上杉謙信軍神と謳われた戦上手
上杉謙信
戦国時代、多くの武将にとってなくてはならないもののひとつが戦の才能でした。軍師や有能な家臣を使うという手もありますが、一番いいのは武将自身が戦に長けていること。戦上手と称された武将は幾人もいますが、その中でも上杉謙信はトップクラスと言えるかもしれません。越後を治め、武田信玄との戦いでも名を残しました。軍神または越後の竜とも呼ばれた彼の生涯について紹介します。
誕生から初陣
享禄3年(1530)、越後守護代・長尾為景(三条長尾家)・母虎御前の四男(次男、三男という説もあり)として、春日山城で生まれました。幼名は虎千代。庚寅年生まれのために名づけられたともいわれています。
当時の越後国は激しい内乱が続き、下剋上の時代の中で父・為景は戦を繰り返していました。父は越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領・上杉顕定を長森原の戦いで討ち取ります。また、上杉定実を傀儡として権勢をふるいますが、越後国を平定するまでには至りませんでした。
同年10月、上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合、父の為景に反旗を翻します。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆だけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応する事態となりました。
父為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展していきます。
天文5年(1536)8月に為景は隠居、虎千代の兄・晴景が家督を継ぎました。虎千代は城下の林泉寺に入門、住職の天室光育の教えを受けたといわれています。実父に疎んじられており、為景から避けられる形で寺に入れられたという話も残っているほどです。
謙信は、武勇の遊戯を嗜んで人々を驚嘆させます。また好んで、一間四方の城郭模型で遊んでいたとも伝わっており後年、上杉景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男信勝に贈っています。
天文11年(1542)12月、父の為景が病没。敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送しました。
父の死後、兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって、国政を牛耳る勢いとなります。
家督相続から越後統一
天文12年(1543)8月、虎千代は元服して、景虎と名乗ります。天文13年(1544)春、兄・晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こし、15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻め寄せます。
しかし、景虎は謀反を鎮圧することで初陣を飾りました(栃尾城の戦い)。
天文14年(1545)10月、守護上杉家の老臣で黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対し謀反を起こします。秀忠は守護代・晴景の居城である春日山城にまで攻め込み、景虎の兄・長尾景康らを殺害した後、黒滝城に立て籠もりました。景虎は、兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、総大将として軍を指揮。秀忠を降伏させました(黒滝城の戦い)。
しかし、天文15年(1546)2月、秀忠が再び兵を挙げ、景虎を擁立して晴景に退陣を迫るようになったため、晴景と景虎との関係は険悪なものとなっていきます。
天文17年(1548)になると、晴景に代わって景虎を守護代に擁立する動きが盛んに。
同年12月30日、守護・上杉定実の調停の下、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲って隠退。景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続、守護代となりました。
天文19年(1550)2月、定実が後継者を遺さずに死去したため、景虎は室町幕府第13代将軍・足利義輝から越後守護を代行することを命じられ、越後国主としての地位を認められます。
天文20年(1551)1月、景虎は政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、勝利。さらに同年8月、坂戸城を包囲することで、鎮圧しました(坂戸城の戦い)。政景の反乱を鎮圧したことで越後国の内乱はいったん収まり、景虎は22歳で越後統一を成し遂げました。
川中島の戦い
歴史に名を残すことになった甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄(武田晴信)と、越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)との間で行われた数次の戦いが川中島の戦いです。
最大の激戦、第四次の戦では千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)周辺が主戦場だったと推定されており、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと総称しています。
川中島の戦いの第四次合戦は、永禄4年(1561)に行われ、別名・八幡原の戦いとも呼ばれています。第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出しました。
しかし、第四次合戦については戦が起こる前の外交情勢については確認できても、永禄4年に入ってからの双方の具体的経過を述べる史料は『甲陽軍鑑』などの軍記物語のみで確実な史料が存在しないため、この合戦の具体的な様相は現在のところ謎に包まれています。
しかし、『勝山記』や上杉氏の感状や近衛前久宛文書など第四次合戦に比定される可能性が高い文書が残っており、永禄4年を契機に武田・上杉間の外交情勢も変化していることからも、この年にこの地で激戦があったことは確かです。
川中島をめぐる武田氏・上杉氏間の争いは、第四次合戦を契機に収束。以後両者は直接衝突していません。上杉謙信は武田信玄の支援を受けた、越中の武将や越中一向一揆の鎮圧に忙殺されていきました。
越中への進出
永禄11年(1568)、織田信長に推されて新将軍となった足利義昭からも関東管領に任命されます。この頃から次第に越中国へ出兵することが多くなる一方で北信濃をめぐる武田氏との抗争は収束しました。
同年3月、越中国の一向一揆と椎名康胤が武田信玄と通じたため、越中国を制圧するために一向一揆と戦うも決着は付かず(放生津の戦い)、7月には武田軍が信濃最北部の飯山城に攻め寄せ、支城を陥落させる等して越後国を脅かすも、上杉方の守備隊がこれを撃退。さらに輝虎から離反した康胤を討つべく越中国へ入り、堅城・松倉城をはじめ、守山城を攻撃しました。
永禄12年(1569年)、蘆名盛氏・伊達輝宗の仲介を受け、本庄繁長から嫡男・本庄顕長を人質として差し出させることで、繁長の帰参を許した。また繁長と手を結んでいた大宝寺義増の降伏により、出羽庄内地方を手にしています。
その後も、北条氏や織田信長との戦いを繰り返し、手取川の戦いなどを重ねていきました。天正5年(1577)12月18日、謙信は春日山城に帰還。12月23日には次なる遠征に向けての大動員令を発し、天正6年(1578)3月には遠征を開始する予定でした。
しかし、3月9日、遠征の準備中に春日山城内の厠で倒れ、昏睡状態に陥り、その後意識が回復しないまま3月13日の未の刻(午後2時)に死去。享年49。遺骸には鎧を着せ太刀を帯びさせて甕の中へ納め、漆で密封したといわれています。この甕は上杉家が米沢に移った後も米沢城本丸一角に安置され、明治維新の後、歴代藩主が眠る御廟へと移されました。
生涯独身で養子とした景勝・景虎のどちらを後継にするかを決めていなかったこともあり、後継をめぐって御館の乱がおこります。勝利した上杉景勝が、謙信の後継者として上杉家の当主となり、米沢藩の初代藩主となりましたが、血で血を洗う内乱によって上杉家の勢力は大きく衰えてしまいました。
なお、謙信が行おうとして未遂に終わった遠征では上洛して織田信長を打倒しようとしていた、関東に再度侵攻しようとしていたなど諸説ありますが真相は闇の中です。
唐沢山城(栃本城)
唐沢山(247m)山頂を本丸として一帯に曲輪が配された山城。戦国時代は、佐野氏第15代当主・佐野昌綱による唐沢山城の戦いで有名です。上杉謙信の10度にわたる攻城を受けたが、度々撃退して謙信を悩ませるほどの堅牢な城でした。
佐野氏は相模の北条氏、越後の上杉氏の二大勢力に挟まれどちらに付くか苦悩。当初、越後の上杉謙信と組んだ佐野昌綱は、永禄2年(1559)北条氏政に3万5千の大軍をもって城を包囲されますが、謙信が即座に援軍を差し向け北条軍を撤退させています。
唐沢山城(佐野)は謙信にとっては関東における勢力圏の東端、佐竹氏をはじめとする北関東の親上杉派諸将の勢力圏との境界線だったため、特に重要視していたようです。
昌綱の子・宗綱は弟で上杉氏の養子に入った虎松丸と不和になり、一族間で「唐沢山天正の乱」が勃発。これにより佐野氏は上杉氏と決別しています。
天正4年(1576)虎松丸に加勢した上杉謙信は1万5千の兵で城を攻めるも、一上杉軍を撤退させたといわれています。それまでも9度にわたり上杉軍の攻城を受け、城主・昌綱は何度も降伏したものの、謙信を大いに手間取らせた記録が残っています。
現在、栃木県立自然公園の一部となっており、本丸に築城主と伝えられる藤原秀郷を祀る唐沢山神社が鎮座遺構として石垣、大手枡形、土塁、堀切、土橋、近世に復元された井戸などが残っています。
春日山城
南北朝時代に越後国守護である上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まり。永正4年(1507)、守護代であった長尾為景が上杉定実を擁立して守護上杉房能を追放し、新守護として定実が府中に入ると、長尾氏が春日山城主となりました。
春日山山頂に築かれ、天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城でした。
しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、政治を取り仕切るに不便として、慶長12年(1607)に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城は役目を終えました。
「春日山」の名称は、奈良の春日大社から分霊勧請(かんじょう)した春日神社に由来。
また、近くにある林泉寺の惣門は、春日山城の搦手門を移築したものだと言われています。
厳密な時代考証に基づいた初の復元模型が完成、2009年1月から12月まで開催された「越後上越天地人博」で展示されていました。
上杉家廟所
山形県米沢市にある米沢藩歴代藩主の墓所。昭和59年(1984)1月11日、米沢藩主上杉家墓所の名称で国の史跡に指定されています。
本来、謙信は越後の春日山上で没していますが、後継者の上杉景勝は後に天下統一を果たした豊臣秀吉の臣下となり五大老に任じられて、会津へ移動した際に謙信の霊柩も越後から会津に移され仮堂に安置されました。
現在の廟所は謙信霊廟を中央に、その左右に歴代藩主の霊廟(墓所)が厳かに立ち並んでいます。2代景勝から8代重定までは火葬での埋葬が行われ、御堂は入母屋造りの建造物ですが、9代治憲から12代斉定までは土葬となり、御堂も宝形造りとなっています。
謙信公祭
上越で行われている祭りです。
昭和戦前期から戦中、戦後も一度も中断されることなく、上越の人びとの手によって毎年開催されてきました。はじめての謙信公祭は、大正15年(1926)9月13日、当時の高田市・直江津市・春日村(いずれも現上越市)の各青年団主催で、春日山神社で開催されました。
また、地元には、戦国大名が割拠した動乱の時代においても、謙信公は、一年に一度だけ民衆を春日山城に招き入れ、日頃の労をねぎらったという言い伝えが残っており、こうしたことが謙信公祭を行うきっかけになったともいわれています。
市民にとっては憩いの祭りで、毎年多くの人が集まります。川中島合戦の再現やパレードなどは、訪れた人の目を楽しませてくれます。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。