摺上原の戦い伊達政宗が蘆名氏を滅ぼし奥州の覇者に
摺上原の戦い
天正17年(1589年)6月5日、米沢(現山形県米沢市周辺)の伊達政宗が会津(福島県会津地方)の蘆名氏を攻め滅ぼした戦いが「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」です。蘆名氏は奥州の覇権を巡り、時に争い、時に味方として共闘した、伊達氏にとって深い因縁のある相手。摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼしたことで、政宗は計114万石の「奥州筆頭」に上り詰めます。今回はそんな政宗にとって大きなターニングポイントになった、摺上原の戦いについて分かりやすく解説していきます。
伊達政宗が台頭した「奥州」とは?
奥州は伊達氏・南部氏・葛西氏・安東氏・最上氏・畠山氏・蘆名氏・佐竹氏などの中小の戦国大名が乱立していた地域で、長らく覇権争を争い小競り合いが続いていました。中央では天正10年(1582年)に織田信長が明智光秀により本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が天下統一を進めている時も状況は変わりませんでした。
そんな情勢の中で、摺上原の戦いのキーパーソン・伊達政宗は天正12年(1584年)に父の伊達輝宗から家督を相続します。輝宗は41歳、政宗は18歳で、輝宗の年齢からすると家督を譲るのは早いように感じますが、家中の跡目争いを落ち着かせて伊達氏として結束を高めることが狙いだったようです。
家督をついだ政宗は奥州の覇権を握ろうと近隣勢力を次々と攻めていきます。天正13年(1585年)閏8月には伊達氏を裏切って蘆名氏についた大内定綱の小手森城を攻撃し、女子供含めて皆殺しにします(小手森城の撫で斬り)。直後に政宗が伯父の最上義光に送った書状によれば1000人以上を殺害したとありますが、他の史料では200人や800人となっており、死者の規模はよくわかっていません。が、「大人数を皆殺しにした」ことから、伊達政宗は周辺諸国から恐れられるようになります。
父の弔い合戦「人取橋の戦い」で政宗危機一髪!
伊達政宗は続いて二本松城(福島県二本松市)の畠山義継を攻撃。義継は降伏を申し入れて和睦の席に着きますが、その際なんと父・伊達輝宗を拉致!追撃した政宗は、輝宗の「わしを撃て!」の声で輝宗もろとも義継を銃撃し殺害したとのエピソードが伝わっています。この輝宗の最期は諸説あり、政宗は涙ながら父を殺したとも、政宗はその場所にはいなかったとも、輝宗と政宗は周辺諸国との外交をめぐって争っており、事件は政宗の謀略だったとも言われています。
その後政宗は輝宗の弔い合戦とばかりに畠山氏の二本松城を攻めます。畠山氏は周辺に救援を求め、これに呼応した政宗をよく思わない蘆名氏や常陸国(茨城県)の佐竹氏が畠山氏に援軍を出し、総勢約3万の兵が連合軍として集結。対する伊達軍は約7000で、このピンチの中「人取橋(福島県本宮市)の戦い」が起こります。政宗軍は大きな被害を受けるも、連合軍主力の佐竹氏が、本国に北条軍が攻め込んだとの急報により撤退したことで戦いは終わり、政宗は難を逃れました。ちなみにこの佐竹氏の撤退は政宗の裏工作によるものとの説もあります。
政宗は籠城する二本松城を再度攻め、畠山氏の家臣を寝返らせるなどの内応工作を続けます。結果、天正14年(1586年)7月に両者は相馬氏の口添えにより和睦し、二本松城は無血開城により政宗のものになりました。
人取橋の戦い後も伊達政宗は周辺勢力を攻撃。天正16年(1588年)2月には大崎地方(宮城県大崎市周辺)を治める大崎氏の内紛に乗じて大崎義隆を攻めますが(大崎合戦)、こちらは最上氏の介入もあり大敗して失敗しました。最上氏とは義光の妹で政宗の母でもある義姫が介入したことで和解が成立しています。
このように奥州の戦は徹底的につぶし合うというよりも、戦いが膠着すると周辺の武将が仲介に乗り出し、双方滅亡することなく和睦するケースがほとんど。これは政宗の祖父にあたる伊達稙宗が婚姻や養子縁組を実施して勢力を拡大する外交政策をとっていたことが原因です。敵も味方も傍観している周りの武将も皆親戚状態という、家系図にすると複雑すぎてよくわからない、それが当時の奥州でした。
「郡山合戦」で佐竹・蘆名氏と激突
大崎合戦の政宗の敗北を知った蘆名義弘はすぐさま「政宗をつぶす好機!」と戦を仕掛けます(郡山合戦)。このとき伊達氏に帰参していた大内定綱がまたもや蘆名氏につきますが、政宗の片腕・伊達成実が調略を仕掛け、定綱を再び伊達軍に引き入れたことで蘆名軍を追い払うことに成功します。続く天正16年5月には蘆名・相馬連合軍が伊達氏を攻めますが、こちらは数度の小競り合いで終了。6月には佐竹・蘆名連合軍が伊達氏を攻めました。
佐竹氏と蘆名氏の連合ですが、こちらは蘆名氏の跡継ぎ問題と大きく関係があります。蘆名氏は、会津地方を中心に400年の栄華を誇る名家で、名将・蘆名盛氏の頃に最盛期を迎えます。ところが盛氏以降は直系の跡継ぎが次々と死亡して家系断絶の危機に。このため跡継ぎを血縁関係のある他家から迎えることにします。
この時の候補が伊達政宗の弟、伊達小次郎と佐竹義重の次男で当時は白川氏の家督を継いでいた白河義広。後継争いは佐竹派が勝利し、義広は蘆名義広として蘆名氏当主になりました。つまり、連合軍のトップ・佐竹義重と蘆名義広は親子関係にあったわけです。
郡山合戦時の兵力差は佐竹・蘆名連合軍4000対伊達軍600。圧倒的に伊達軍が不利に思えますが、伊達軍は伊達成実・片倉景綱らの活躍もあり、決死の守りで何とかしのぎます。7月中旬には岩城常隆など周辺の武将達の仲介により和議が成立しました。
なぜ佐竹・蘆名連合軍は有利な中での和議を認めたのか。一説によれば、伊達輝宗の時代から伊達家と同盟関係にある北条氏が佐竹を攻めようとしたことが一因だったようです。また、天正15年(1587年)12月には関白・豊臣秀吉により大名同士の私闘を禁止する「惣無事令」が関東・奥羽地方に向けて出されており、佐竹氏はこの圧力を受けたとの説もあります。とはいえ、最近の研究では、惣無事令の出された時期や、実は拘束力はそれほどなかったなど、性質や効力に関してさまざまな説が出されているので、何とも言えないですが…。
摺上原の戦い①相馬氏攻めの裏側で猪苗代氏を調略
周辺勢力との戦続きの伊達政宗。天正17年(1589年)4月には相馬義胤と岩城常隆が、政宗の妻・愛姫の実家・田村氏の領土侵攻を開始したことで、これに対抗すべく米沢城(山形県米沢市)を出発。4月23日に大森城(福島県福島市)に入ります。そして戦を、と思ったところで大内定綱の弟で蘆名方の片平親綱が伊達氏に内通。政宗はこれを蘆名攻めの好機と考えました。
そこで政宗は大森城を出陣して本宮城(福島県本宮市)に入り、蘆名方の安子島城や高玉城(ともに福島県郡山市熱海町)を攻め落として蘆名氏をけん制しつつ大森城に戻りました。その後、そのまま蘆名氏を攻めるのではなく、相馬氏の駒ヶ嶺城や蓑首城(ともに福島県相馬郡新地町)を落として相馬氏をけん制。相馬義胤が相馬領に戻ってくれさえすれば、岩城常隆単独で田村領を攻めることは難しいですから、田村領の問題は片付くと考えたのでしょうか、何はともあれ相馬義胤は田村領から兵を引きました。
一方の蘆名義広は政宗の動きを察して佐竹氏に助けを求めます。これを受けて義広の兄・佐竹義宣は援軍を出し、本宮城より南にある須賀川(福島県須賀川市)に布陣して蘆名軍と合流。北上して安子ヶ島城と高玉城の奪還をめざします。なお、父の佐竹義重は白河にとどまっています。
ところがこのタイミングで政宗方の調略が大成功し、蘆名方だった猪苗代城(福島県耶麻郡猪苗代町)の猪苗代盛国が伊達側に寝返るという大事件が起こります。もともと盛国は蘆名氏の重臣。嫡男の盛胤に家督を譲って隠居した後、後妻の息子で溺愛する宗国のために盛胤を追い落とそうと考え、盛胤が黒川城に出かけている隙に猪苗代城を強奪。家臣たちも盛国に従っていたため盛胤は城を奪還できず、猪苗代城は盛国のものになりました。
実は盛国は以前、伊達方に寝返ろうとしていましたが、盛胤の反対があり実現していませんでした。今回は反対する息子はいませんので、盛国は寝返ります。寝返りの理由としては、猪苗代氏が蘆名氏内で冷遇されていたからと言われています。盛国は跡継ぎ問題の時は伊達派の主力でしたから、佐竹派に煙たがられたのかもしれません。
摺上原の戦い②猪苗代城が伊達方に!?焦る蘆名氏
猪苗代城は蘆名氏の本拠地・黒川城からは直線距離にして約20kmで、途中は山など移動を阻害するものはなく、軍勢はすぐに黒川城に到達できます。蘆名氏にとっては大ピンチ!蘆名義広はすぐさま黒川城に引き返しました。
一方の佐竹氏は家臣が謀反を起こしており本国がごたごたしている状態でした。さらに背後には伊達政宗と同盟のある北条氏が控えているわけですから、本格的に伊達氏を攻めると挟み撃ちにあう可能性が…。このため佐竹義宣が同行しないまま、蘆名義広は6月4日に黒川城に戻りました。
一方伊達政宗はというと、相馬から急いで引き上げて本宮城を経由し猪苗代城に急行。実はこのとき暴風雨が吹き荒れていましたが、チャンスを逃さないとばかりに止める部下を振り切り必死に猪苗代城に向かい、6月4日に城に入りました。加えて、米沢城から別動隊を米沢街道沿いに進ませ、北から黒川城を攻める作戦も展開しています。
摺上原の戦い③蘆名氏1万6000対伊達氏2万3000
6月5日、蘆名軍は摺上原の高森山に着陣します。総勢1万6000で、先鋒は猪苗代盛胤と富田将監(隆実)、二陣は「蘆名の執権」とも呼ばれる重臣で佐竹派の金上盛備や佐瀬河内守。三陣以降で後ろに控えていたのは佐竹氏、石川氏、二階堂氏の援軍に富田将監の父・富田氏実や平田周防守でした。ざっくり見ると後継者争いの時の佐竹派が前方、伊達派が後方という布陣です。
実は伊達政宗は猪苗代盛国以外にも調略を仕掛けており、摺上原の戦い前後に佐瀬河内守や富田氏実は「戦に参加することなく傍観する」と誓っていたのだとか(※戦の最中傍観説や戦後降伏説など諸説あり)。そもそも伊達派に属していた武将たちは戦に消極的でした。加えて他武将から派遣されてきた兵士たちもおり、蘆名軍は軍内部の統制が取りにくい。一枚岩とは言い難い状況でした。
一方の伊達軍は総勢2万3000。先鋒は蘆名氏を裏切った猪苗代盛国が務め、二陣・三陣が片倉景綱と伊達成実の伊達の双璧コンビ、四陣は鬼庭綱元や白石宗実など、第五陣が伊達政宗率いる本隊でした。こちらは妥当蘆名氏に燃える一軍で結束力もばっちりです。ちなみにこちらの布陣、両陣営とも諸説ありです。
両陣営とも魚鱗の陣を展開し、摺上原を挟んで対峙します。そして伊達軍先方の猪苗代盛国が富田将監を攻撃。いよいよ摺上原の戦いが始まります。
摺上原の戦い④蘆名氏を破って勝利
伊達軍有利に見えた摺上原の戦いでしたが、序盤は西から東に向かって吹く強風が起こした砂塵の影響で、伊達軍は視界が遮られて苦戦。しかも富田将監の猛攻はかなりのもので、次々と伊達軍を破っていきます。ここで蘆名軍が総力戦で伊達軍を圧倒すればよいのですが、蘆名軍の後方にいた武将たちは傍観します。
そうこうしているうちに風向きが逆になり、伊達軍は追い風を受けて有利に。伊達成実と白石宗実の2隊が磐梯山麓を迂回して蘆名義広の本陣を側面攻撃したため、「伊達軍の援軍が来た!」と蘆名軍の陣形は乱れて崩れます。さらに蘆名軍の前方では後方が動かないこともあり「裏切りが発生したのでは」との憶測も。
そのうち傍観していた勢力が撤退したり降伏したりと独断で行動し始めて蘆名軍は瓦解し、伊達軍の勝利が決まります。とはいえ、富田将監や金上盛備のように最後まで諦めず戦って討ち死にした人物もいましたが…。蘆名軍は日橋川を渡って黒川城に撤退しようとしますが、猪苗代盛国が事前に橋を落としておいたことでなかなか渡れず多くの溺死者を出してしまいました。
蘆名義広は30騎程度に守られつつも何とか黒川城に帰りつきますが、蘆名氏の重臣たちに「すぐに佐竹氏に帰らないと首を取る」と脅されたことなどから佐竹方の白河城に脱出。その後実家の常陸国へと逃亡します。
こうして摺上原の戦いは伊達氏の勝利に終わりました。政宗は6月11日に黒川城に無血入場。多くの蘆名方の家臣が伊達氏に下ることになりました。これにより政宗はわずか23歳にして奥羽地方の半分を占める114万石の支配者にまでのし上がったのでした。
「摺上原の戦い」と豊臣秀吉
伊達氏の勝利で決着がついた摺上原の戦いでしたが、負けた蘆名氏は黙っていませんでした。摺上原の戦いは豊臣秀吉が出した「惣無事令」に反するものだと主張したのです。これに対し秀吉は天正18年(1590年)7月から8月に「奥州仕置」を実施して奥州の領土を分配した際、伊達政宗の会津4郡などを没収して72万石に減封。しかし、会津は蘆名氏ではなく蒲生氏郷に与えられてしまうのでした。
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。