高田城新潟県上越市

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高田城DATA
別称 鮫ヶ城、関城、高陽城
築城 1614年
住所 新潟県上越市本城町6-1

天守閣が建築されず石垣のない平城が特徴。天守閣の代わりに三重櫓を建設。

高田城への交通アクセス
えちごトキめき鉄道高田駅から徒歩約20分。

HISTORY 伊達政宗にも縁ある「高田城」

高田城は、新潟県上越市本城にあった平城です。別名を鮫ヶ城ともいい、徳川家康の六男に当たる松平忠輝の居城として江戸幕府による天下普請によって建てられました。築城工事の総監督を伊達政宗が務めたことでも知られています。そんな高田城の歴史を紐解いていきましょう。

松平忠輝の居城として築城
高田城が築かれた新潟県上越市は蒲生氏、上杉氏を経て堀秀治が治めていました。堀秀治は文禄の役では名護屋城に参陣し、伏見城の普請でも大いに貢献したため、24歳の若さでに越前北ノ庄18万石から越後春日山30万石へ加増移封されます。しかし、豊臣秀吉が死去すると徳川家康に接近し、慶長6年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では東軍に味方しました。その結果、領土を安堵されますが慶長11年(1606年)に31歳の若さで亡くなりました。その後、嫡子の堀忠俊が跡を継ぎますが彼はまだ11歳だったため、藩の実権を握って家老の堀直清とその異母弟堀直寄の間で争いが起こりました。(越後福嶋騒動)その結果、堀家は改易になり、代わりに徳川家康の六男、松平忠輝が信濃川中島からこの地に移封されます。 堀氏は、福島城を築きましたが松平忠輝はこの城を破棄して高田城を建築します。高田城は天下普請によって築かれ、築城工事の総監督を務めたのは松平忠輝の舅に当たる伊達政宗でした。
高田城は高田平野にある菩提ヶ原に築かれ、本丸を取り巻くように二の丸、南側に三の丸、北側に北の丸といった配置でした。また、関川・青田川・矢代川・儀明川の流れを変えて堀に利用し、南側に造られた百間堀のみ人工の堀であったと伝えられています。曲輪には土塁が築かれ、石垣は築かれなかったと伝えられていますが近年の調査によって本丸には石垣が築かれていた可能性があることがわかりました。 家康の嫡男の居城なのに石垣が築かれなかった理由としては、築城を急いだため、地盤が軟弱で石垣を支えるだけの基礎工事が不可能であったといった説が挙げられています。 菩提ヶ原は低湿地だったため、高田城は排水設備として暗渠も備えられており、その工事技術は現在のものと遜色ないものでした。
高田城は慶長19年(1614年)3月に築城が始まり、7月には基本的な普請が完成します。しかし、その後すぐに大阪の陣が勃発し、さらに城主になるはずだった松平忠輝が改易されるなどしたため、高田城の築城工事は櫓をはじめとする重要な部分が未完成のまましばらくの間放置されました。天守閣の代わりとなる櫓も基本的な普請が完成して10年以上経ったころ、松平光長によって建てられと伝わっています。 なお、寛文5年(1655年)に発生した高田地震によって高田城は多くの建物が被害を受け、三重櫓を新たに建築したという記録が残っています。 高田城はその後明治維新まで高田藩の藩庁として機能しました。
明治以降の高田城
明治3年(1870年)、高田城は火災によって本丸御殿、三重櫓などが焼失しました。そして3年後の明治6年(1873年)、廃城令が発布されて焼失を免れた建物も取り壊されます。跡地には陸軍第13師団の駐屯地や城址公園になり、それを記念して3,000本のソメイヨシノも植栽されました。また、廃藩置県の後に戊辰戦争や凶作で疲弊した藩の財政や収入を得る手段が絶たれた士族の授産のために、保阪貞吉という人物が外堀を利用して蓮(れんこん)の栽培を始めます。 れんこんを収穫する目的での蓮の栽培は昭和30年代に終了しますが、高田城址公園には現在も蓮が観賞用に栽培されています。
現在、高田城址は新潟県指定史跡に指定されています。また、平成5年(1993年)に上越市発足20周年を記念して三重櫓が復元、平成14年(2002年)には、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋も発掘調査に基づいて復元されました。 復元された三重櫓は鉄筋コンクリート造りですが、最上階天井は本格的な木組みを用いています。内部は資料館や展示室になっており、上越市を代表する観光スポットです。 平成29年(2017年)続日本100名城(132番)に選定されています。
まとめ
現在、高田城は城址公園となり復元された三重櫓は観光スポットや市民の憩いの場として親しまれています。高田城址公園は、市街地に位置する公園としては50haという広さをほこっており、春は桜、初夏は蓮の名所として親しまれています。

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高田城を藩庁とする、高田藩の歴史

高田藩親藩・譜代大名の移封が多い
高田藩は、越後国(新潟県上越市付近)にあった藩です。石高が高い越前福井藩と共に加賀前田藩に挟まれており、北陸や東北地方にかけて日本海側に位置する外様大名の監視役として、藩ができた当時は幕府に重要視され
高田藩DATA
藩庁 高田城
旧地域 越後国
石高 15万石
譜代・外様 譜代
主な藩主 松平氏、稲葉氏、榊原氏
推定人口 17万人(明治元年)

松平忠輝が改易された後、酒井家・稲葉家、戸田家などが入封。最後は榊原家が入封。

高田城、水堀に囲まれた徳川家康六男の居城

新潟県上越市にある高田城は、徳川家康の六男である松平忠輝の居城として築かれた城です。跡地は「高田城址公園」として整備されており、三重櫓などが復元されています。春は「日本三大夜桜」とされる桜とライトアップを見学しに多くの人が訪れます。続日本100名城にも選ばれました。

高田城
高田城の歴史
高田城は、徳川家康の六男である松平忠輝の居城として築かれた城です。戦国時代、越後国(現新潟県)は上杉氏が支配していましたが、慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津に転封にされると、越後国に替わって越前北ノ庄(福井県福井市)から30万石で堀秀治が入封しました。秀治は春日山城に入り、福島城を築城します。
秀治は関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍について本領を安堵されますが、その息子で高田藩2代藩主の堀忠俊の時代、お家騒動が勃発したため慶長15年(1610年)、幕府は忠俊を改易としました(越後崩れ)。代わって信濃国川中島から高田藩に入ったのが家康の6男にあたる松平忠輝で、川中島と合わせて60万石(45万石など諸説あり)の大名となりました。家康は加賀前田家、ひいては豊臣氏の重臣達をけん制するため、息子を交通の要衝である高田藩に配置したと言われています。
忠輝は当初は福島城に入りましたが、海や川などで城が痛んでいたことなどから慶長19年(1614年)に高田に移り、天下普請として高田城の築城を開始。普請には忠輝の義父にあたる伊達政宗や、上杉景勝や前田利常など13の大名が任命されました。
3月にスタートした工事は7月に終了し、約4ヶ月の突貫工事で城を完成させました。高田城は輪郭式の平城で、関川など周囲の皮を外堀として活用しています。石垣ではなく土塁が造られ、天守は作られませんでした。築城を急いだ理由は豊臣氏との戦を見据えていたからだと言われています。
元和2年(1616年)に忠輝が改易された後は、酒井家次、松平忠昌、松平光長と次々と城主が変わりました。光長の時代に高田の地は「高田藩」として26万石で新たに立藩されました。
延宝2年(1674年)に起きた、光長の跡継ぎを決めるための「越後騒動」により、延宝9年(1681年)に光長は改易となり、その後は稲葉氏、戸田氏、久松松平氏などが次々と入封します。寛保2年(1742年)には榊原政純が播磨姫路から15万石で入り、その後明治維新を迎えるまで高田藩を統治しました。
高田城は藩主の居城であり続け、幾度となく改修工事が行われました。築城当初の櫓は2重櫓を有していましたが、寛文5年(1666年)の高田地震後、3重3階の三重櫓に建て替えられました。
明治3年(1870年)に火事で本丸御殿や三重櫓は焼失。廃城令の跡に残された建物も取り壊されました。明治40年(1907年)には陸軍の施設となり、旧陸軍第13師団が入城する際に土塁の大半が壊され、堀が埋め立てられました。
明治42年(1909年)からは2000本以上の桜が植えられるようになり、現在は4000本の桜が並ぶ桜の名所となっています。また、明治初期には戊辰戦争や凶作により疲弊した高田藩を救うため、外堀に蓮が植えられて蓮根栽培が始まっており、現在も外堀の蓮は見どころの一つです。
昭和25年(1950年)には高田公園として整備され、のちに「高田城址公園」となりました。平成5年(1993年)には三重櫓が再建され、平成14年(2002年)には二ノ丸から本丸に続く極楽橋が復元されています。
高田城の見どころ①天守の代替となった三重櫓
平成5年(1993年)に再建された高田城三重櫓は、外観は松平光長時代の絵図を、建物の規模は稲葉氏時代のものをもとに設計されました。
1階と2階は展示室になっており、高田城に関連する史料が展示されているほか、江戸時代の高田城をVR体験できるコーナーも設けられています。3階は展望台となっており、公園内が一望できます。
高田城の見どころ1 高田城の見どころ2 高田城の見どころ3
高田城の見どころ②太鼓橋
本丸と二ノ丸を繋ぐ極楽橋は、平成14年(2002年)に安全面や維持管理を鑑み、伝統的な工法を採用しつつ、近代的な鉄筋コンクリートやPHCパイルを使用したハイブリッドな工法で復元されています。橋の長さは約38m、幅は5.4mで、発掘調査では6本から7本の木がまとめられ、3列に並んだ橋脚が確認されました。
高田城の見どころ③堀や本丸土塁
高田城址公園には堀や本丸土塁の跡が残っています。内堀は本丸側で約1300m。現在残された内堀は堀幅が36m〜58mで、深さは平均5m程度。深さについては石垣がなかったことで埋まってしまっており、浅くなっていると推察されます。外堀は関川を活用して作られたもので、幅は最大約130m。現在は北、西、南の堀が残り、夏は蓮の名所となっています。
本丸の土塁は総長約1000m、高さは最大約10mと、天下普請にふさわしい規模を誇ります。
高田城の見どころ4 高田城の見どころ5 高田城の見どころ6
高田城のおすすめ撮影スポット
内堀から水越しに三重櫓を撮影するのがおすすめ。特に南側から撮影すると、櫓が綺麗に入ります。桜や蓮のシーズンは美しい花々が楽しめますよ。特に高田城址公園は「日本三大夜桜」の一つに数えられており、夜にはぼんぼりに照らされた桜が堀の水面に移る幻想的な光景が楽しめるほか、三重櫓も美しくライトアップされます。
高田城の見どころ7 高田城の見どころ8 高田城の見どころ9
栗本 奈央子
執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。