島津義久(2/2)三州の総大将

島津義久

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人物記
名前
島津義久(1533年〜1611年)
出生地
鹿児島県
関連する城
鹿児島城

鹿児島城

国分城

国分城

関係する事件

豊臣秀吉は島津家の領地として薩摩、大隅国と日向国の一部を安堵しました。
この豊臣政権下の時代、豊臣家の窓口の1つが石田三成でした。この関係が関ヶ原の戦いで島津家が石田家に付いた原因の1つなります。
また島津家のうち豊臣家との窓口は弟の島津義弘でした。この為、豊臣家は島津義弘を島津家当主として認識し、義久と両体制に移行していきます。これを「両殿体制」と呼ばれています。
 
天正20年(1592)豊臣秀吉は朝鮮へ出兵します。島津家もこの出兵に動員され、島津義弘を大将として大いに働きました。慶長3年(1598)、秀吉が亡くなるまで朝鮮出兵が続き島津家は戦後に恩賞として5万石を貰い受けます。

晩年

豊臣秀吉が亡くなると武家で最高位の官位を持つ徳川家康が台頭してきました。家康は石田三成と関ヶ原の戦いで衝突、その結果勝利し天下を手中にします。
この時、島津家は島津義弘が兵を率いて石田方に付きました。そして関ヶ原の戦いは徳川家勝利で終わります。負けた島津家は徳川家に本領安堵を訴え、結果的に島津家の行動は義弘の単独行動で、島津家には責はなくすべて不問に付されました。こうして島津義久は本領を安堵されたことで隠居を決意します。

慶長7年(1602)正式に当主の地位を島津忠常に譲り、島津義久は隠居します。しかし義久、義弘、忠恒と3者が島津家の指導的な立場を持ったことから「三殿体制」という状況が発生し長く続きました。そして慶長16年(1611)島津義久は隠居場であった国分城(舞鶴城)にて亡くなります、享年79。

祖父の島津忠良が「三州の総大将」と評価した島津義久は薩摩、大隅、日向国にとどまらず九州すべての支配目前にまで迫りました。そのような人を纏める事に長けた義久は戦国時代でも有数な人物でした。

島津4兄弟

九州を手中に収めかけた島津家。この島津家の躍進には島津貴久の子供達「島津4兄弟」の結束がありました。そこで4兄弟について簡単に見ていきます。

長男…島津義久
長男の義久は、人を纏め結束を促す人物でした。4兄弟の祖父、島津忠良は「義久は三州(薩摩・大隅・日向)の総大将たるの材徳自ら備わっている」と評し、その評価通り三州を治め躍進の切掛けとなりました。
次男…島津義弘
次男の義弘は、戦国でも1、2を争う勇猛さを持っていました。祖父忠良は「義弘は雄武英略を以て傑出している」と評し、常に配下の者と戦場にありました。朝鮮の役においては、その武勇で朝鮮の軍勢より「鬼石曼図(おにしまず)」と恐れられたと日本の記録に残っています。
晩年、兄の義久に男子がいなかった事から義久の次の島津家17代当主という意見があります。義弘の子供(忠恒)が義久の養子となり島津家当主となりましたが、島津家を率いてきた義久、新たな当主となった忠恒、忠恒の父である義弘、という3者に溝ができしこりを残しました。
三男…島津歳久
三男の歳久は、戦の現場に立つことで義久や義弘を助けました。祖父忠良は「歳久は始終の利害を察するの智計並びなく」と評し、聡明さを持っていたようで豊臣秀吉を脅威と認識した島津家でも数少ない1人でした。
しかし秀吉が島津家討伐に動いた時、秀吉の脅威をいち早く説いた歳久が最後まで抗戦を主張し、更に秀吉の乗る籠に矢を射かけるなどした事から、秀吉から憎まれました。これにより島津家と豊臣家との和睦後、歳久は自害してしまいます。
歳久の家系は娘婿の子供が継ぎ、明治時代まで日置島津家として残ります。
四男…島津家久
四男の家久も又、抜群の武勇の持ち主でした。祖父忠良は「軍法戦術に妙を得たり」と評し家久の挙げた功績は、勇猛さを誇る義弘さえも嫉妬するほどでした。
この家久だけは他の兄弟とは違う母親(異母兄弟)の為に不遇を得ていたようですが、義久はこの弟を重く用い家久もその期待に応えました。しかし豊臣秀吉との和睦が成立後に急死してしまいます。
この家久の子供も勇猛でした。島津家は関ヶ原の戦いにおいて敗れた為、脱出の為の敵陣突破を行います。この時、大将の島津義弘の身代わりとなって亡くなったのが家久の長男島津豊久でした。

島津義久について

島津義久の像
そして秀吉の待つ場所に訪れ降伏を申し出ました。鹿児島県の泰平寺公園にはその際の銅像が置かれています。この場所は、島津義久が降伏した場所で頭を丸め降伏を申し出る島津義久とそれを受ける豊臣秀吉の像があります。
内城
島津家は嘉慶元年(1387)、現在の鹿児島市清水町に清水城を築き居城としました。それから150年間、島津家の本拠として清水城は使われていましたが、徐々に手狭となってきました。
そこで天文19年(1550)、島津義久の父島津貴久が海岸に近い場所(現在の鹿児島市大龍町)に城を築きます、内城です。内城は古くからの屋形作りの平城であったと考えられています。内城の名前の由来は国主の居城、「御内」から転じて内城になったものと考えられています。
貴久の後を継いだ義久も内城を居城としました。
ところが文禄4年(1595)、豊臣秀吉の圧力により富隈城に居城を移転しました。
慶長7年(1602)、島津忠常(義久の弟、島津義弘の子で義久の後を継ぎ島津家当主となった)が鹿児島城に移ります。
内城の跡地には南浦文之が島津貴久、義久の菩提寺である大龍寺を開山しました。大龍寺は明治の廃仏毀釈により廃寺となり、小学校が建てられました。
現在では小学校の敷地内に内城時代から使われていたとされる手水鉢及び庭石が残る程度で碑や説明板もありません。内城時代からあったとされる蓑懸松の説明板があり、この説明板が城について唯一示すものとなっています。
鹿児島城
鹿児島城は現在の鹿児島市城山町に建てられた城で別名を「鶴丸城」と呼ばれています。別名の鶴丸城は、屋形の形状が鶴の羽を広げた形から呼ばれたそうです。
関ヶ原の戦いで敗れた島津家は、徳川家の脅威に対抗する為に上之山城の麓に新たに城を築きました、鹿児島城です。
上山城は山城でしたが、新たに築いた鹿児島城は本丸、二ノ丸、出丸からなる平城で、上山城と合わせて平山城とも考えられています。慶長6年(1601)に築城が開始し、慶長9年(1604)に完了、それ以降明治時代が始まるまで島津家の居城となります。
 
現在は遺構として石垣や堀、出丸跡、大手門の石橋が現存しています。また本丸跡に鹿児島県歴史資料センター黎明館、二の丸跡には鹿児島県立図書館、鹿児島市立美術館、鹿児島県立博物館などが建っています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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