の見どころ②水ノ手曲輪
城の北側にある水ノ手曲輪は熊野川に隣接しており、水運のための施設として城の防衛と物流の両面で重要な役割を果たしました。現在は港の跡に加え、20棟の炭納屋と推定される建物の跡が発見されています。
江戸時代、熊野の木材や木炭は名産品として江戸まで運ばれており、藩の財政源となっていました。熊野川流域には木炭を蓄える炭納屋が設けられていましたが、城内にもあったようで、貴重な事例として注目されています。
新宮城の見どころ4 新宮城の見どころ5 新宮城の見どころ6
新宮城の見どころ③日本一短いケーブルカーの跡
新宮城の鐘の丸跡には以前旅館「二の丸」がありましたが、その旅館が活用していたのがわずか72mという日本一短いケーブルカーです。昭和55年(1980年)に休止され、その後廃線となっていますが、軌道跡が城内に残されています。ちなみに城の真下にはJR紀伊本線のトンネルが通っており、近世の城郭の下を通り抜ける鉄道トンネルは日本でもここだけなのだそう。鉄道ファンにはたまらないスポットです。
新宮城のフォトスポット
石垣の写真は本丸の枡形虎口や西の丸の石垣などをはじめ、さまざまな映えスポットがあるのでお気に入りを見つけてみては。また、丹鶴城公園は春には約230本の桜が咲き誇る名所としても知られています。春の桜と石垣のコラボレーションも美しいですよ。
加えて本丸は熊野灘や熊野川、紀伊山地の山並みを一望できる絶景スポットなので、ぜひ写真におさめたいところ。ちなみに城は海上を監視する役割を果たしていたと推察されており、眺望の良さから城は「沖見城」とも呼ばれていたそうです。
新宮城の見どころ7 新宮城の見どころ8 新宮城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。