三好元長(2/2)細川家の内乱に終止符を打った武将

三好元長

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人物記
名前
三好元長(1501年〜1532年)
出生地
徳島県
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勝瑞城

勝瑞城

享禄4年(1531)、驚いた細川晴元は阿波国に帰っていた三好元長に復帰するよう頼みました。かつて争っていた細川高国に祖父三好之長や父三好長秀を討たれた事、主からのたっての頼みをされた事で、再び三好元長は畿内へと戻ります。阿波国から参戦した三好元長は8000の兵を率い、現在の大阪市住吉区の辺りに布陣。細川高国はその北側、大阪市福島区の辺りに布陣し一進一退を繰り返しました(中嶋の戦い)。

戦いは膠着しましたが、細川高国の援軍としてやって来たはずの赤松政祐が高国を裏切り三好元長の側に付いた為、細川高国側は総崩れとなります。三好元長は細川高国を自害に追い込みました(大物崩れ)。

三好元長と細川晴元の対立

応仁の乱の東軍大将であった細川勝元。その細川勝元の子で「半将軍」と呼ばれた細川政元。細川政元の養子である細川澄元と細川高国。
この二人の養子が20年以上争った両細川の乱は、三好元長が細川高国を自害に追い込んだ事で一端の終りを見ました。

細川澄元の子である細川晴元は足利義維を擁立し堺公方という政権を確立していました。その為、細川晴元が12代将軍である足利義晴を追放し自ら擁立している足利義維に将軍に就かせれば平穏なうちに終わるはずでした。
ところが細川晴元は足利義維を将軍に就かせず、12代将軍足利義晴と和睦を行います。
細川晴元は擁立していた足利義維を棄て、敵対していた将軍を新たに擁立する事にしました。

この細川晴元が足利義維を捨てた行為に対して晴元内部からも批難の声が上がり、特に三好元長は大いに反対しました。この元長の反対で、主である細川晴元と三好元長は反目してしまいました。また細川晴元の側近くに仕えていた家臣たちが、主に立てつく三好元長の態度を非難し溝は深まります。更に功績の大きかった三好元長に対し、細川晴元も警戒するようになります。その様な中、細川晴元の側近を三好元長が攻める事件も起こり細川晴元の怒りに火を付けました。

天文法華の乱と三好元長の最期

足利義維を擁立したにも関わらず、12代将軍足利義晴と和解した細川晴元。その細川晴元に仕えていたが、事あるごとに諫言してきた三好元長。細川晴元は度々軍功を上げ反発してきた三好元長を疎ましく思いました。ところが細川晴元は自力で三好元長を排除する力を持っていません。そこで晴元は親しい僧に相談を持ち掛けます。
相談を受けた僧が本願寺8世蓮如の6男蓮淳でした。蓮淳は本願寺10世証如(11世顕如の父)の祖父に当たり若い証如を後見していました。また細川晴元を支持してきた事から晴元とも親しい仲でした。
細川晴元は三好元長の排斥を蓮淳に相談し、蓮淳は承諾します。

蓮淳には三好元長を除くだけの理由がありました。三好元長は法華宗を信仰し度々本願寺に弾圧を加えてきました。この事から蓮淳は「法華宗に帰依し庇護している三好元長を討伐する」という名目を立て一揆を起こします。蓮淳の指導の下、畿内の門徒や国人衆が集まり10万にも膨れ上がったと言います。

この大規模な一揆の前に三好元長はなす術も無く、堺にまで逃げ帰りました。そして堺公方であった足利義維や自らの子供たちを阿波国へと逃がすと自害して果てました、享年32。

江戸時代に刊行された堺に関する初めての地書『堺鏡』によれば三好元長は切腹の際、余りの無念さに自らの体から出てきた臓物を天井に投げつける壮絶な最期だったと書かれています。20年以上も続いた両細川の乱を沈めた三好元長でしたが、こうして一生を終える事になりました。

そして三好長慶の時代へ

主君である細川晴元に疎んじられ、一揆に討たれた三好元長。
三好元長を追い込み自害させた事で細川晴元の目的は達成されました。ところが一揆自体は収まりませんでした。

あくまで三好元長を自害に追い込むというのは細川晴元の目的、一揆自体は「法華宗に帰依し庇護している三好元長を討つ」という名目で起きていました。本願寺を主体とする一揆も目的を達していたはずです。ところが元長を討った後に今度は「他宗派も討伐する」と矛先を変えました。これに驚いたのが山科本願寺住職であった証如やそれを後見していた蓮淳でした。一揆の指導者たちは制止しましたが、その制止を無視し一揆は大和国へ侵攻します。

一揆は奈良にある寺々や商家の建物を破壊し荒れ狂いました。この時、奈良の猿沢池の鯉や春日大社の鹿も食べつくされる等たいへんな騒ぎとなったと言われています。

この事態に細川晴元は驚きます。室町幕府管領である細川晴元はこの一揆の侵攻に驚き、本願寺側と決別します。手切れとされた本願寺側も細川晴元と対決する姿勢を見せました。細川晴元は法華宗の信者や周辺の大名の加勢を受けて、山科にあった山科本願寺を焼き討ちにしました。本願寺は摂津国にある大坂本願寺(石山本願寺)に移動、ここから戦国期の間、大坂本願寺を拠点とするようになりました。

さて三好元長は自害する直前に自らの子供達を阿波国へと逃しました。この子供たちが三好長慶、三好実休、十河一存などでした。そして三好元長が討たれた翌年、子の三好長慶が家臣に守られながら畿内へと戻ってきます。そして長慶の名の下で三好家は、細川晴元と一揆勢との和睦を斡旋しました。

ここから細川晴元の体制が始まります。三好長慶も細川晴元に仕えますがその後、細川晴元や阿波国細川讃州家を追放していまいました。三好元長の子、13代将軍足利義輝を擁した三好長慶の政権が始まっていきます。

応仁の乱で幕府の権威が失墜し、その後に半将軍と呼ばれた細川政元による治世で京周辺は安定したかに見えました。しかし両細川の乱を三好元長が終止符を打ち、この後に三好家の時代に入ります。室町時代末期、戦国と呼ばれた時代の前半はこうして過ぎていきました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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