山名宗全応仁の乱の西軍大将
山名宗全
室町時代の中期、俗に戦国時代と呼ばれる前の時代のお話です。室町幕府を支える四職の一つ、山名家に一人の傑物が誕生しました。山名宗全です。宗全は3男に生まれましたが、家督を継ぐと勢力を伸ばしていきました。特に幕府が不安定な時期に入った時期で、絶え間ない権力争いの中で足場を固めていきます。そして晩年、諸国の大名を巻き込んだ応仁の乱が起こると西軍の大将となりました。
山名氏
山名氏の祖先は鎌倉時代、早くから源頼朝に従った御家人だったので優遇されていました。
南北朝時代になると、縁戚であった足利尊氏に従い北朝側に立って山陰地方で戦います。この功績が評価され、山名氏は室町幕府から各地の守護(国主)に任じられます。伯耆国(鳥取県西部)、丹後国(京都府北西部)、紀伊国(和歌山県)、因幡国(鳥取県東部)、丹波国(兵庫県北中部)、山城国(京都府)、和泉国(大阪府南部)、美作国(岡山県中部)、但馬国(兵庫県中部)、備後国(広島県東部)、播磨国(兵庫県西部)を領し一族がその経営に当りました。全国66ヶ国のうち11ヶ国を領した事から「六分一殿」とも呼ばれています。
また足利義満より侍所長官(武士の統率や裁判の裁定を行う長)を出す四職の一家に定められ、実と名を兼ね備えた家でした。
4代将軍足利義持と山名宗全の誕生
山名宗全は応永11年(1404)、山名氏の宗家当主であった山名時熙の3男として生まれます。名前は4代将軍足利義持の一字を貰い、持豊と名乗っていましたが晩年に出家して宗全と名乗ります(この話を通して、宗全で統一します)。
宗全が生まれた室町時代は、征夷大将軍に4代将軍足利義持が就いていた時代でした。義持は3代将軍足利義満の長男として生まれ父の義満から将軍職を禅譲されました。義持の統治した時代は、室町時代を通しても比較的安定した時代でもありました。
宗全は応永28年(1421)12月、備後国(広島県東部)の国人衆を因幡守護山名熙高と共に討伐する事で初陣を果たします。
5代将軍足利義量と山名宗全の家督相続
将軍であった足利義持は応永30年(1423)に将軍職を子の義量に譲ります。義量は父の義持に後見される形で将軍となりました、5代将軍足利義量です。ところが応永32年(1425)に在位2年ほどで義量は亡くなります。
父の義持は義量が亡くなると実質的に幕府を運営しましたが、その義持も応永35年(1428)に亡くなります。この亡くなった時、義持にも先に亡くなった子の義量にも子がいませんでした。つまり3代将軍足利義満の長男、足利義持の家系はここで途絶えます。更に義持は後継者を決める事を拒否したまま亡くなりました。
幕府を運営していた管領畠山氏を始め幕府重臣は協議の結果、3代将軍足利義満の子(亡くなった4代将軍足利義持の弟達)からクジ引きで次の将軍を選ぶことを決めました。
こうして将軍となったのが3代将軍足利義満の5男、足利義教です。義教は6代将軍足利義教となりました。
さてこの間の山名宗全です。山名家は応永27年(1420)に長男の山名満時が亡くなります。これで山名家の相続者は次男の山名持熙、三男の山名宗全となりました。
応永35年(1428)には父の山名時熙が病に倒れ宗全を後継者にしようと考えます。ところが6代将軍となった足利義教は側近を務めていた次男の山名持熙を後継者にするよう命じます。
父の山名時熙は病から回復し一度は後継問題を先送りしましたが、永享3年(1431)に次男の山名持熙は将軍足利義教から勘気をこうむり退けられます。こうして山名宗全は山名家宗家の家督を継承しました。次男の山名持熙はこれを不服として宗全に対し挙兵しましたが、宗全に攻められ討ち取られます。
永享5年(1433)、山名宗全は父に代わって山名宗家の当主となり、但馬、備後、安芸、伊賀の守護大名、更に永享12年(1440)には幕府侍所頭人兼山城守護となりました。山名宗全は30代半ばで、実質も形式も兼ね備える十分な実力者となったのです。
6代将軍足利義教と嘉吉の乱
さてクジで選ばれた(或いは文字通り勝ち取ったとも言えますが)6代将軍足利義教。
「籤引き(くじびき)将軍」とも呼ばれた義教でしたが、将軍に権力が集中するような政治体制を望みます。兄で4代将軍であった義持、甥で義持の子であった5代将軍の義量、この2代に渡って低下した将軍の権威を回復しようと試みます。
それまで将軍の家臣が行っていた裁判を直接とり行ったり、各地の守護(国主)の後継争いに介入したりと精力的に活動していきます。ところが行き過ぎた権力集中への望みは恐怖政治となり「万人恐怖」と呼ばれるような時代になりました。
そんな中事件は起こります。永享9年(1437)頃から播磨の守護大名、赤松満祐が将軍に討たれるという噂が流れました。また永享12年(1440)には足利義教が重用している赤松家分家の赤松貞村に満祐の弟の所領を没収して与えました。
そして嘉吉元年(1441)6月。慰労という名目で赤松満祐は将軍足利義教に「将軍御成(将軍が家臣の屋形に訪れ祝宴を開く政治儀式)」を要請します。足利義教はこれを受諾し、側近の大名や公家を連れ赤松邸へ訪れます。この時、山名宗全も同行していました。屋敷では宴席が催され、猿楽を鑑賞していた時の事です。屋敷の扉が全て閉ざされ、赤松満祐は将軍を殺害しました。また同行していた大名、公家も殺傷され山名家もその場で殺された者もいましたが、宗全は屋敷を抜け出す事に成功しました。「嘉吉の乱」です。
赤松満祐ら赤松氏は幕府の討伐が来ると考え、予め自害するつもりでいました。ところがこれほどの事件が起こった事で都は静まり返り、状況を見極めようとします。そこで夜になり館に火を付けると、赤松満祐は槍先に足利義教の首を掲げ領国の播磨国へと退去していきました。
7代将軍足利義勝と山名宗全の赤松氏鎮圧
嘉吉の乱で6代将軍足利義教は亡くなりました。乱を起こした赤松家は領国の播磨国へと戻ります。幕府では次期将軍の話し合いが持たれました。そこで次期将軍に決まったのが足利義教の息子、8歳の義勝です。正式には翌年に9歳で就任した義勝は7代将軍足利義勝となりました。又、この就任後に管領となり7代義勝を補佐したのが畠山持国でした。
さて嘉吉の乱が起こった直後の山名宗全です。宗全は領国の但馬国へと戻ると山名一族を従えて赤松満祐の播磨国へと侵攻します。侵攻は成功し宗全は播磨一帯を支配下に置くことが出来ました、と同時にここから赤松氏は播磨国奪還の運動を行っていきます。
嘉吉3年(1443)の事です。嘉吉の乱で殺された一族の山名熙貴の娘を養女に迎え、周防や長門などの守護大名であった大内教弘に嫁がせます。この夫婦の間に出来た子が応仁の乱で宗全と組み、西軍主力となる大内政弘です。
文安4年(1447)には同じく山名熙貴の娘を養女とした上で幕府管領の細川勝元に嫁がせます。この細川勝元が応仁の乱で宗全と敵対する東軍大将となります。つまり西軍の大将山名宗全は舅(義理の父)、東軍大将細川勝元は婿(義理の息子)でした。ただし宗全と勝元は応仁の乱が始まるまで手を結んで政争を戦い抜きます。
こうして7代将軍足利義勝が就任した直後には、山名宗全は姻戚関係を使って地盤を築いていきます。
8代将軍足利義政と文正の政変
嘉吉の乱で亡くなった6代将軍足利義教の子、7代将軍足利義勝。しかし足利義勝は就任9ヶ月の嘉吉3年(1443)に夭折します。管領であった畠山持国は運動し周囲と協議した結果、6代将軍足利義教の子、7代将軍足利義勝の弟の義政を将軍に据えます。8代将軍足利義政は8歳で将軍になる事が決まりました。
管領であった畠山持国は足利義政を将軍に据える事に成功します。畠山持国はここから自らの勢力を拡大していこうと行動に出ます。6代将軍であった足利義教(7代義勝、8代義政の父)は守護大名(国主)の後継者争いに積極的に介入しました。すると国主の座を奪った側と追われた側とが生まれます。畠山持国は追われた側を国主返り咲きに助けます。反対に細川勝元は国主にいた側を助けます。こうして畠山持国と細川勝元とが政争を行う間、山名宗全は婿の細川勝元に付きました。
ところが畠山持国の畠山家でもお家騒動が持ち上がります。持国には正式な実子がいませんでした。そこで弟の子を跡継ぎに据えます。しかし持国には庶子(認知していなかった子)がいました。その為、持国は自らの子だったこの庶子を招き弟の子を廃嫡した上で畠山家の跡継ぎに据えます。この弟の子と庶子とはいえ持国の子とに分かれて家臣が割れます。細川勝元と山名宗全はこの争いを煽り畠山家は没落していきました。
さて8代将軍足利義政です。最初は管領畠山持国に支えられ将軍となりましたが、次第に畠山家は没落していきます。その間に幼くして将軍に就任した足利義政も成長していきました。成長するとより実権を持った将軍になりたいと志します。その義政を助けたのが政所執事であった伊勢貞親です。貞親は足利義政を助けていましたが、次第に実権を握っていきます。また管領職に就ける3管領家の一つ斯波家で跡継ぎ問題が起こると伊勢貞親は介入し細川勝元と敵対します。
さらに足利義政には実子がいませんでした。そこで義政は弟(6代将軍足利義教の子)義視を次期将軍に立てます。ところが義政に子が出来ました、後の足利義尚です。義尚は伊勢貞親を養育係として育ちました。伊勢貞親は足利義政の弟義視を廃嫡し義尚を将軍に就けようと画策します。足利義視は伊勢貞親と敵対していた細川勝元に助けを求めました。そして伊勢貞親が足利義政に義視を討つよう讒言した事が露見し、伊勢貞親は京を追われました。(文正の政変)山名宗全はこの間、細川勝元の側に立ち助けています。
応仁の乱と宗全の死
さて畠山持国や伊勢貞親と争っている間、山名宗全は8代将軍足利義政や幕府の命令に度々背いていました。そこで足利義政は山名宗全の追討を命令。これを細川勝元が取りなして中止にさせるなど、山名宗全と細川勝元との関係は良好でした。
反面、山名宗全は嫡男教豊に家督を譲りましたが、次男の是豊が反発。細川勝元は次男の是豊を引き立て山名宗全と細川勝元との関係が拗れていきます。
さらに管領だった畠山持国の跡目争いは続いており、細川勝元と山名宗全は争っていたそれぞれの陣営を支持します。同じように管領に成ることが出来た三管領の一家、斯波氏も後継争いが起こり勝元と宗全は争っているそれぞれの陣営を支持しました。
すると次第に大内氏や一色氏など「反細川勢力」と呼ぶ大名が山名宗全を担ぎ上げ盟主的な存在(大名頭)になります。そして足利将軍家です。8代将軍足利義政には跡継ぎがいませんでした。そこで父であり6代将軍であった足利義教の子、義政の弟義視を次期将軍に選びます。ところがこの後に義政の子が出来ました、後の9代将軍足利義尚です。義尚の母であった日野富子は産んだ義尚を将軍に据えるべく山名宗全に接近しました。
こうして足利将軍家や多くの大名が跡目争いを契機に細川勝元派、山名宗全派に分かれ散発的な争いを起こします。そして応仁元年(1467)、上京の戦いを契機に応仁の乱が始まります。山名宗全の居城であった出石此隅山城には、各地から集結した西軍が集まります。宗全はこの2万6千騎とも呼ばれた兵を率いて京都へ進軍します。
山名宗全が率いた西軍は、上京した当初こそ劣勢でしたが周防から進軍してきた大内政弘(娘婿大内教弘の子)の助けを得ると一進一退の攻防を繰り広げます。
京において戦いが長引くと山名宗全も後悔し始めました。度々和睦を模索しましたが、戦い途中の和睦は成立しませんでした。そして文明5年(1473年)山名宗全は京において病死しました、享年70。
宗全の亡くなった2ヵ月後、細川勝元も亡くなりました。翌年には宗全と勝元の子供たちが和睦を行い成立しましたが、それぞれの陣営は散発的な戦いを続け最終的な終結は文明9年(1477)となりました。この応仁の乱が起こる事で、日本全国に戦いの火種がまかれ戦国時代の下地となります。山名宗全は顔が赤く好戦的、横暴な性格であったので「赤入道」と呼ばれていました。反面、多くの大名が宗全を支持したように人望があり室町時代中期の波乱な時代を駆け抜けました。
山名宗全と竹田城
竹田城は、現在の兵庫県朝来市和田山町にあった城です。城の形が、虎が伏せているように見えた事から虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)とも呼ばれていました。
竹田城の歴史は判然として分かりませんが、古い伝承をまとめた『和田上道氏日記』によると、嘉吉元年(1443)に丹波守護であった山名宗全が家臣の太田垣光景に命じて建てさせた城と言われています。その後、太田垣氏により統治が続きましたが、天正8年(1580)に羽柴秀吉の但馬攻めで竹田城は落城し、太田垣氏も追われたと言われます。
豊臣政権下では赤松広秀が入城し、赤松氏の時代に現在の総石垣造りとなり現在にまで残る石垣の遺構が出来ました。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが起こると赤松氏は西軍に与した事から敗退し自刃しました。この赤松氏の最後と共に竹田城も廃城となります。
現在、竹田城は国の史跡として登録され、円山川の川霧に城が包まれる事から「天空の城」や「日本のマチュピチュ」と呼ばれ親しまれています。
山名氏の此隅山城(このすみやまじょう)
此隅山城は兵庫県豊岡市出石にあった山城です。子盗城、此隅城とも呼ばれていました。
応安5年(1372)、出石神社の北にある此隅山に山名時義が築城したことが始まりとされます。以後、代々山名氏の居城となり宗全の代には但馬国だけでなく周辺の因幡・播磨・備前・美作国など全国66カ国のうち11カ国を領する中心地となりました。
応仁の乱が起こると山名宗全は各領国から2万6千騎の兵を此隅山城に集結させ、ここから京へ進軍しました。
此隅山は古墳上の地形にあり、小規模な古墳の上に城が建っているとされています。現在、此隅山城は有子山城跡と合わせて「山名氏城跡」として国の史跡に指定されています。
山名氏と時代祭
時代祭は明治時代から行われている秋のお祭りです。京都三大祭りの一つに数えられます。平安京の遷都を記念し、平安神宮から京都御所まで神輿が行幸します。そして、その日の午後に京都御所から平安神宮に還御されます。
この帰り道の神輿を先導する風俗行列を時代祭りと呼びます。
時代祭りは平安時代から幕末までの各時代を彩る形で行われ、室町時代も含みます。室町時代は洛中風俗列と室町幕府執政列が参加します。室町執政列は足利将軍や伊勢氏、細川氏の他に山名氏も含まれています。
古き時代に都があった京、その京で行われるお祭りを見て思いを馳せる一日にしては如何でしょうか。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。