陶晴賢(2/2)「西国無双の侍大将」と呼ばれた男

陶晴賢

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人物記
名前
陶晴賢(1521年〜1555年)
出生地
山口県
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天文22年(1553)春、当主となった大内晴英は室町幕府将軍足利義輝から偏諱を受けて義長(よしなが)と改めます。更に歴代の大内家当主に習い、従五位下左京大夫にも叙任されます。

しかし当初から、当主の大内義長は陶晴賢の傀儡と見られていました。そこで晴賢は大内義長を推戴する姿勢を内外に示す為に、大内義長の元の名、大友晴英から晴の偏倚を受けました(厳密にはここから陶晴賢という名を使うようになります)。これで陶晴賢は大内義長に臣従していると内外に示しました。

しかし陶晴賢の傀儡という見方は大内家傘下の大名国人、例えば安芸国の毛利元就や周防国の吉見家などから払拭されません。そこで陶晴賢は大内家内部を引き締める為に、軍事強化と統制を強めます。これが中国地方を中心とした大内家傘下の大名国人の反発を招きました。

大内傘下国人の反乱

天文23年(1554)、石見国(現在の島根県西部)の国人吉見正頼が陶晴賢に対して挙兵します。吉見正頼の妻は自害した大内義隆の姉であり、正頼が吉見家の家督を継ぐに際、大内義隆に世話になっていました。その事を知っている陶晴賢は、大内義隆に反乱を起こした際に吉見正頼へ軍勢を差し向け牽制しています。その為、陶晴賢に対して一貫して反発の姿勢を取っていた為の挙兵でした。

陶晴賢は直ちに石見国へ兵を向けます(三本松城の戦い)。動員を受けた大内方の兵が続々と石見に集結している、その時です。
石見国に続々と大内方が集結している隙をついて、安芸国において毛利元就が挙兵しました。安芸国にある大内形の城は毛利家により次々と落されます。

陶晴賢は吉見家を相手に戦っている為に動けません。苦肉の策として家臣の宮川房長を大将とした兵を安芸国へ送り込みました。しかし宮川房長は毛利家の奇襲を受けて敗れます(折敷畑の戦い)。毛利元就は安芸国を支配下に置きました。陶晴賢は毛利元就に対処する為、吉見正頼と和睦。周防国へ引き上げました。

厳島の戦いと晴賢の最期

毛利元就に安芸国を奪われた陶晴賢。
天文24年(1555)9月、晴賢は毛利家討伐を行います。当初、宿敵であった出雲国の尼子家も巻き込み二方向から毛利家を討つつもりでいましたが、尼子家も内部粛清(新宮党の粛正)があり実現しませんでした。
逆に毛利元就は大内家の内部に手を伸ばし、裏切りを促します。或いは裏切りを約束した者の手紙をわざと陶晴賢に見せる事で処分させるなど、陶晴賢に疑心暗鬼を抱かせました。これは陶晴賢の疑り深い性格を利用し、大内家家中を混乱に陥れる毛利元就の策略でした。

そして10月。陶晴賢は安芸国宮島に侵攻、島にあった宮尾城を攻城します。陶晴賢についた弘中隆包は、毛利家が大内家の軍勢を島の隘路に誘い出し殲滅しようとしている、と主張しましたが晴賢は聞き入れません。
そして宮尾城の攻城を行っている最中。背後から毛利家に襲われ、宮尾城からも兵が討って出てきた為に挟撃された陶晴賢は敗れます。海から逃れようとしましたが、毛利家に付いた村上水軍に退路を断たれ自害しました(厳島の戦い)、享年35。辞世は「何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に」。

陶晴賢その後

弘治元年(1555)、陶晴賢は厳島の戦いで敗死します。
居城の富田若山城は攻め落とされ、晴賢の子供達である陶長房、貞明は自害しました。更に長房の長男鶴寿丸も混乱の内に殉死し、陶家の嫡流は途絶えました。庶流は中国地方の覇者となった毛利家に仕え、江戸時代を迎えます。

陶晴賢に擁立された大内義長は、もともと大友氏から来たことも有り求心力がありませんでした。大内家家臣団を束ねていた陶晴賢が亡くなったことも有り大内家は崩壊します。義長は兄である大友宗麟に助けを求めましたが、既に毛利元就と密約を結んでおり、応じませんでした。

そして弘治3年(1557)3月、毛利元就は周防国へ攻め込み占領します。大内義長は自刃に追い込まれ亡くなりました。ここに室町時代中期まで西国最大の大名であった大内家は滅亡しました。中国地方は毛利氏が治める事になり、中国地方の覇者として戦国時代の終焉を迎えます。

陶氏の居城、若山城

富田若山城(わかやまじょう)
若山城は周防国都濃郡富田(現在の山口県周南市)にあった山城です。
正平7年(1352)ころ、陶氏の2代目であった陶弘政が吉敷郡陶村から都濃郡富田保に移り館(平城)を築きました。
応仁の乱が起こると大内家の内部も東軍西軍に分かれ内乱の状況に陥ります。陶氏7代目であった陶弘護は防備の為に若山城を築いたとされます。
天文20年(1551)、陶晴賢は若山城で大内義隆に対して挙兵します。ところが毛利元就と対立し、晴賢は厳島の戦いで自害します。後に周防国が毛利家に陥ると、若山城も廃城となりました。
昭和62年(1987)に若山城は山口県の指定文化財となりました。現在では若山城跡として途中まで車で登ることができます。更に町や有志により城跡や登山道の整備、桜が植樹されるなど地域の花見名所として親しまれる場所となっています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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