上杉憲政関東管領

上杉憲政

上杉憲政

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人物記
名前
上杉憲政(1523年〜1579年)
出生地
群馬県
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箕輪城

箕輪城

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戦国時代、甲斐の武田信玄や伊豆の北条氏康に翻弄された大名がいました、関東管領の上杉憲政です。上杉憲政は関東を統べる鎌倉公方の補佐、関東管領に就きましたが周囲の大名に押されて関東を逃がれます。そして越後の長尾景虎(上杉謙信)に助力を請い、最終的に長尾景虎に上杉の名跡を渡しました。今回はそんな関東、甲信越の大名達に翻弄された関東管領上杉憲政について見ていきます。

上杉家とは

上杉憲政を出した上杉家。
上杉家の興りは平安時代の末、藤原北家の一門に生まれた藤原清房の次男、重房から始まります。重房は丹波国何鹿郡上杉庄(現在の京都府綾部市上杉町付近)を賜った事から藤原姓から上杉姓を使うようになり上杉重房と名乗り始めました、上杉家の始まりです。

この重房の嫡男、上杉頼重の娘清子は足利貞氏に嫁ぎます。そして足利貞氏、清子の間に生まれたのが室町幕府を開いた足利尊氏でした。つまり室町幕府を開いた足利尊氏と上杉家とは親戚同士となります。

さて幕府を開いた足利尊氏。尊氏は関東を統治する為に鎌倉に鎌倉府を置きます。鎌倉府の長官(鎌倉公方、或いは鎌倉殿)には尊氏の4男足利基氏がつき関東10ヶ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)を治める事になりました。

この鎌倉公方を補佐する為に選ばれたのが上杉憲顕(上杉頼重の孫、足利尊氏の母方の従弟)です。京において将軍を補佐し政務を取り仕切る管領に準えて、鎌倉公方を補佐する地位に関東管領を置きました。この関東管領に上杉憲顕が就き、ここから上杉家が代々務めていきます。関東管領に就いてきた上杉家。上杉家は鎌倉の山内に館を構えた事から山内上杉と呼ばれるようになります。それに対して室町時代中期、山内上杉から別れ太田道灌に支えられながら勢力を拡大したのが扇谷上杉です。この宗家である山内上杉と扇谷上杉とは何年にも渡り抗争を繰り返します。

さらに山内上杉家は鎌倉公方とも確執を持ちました。 関東は山内上杉、扇谷上杉、鎌倉公方の三者により対立します。そして上杉憲政は宗家である山内上杉家に生まれました。

誕生と関東享禄の内乱

大永3年(1523)、上杉憲政は関東管領であった上杉憲房の子として生まれます。ところが憲政3歳の時、父の憲政は亡くなってしまいました。憲政は幼少です、跡を継ぐほどの年齢にも達していません。そこで憲政が生まれる前に養子で迎えていた鎌倉公方足利高基の子、上杉憲寛が山内上杉の家督を継ぐ事になりました。ところが5年ほど経った頃。

享禄4年(1531)、鎌倉公方(この頃は古河公方と呼ばれています)の中で争いが起こります。その過程で上杉憲政は家臣達に擁立されて当主である上杉憲寛に反抗しました。結果、上杉憲政が山内上杉家の家督と関東管領の職を継ぐ事になりました。(関東享禄の内乱)

上杉憲政と周辺大名との確執

さて関東管領となった上杉憲政は、ここから強敵と対していく事になります。最初は関東の西に位置する甲斐の守護大名武田家です。天文10年(1541)、武田家当主武田信虎(武田信玄の父)は上野国(現在の群馬県)に隣接する信濃小県郡へ侵攻します。小県郡の領主海野棟綱は上杉憲政に救援を求め、憲政は出兵し和睦にこぎつけました。

次は関東の南に位置する伊豆国、相模国(現在の神奈川県)の後北条家です。北条家は度々武蔵国(現在の神奈川県横浜市付近)へ進出すると上杉家の軍を破っています。上杉憲政はこの北条氏康を大変危険視していました。その危機感が形として残っています、天文11年(1542)に上杉憲政は常陸国鹿島神宮に北条氏討滅を誓う願文を納めました、決意の祈願書です。そして北条家を排除する計画が進められます。

河越夜戦の敗北

上杉憲政の頭痛の種であった北条家。ところで北条家の当主であった北条氏康も又、四方に敵を抱えていました。

天文14年(1545)の事です。北条氏康は西の隣国、今川家と領土問題を抱えていました。今川家は7月、和平の提案を北条家に出しますが氏康はこれを拒否します。そこで今川家は上杉憲政と謀り北条家を東西から挟み撃ちにする事を画策します。7月下旬、今川家が北条家に対し侵攻します。これに驚いた北条氏康は西の今川家と対峙する為に軍を動かしました。

9月、今度は北条家の東、関東から上杉憲政が侵攻します。憲政はこの時、仇敵であった扇谷上杉の当主上杉朝定と関係を修復し、さらに北条寄りであった鎌倉公方(古河公方)足利晴氏を抱き込みました。鎌倉公方、関東管領の威光により周辺の大名、国人が上杉憲政たちの下に集まってきます、その数8万とも10万とも言われました。上杉憲政は北条家の川越城をこの大軍で包囲します。

驚いたのは北条氏康です、このままでは東西から侵攻されひとたまりもありません。氏康は甲斐国の武田家に仲介を依頼すると今川家に領土を割譲して講和に持ち込みました。北条家は西の今川家との問題を一端は解決します。天文14年(1545)の間に今川家から兵を引き上げ一端は小田原へと帰陣しました。

そして年が明けるとともに氏康は8千の兵と囲まれている川越城へ救援に向かいます。しかし川越城は数万の兵に囲まれています。また上杉憲政や足利晴氏も大軍であるという事に安心しきっていました。翌天文15年(1546)4月、北条氏康は講和を上杉憲政に求めました。話し合いは順調に進み、後は締結さえすれば講和が成立するという直前の夜。北条家は上杉の本陣に夜襲をかけます。この急な襲撃に上杉側は慌てました、河越城を包囲していた兵はちりぢりとなり逃げます。上杉憲政もまた命からがら北条家の兵から逃れ、拠点である上野国平井城へ逃げました。(川越夜戦)こうして関東管領である上杉憲政は急速に力を失っていきます。

関東からの脱出

北条氏康と河越夜戦で戦い敗れた上杉憲政。平井城に逼塞しましたが、更に追い打ちが掛かります。天文16年(1547)、信濃国佐久郡(現在の長野県北部)の争いに加担し武田信玄に大敗を喫します。これにより山内上杉家の家臣や関東の大名、国人が伊豆の北条氏に下るようになりました。関東管領である上杉憲政は追い込まれていきます。

天文21年(1552)、武蔵国(現在の神奈川県)にある御嶽城が落城すると憲政のいる平井城も北条軍の脅威にさらされます。これには憲政周辺の家臣も慌て北条家に降ってしまいました。憲政は平井城を退去せざるを得なくなります。同年3月平井城は落城、憲政はそのまま越後国の長尾景虎(上杉謙信)の許に逃れたのでした。

越後入国と関東侵攻

北条家に追われ関東を後にした上杉憲政は越後国へ入り長尾景虎(後の上杉謙信)の庇護を受けます。そこで憲政は長尾景虎を上杉家の養子としました。

永禄3年(1560)、上杉憲政の旧臣から要請を受け長尾景虎と上杉憲政は関東へ侵攻します。越後から上野国へ入ると最初に沼田城(現在の群馬県沼田市)へ侵攻します。この長尾家の威勢を見た関東各地の大名は長尾家の下に馳せ参じます。一方、長尾家に駆け付けず北条家に付いた大名は長尾景虎に滅ぼされていきました。

侵攻された北条氏康は小田原城で籠城し抵抗します。翌年、上杉憲政を擁した長尾景虎は小田原城を囲みました。この時、北条氏康は甲斐の武田家に要請し信濃(現在の長野県)から越後国へ侵攻する事で牽制するよう要請します。この武田家の侵攻に長尾景虎は危険を感じ攻城を中止します。

この攻城を中止した直後。永禄4年(1561)3月、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政は長尾景虎に関東管領と上杉の姓、同家の家系図、伝来の家宝を譲渡します。ここに長尾景虎は上杉姓を名乗り、後に上杉謙信となりました。上杉憲政は剃髪し光徹と号し隠居しました。

御館の乱とその最期

さて上杉謙信を養子とし関東管領の座も渡した上杉憲政。憲政がその後、歴史の上に登場するのは謙信が亡くなった後です。関東管領を譲り、隠居した約20年後。

天正6年(1578)上杉謙信が亡くなりました。謙信が亡くなると上杉家は二人の養子によって当主の座を巡って争うようになります。
1人は上杉謙信の姉の子で養子とした上杉景勝。もう1人は北条氏康の7男で謙信の養子となった上杉景虎。
この二人を担ぎ上げて上杉家は真二つに割れました。上杉憲政は上杉景虎の側に付きます。争いは当初拮抗していましたが、次第に上杉景勝の側に越後の国人衆や武田勝頼が付き景虎側は追い込まれていきます。上杉景虎は憲政の居城、御館に籠り抵抗しましたが窮地に立たされました。

そこで天正7年(1579)、憲政は景虎の嫡男道満丸と和睦の交渉の為に春日山城へ訪れました。ところが2人は景勝の陣所で討たれて(或いは囲まれて自刃したとも)亡くなります。享年57。上杉憲政は関東管領にありながら周囲の大名と抗争を続けた一生でした。墓は上杉景勝の転封により福島県米沢の照陽寺にあります。

平井城

平井城は現在の群馬県藤岡市にあった城です、平井城ないしは平井金山城と呼ばれていました。平地部分に本城があり、背後の山に詰め城である金山城のある広大な城でした。永世9年(1512)もしくは大永年間(1520年代)ころから関東管領であった山内上杉家の拠点となったと考えられています。上杉憲政は天文15年(1546)河越夜戦で北条家に敗れるとこの城に入り抵抗しました。

天文21年(1552)上杉憲政は北条家に攻められ越後に逃れます。そして長尾景虎(上杉謙信)に擁立され永禄3年(1560年)に再び戻ってきます。ところが景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城(或いは北条家が使わせないよう城郭を破壊したとも)となりました。
現在は群馬県県指定史跡として登録され、整備されています。

御館と春日山城

御館の乱の舞台となった御館。
そもそも越後国の国府は新潟県上越市直江津駅付近にあり、上杉館(至徳寺館)と呼ばれていました。上杉館が出来たのが平安末期から鎌倉にかけての頃です。この上杉館は海にも近い平地に建てられました、攻められれば抵抗のしようもありません。

そこで南北朝時代に建てられたのが山城の春日山城です。春日山城の名の由来は春日山に建てられ、この春日山は奈良の春日大社から分霊した春日神社がある事からでした。春日山城は越後国守護代長尾家の居城となります。この居城の城主となったのが長尾景虎(上杉謙信)でした。長尾景虎は上杉憲政が越後に逃れて来ると上杉館の近くに屋敷を建てます、この屋敷が御館でした。そして上杉謙信亡き後、山上の春日山城に籠る上杉景勝と平地の御館に籠る上杉景虎とに分かれて争われます、御館の乱です。
この乱で上杉憲政は亡くなり、御館も焼失しました。
御館のあった場所は現在、御館公園として市民の憩いの場所となり、御館のあった場所として石碑が残っています。

雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌舐めたか

雲洞庵(うんとうあん)と関興寺は、どちらも新潟県南魚沼市にあるお寺です。

雲洞庵は上杉家の祖、藤原北家の始まりである藤原房前の母が建てたお寺でした。室町時代中期、関東管領だった上杉憲実が曹洞宗寺院から僧を招き現在の場所に再興します。この寺は上杉景勝とその家臣だった直江兼続が幼少期に学んだ寺としても知られていました。

さてこの寺の赤門からの参道の下には法華経の一石一字が書かれた石が埋められており、踏みしめて参詣することで御利益があるとされてきました。そこから「雲洞庵の土踏んだか」という言葉が生まれます。
関興寺は臨済宗(禅宗)のお寺です。開創は応永17年(1410)、覚翁祖伝和尚によって建てられました。覚翁和尚は足利尊氏の従弟、初代関東管領となった上杉憲顕の子です。
関興寺は関東管領上杉家の菩提寺として上田長尾氏や鎌倉公方の帰依もあり栄えましたが、度々火事や戦災に遭いその都度復興してきました。

しかし御館の乱でも焼失してしまいます。慶長5年(1600)上杉景勝の米沢に移封により米沢で再建、しかし再度の火災により現在の南魚沼市に移りました。

さて関興寺には御館の乱の際の逸話が残っております。御館の乱が起こった際、住職は上杉氏寄進の大般若経600巻を味噌桶の中に埋め戦火から経文を守ったと言われています。これにより「関興寺の味噌舐めたか」(大般若経600巻の埋まっていた味噌)という言葉が生まれました。

これにより両寺の有難いお話として現在でも言い伝え「雲洞庵の土踏んだか、関興寺の味噌舐めたか」という言葉が残っています。

上杉憲政の年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1523年 大永3年 0歳 関東管領・上杉憲房の子として生まれる
1538年 天文7年 15歳 父の死去により山内上杉家の当主となり、関東管領を継ぐ
1540年代 天文年間 20代 北条氏康と関東支配を巡り争う
1552年 天文21年 29歳 北条氏に敗れて上野国平井城を失い、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼る
1561年 永禄4年 38歳 長尾景虎に山内上杉家の家督と関東管領職を譲る(景虎は上杉謙信を名乗る)
1579年 天正7年 56歳 死去
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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。