後醍醐天皇鎌倉幕府を倒し南朝を開いた天皇は何した人物だったか
後醍醐天皇
- 関係する事件
- 後醍醐天皇とは
- 後醍醐天皇とは、鎌倉幕府を滅亡させ、天皇を中心とする政治を目指して「建武の新政」を始めた第96代天皇である。
- 大覚寺統の出身で、本来は後二条天皇の皇子・邦良親王が即位するまでの「中継ぎ」として皇位についた。
- 即位後は院政を廃して天皇親政を開始し、自らの政治と皇位継承を実現するため鎌倉幕府との対立を深めた。
- 元弘の乱で討幕計画が発覚すると笠置山で挙兵したが敗れて捕らえられ、隠岐へ流された。
- 隠岐を脱出した後は楠木正成、足利高氏、新田義貞らの協力を得て倒幕を進め、元弘3年(1333年)に鎌倉幕府を滅亡させた。
- 建武の新政では摂政・関白や幕府を置かず天皇自身が政務を行う体制を目指したが、恩賞や土地政策などをめぐって武士や公家の反発を招いた。
- 足利尊氏との対立によって建武の新政が崩壊すると、吉野へ逃れて南朝を開き、京都の北朝と並立する南北朝時代の始まりをつくった。
- 吉野から尊氏討伐を命じ続けたが京を奪還できないまま、延元4年・暦応2年(1339年)に後村上天皇へ譲位し、その後50歳で崩御した。
約150年にわたって続いた鎌倉幕府を倒し、天皇を中心とする新たな政治を目指した後醍醐天皇。2度にわたる倒幕計画を経て鎌倉幕府を滅亡させ、「建武の新政」を始めますが、足利尊氏との対立によってわずか3年で崩壊。京を離れて吉野に南朝を開き、約60年続く南北朝時代の幕を開けました。今回はそんな後醍醐天皇の生涯について詳しく解説します。
大覚寺統の「中継ぎ」として即位
後醍醐天皇は正応元年(1288年)11月、第91代天皇・後宇多天皇の第二皇子として生まれました。母は五辻忠子(談天門院)で、諱は尊治(たかはる)です。
当時の皇室は皇位継承をめぐって2つの系統に分かれていました。後深草天皇の子孫である「持明院統」と、後醍醐天皇の祖父・亀山天皇の子孫である「大覚寺統」です。
両者の対立を調整していたのが鎌倉幕府でした。幕府は文保元年(1317年)、両統から10年ごとに交互に天皇を出す「両統迭立」を提案し、その後両統迭立は慣例化していきました。
後醍醐天皇は大覚寺統の出身でしたが、同じ大覚寺統のなかでも皇位継承をめぐる問題がありました。後宇多上皇が本来、大覚寺統の嫡流として期待していたのは後醍醐天皇の兄・後二条天皇の血統でした。後二条天皇は正安3年(1301年)に94代目天皇として即位しますが、徳治3年(1308年)に24歳で死去。このため、天皇位は持明院統の花園天皇に移りました。
本来、大覚寺統の次の天皇は後二条天皇の第一子・邦良親王となる予定でしたが、まだ幼く病弱だったため、尊治親王こと後の後醍醐天皇が中継ぎとして選ばれました。
ただし、後宇多上皇は尊治親王の立太子に際し「後醍醐天皇の後はことごとく邦良親王に譲与するように」としています。つまり、後醍醐天皇は将来的に邦良親王へ皇位を譲るまでの「一代の主」ということです。さらに、その子孫はどんなに賢くても天皇位を継がないよう求められました(『後宇多上皇譲状案』)。
そんな条件付きの中、文保2年(1318年)、後醍醐天皇は花園天皇の譲位を受け、31歳で第96代天皇に即位しました。
院政を廃して天皇親政を開始
後醍醐天皇の即位後3年間は後宇多上皇が院政を行っていましたが、元亨元年(1321年)、後宇多法皇は院政を停止します。こうして実権を握った後醍醐天皇は、天皇親政を開始。日野資朝や日野俊基を登用し、北畠親房などの人材を重用しました。また、後醍醐天皇は宋学(朱子学)などの学問にも強い関心を持っていたことで知られています。
しかし、後醍醐天皇が自らの政治を進めようとすればするほど、大きな壁となったのが鎌倉幕府でした。
幕府は軍事・警察権だけでなく、皇位継承にも強い影響力を持っています。後醍醐天皇は、自らの思い描く天皇中心の政治と皇位継承を実現するため、討幕を考えるようになっていったのです。
「正中の変」で後醍醐天皇は本当に討幕を企てた?
元亨4年(1324年)9月、後醍醐天皇と腹心の日野資朝・日野俊基らが討幕の疑いをかけられる事件が発生しました(正中の変)。密告により後醍醐天皇の側近・日野資朝や日野俊基らが倒幕を計画しているとの情報を得た幕府側は、関係者を次々と捕らえました。
このとき後醍醐天皇自身は「陰謀により陥れられた」と倒幕計画への関与を否定します。幕府も天皇の責任を追及せず、後醍醐天皇と日野俊基は冤罪とされ、無罪判決を受けました。しかし、残る日野資朝は「有罪とも無罪とも言えない」ことから佐渡国(新潟県佐渡市)へ流罪となりました。資朝を罰することで朝廷と幕府はこの件を終わらせたのです。
後醍醐天皇が正中の変にかかわっていたかについては、従来は討幕の主犯だったという説が有力でした。しかし近年では、『太平記』などに時系列上の矛盾があることから、邦良親王派や持明院統側が後醍醐天皇を失脚させるために仕組んだ事件だったという説も出ています。真相については現在も議論が続いています。
「元弘の乱」で討幕計画が発覚
正中の変から7年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕を企てていたことが発覚します。天皇中心の新体制をめざした後醍醐天皇は、前年末から具体的な計画を練っていました。背景には、後醍醐天皇が後継者と目していた、第二皇子・世良親王が元徳2年(1330年)9月に早世したこともあったとされています。
ところが元徳3年(1331年)4月、側近の吉田定房が討幕計画を鎌倉幕府側の六波羅探題に密告します。幕府はすぐさま特使を送り関係者を捕らえます。日野俊基は鎌倉に送られて翌年処刑されました。
六波羅探題からの追及を受ける中、後醍醐天皇は8月9日に「元弘」に改元を詔したのち、三種の神器とともに京を脱出し、山城国の笠置山(京都府笠置町)で挙兵しました。この際、楠木正成が河内国赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)で挙兵するなど、畿内が混乱しますが、幕府はこれを鎮圧しました。笠置山は幕府軍に包囲されて陥落し、後醍醐天皇は捕らえられました。
幕府は後醍醐天皇が逃亡した時点で持明院統から光厳天皇を擁立して即位させています。光厳天皇は元号を「正慶」に改めました。以後、年号は後醍醐天皇ら大覚寺統・後の南朝が「元弘」、持明院統・後の北朝が「正慶」をそれぞれ使うことになります。
隠岐から脱出!鎌倉幕府滅亡へ
後醍醐天皇は元弘2年/正慶元年(1332年)3月に隠岐へ配流されます。ところが、後醍醐天皇が隠岐に流されても、倒幕運動は収まりませんでした。楠木正成に加え、後醍醐天皇の皇子・護良親王が討幕の令旨を出し、それに呼応する形で播磨の赤松則村らが挙兵。幕府への抵抗は各地で続きました。
そうした状況のなか、元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月24日、後醍醐天皇は隠岐の島から脱出し、伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町)の名和氏を頼りました。後醍醐天皇を迎えた名和氏は伯耆船上山(鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵し、幕府方の追っ手を撃退します。後醍醐天皇は諸侯に綸旨で倒幕を呼びかけました。
幕府は後醍醐天皇を討つため、足利高氏(後の足利尊氏)を大将に京へ軍を派遣しました。高氏は北条氏と縁戚関係にある、幕府方の武将でした。
ところが高氏は幕府を裏切って後醍醐天皇側につき、京にあった幕府の拠点・六波羅探題を攻撃して陥落させました。尊氏が寝返った理由は諸説ありますが、北条氏の専制への不満や、源氏の名門である足利氏が幕府内で軽んじられていることへの不満などがあったとされています。一方、関東では新田義貞が挙兵し、鎌倉へ進軍します。
そして元弘3年(1333年)5月、鎌倉が陥落。北条高時ら北条氏一門は東勝寺で自害し、約150年にわたって続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
隠岐に流された後醍醐天皇は、わずか1年ほどで復活を果たしたのです。
「建武の新政」を開始
京へ戻った後醍醐天皇は、光厳天皇の即位を白紙に戻して命令などをすべて廃棄すると、自らを中心とする新しい政治を始めました。これが「建武の新政」です。
後醍醐天皇は幕府や院政による政治ではなく、摂政・関白すら置かず、天皇が自ら政務を行う体制を目指しました。ところが、公家優位の政策に加え、従来の慣習や既得権益が否定されたことで武士のみならず公家からも反発を招くこととなります。
武士の反発を招いたのが、恩賞の配分をめぐる問題です。足利尊氏のように公卿にも就任し、後醍醐天皇の諱「尊治」から一字貰って「尊氏」に改名し、本領安堵に加え新たな守護職を得るなど取り立てられた人物もいました。しかし、倒幕に参加した武士すべてが納得する恩賞を得られたわけではなく、武士たちの中で不満が広がっていきます。
また、後醍醐天皇は鎌倉幕府以来続く武士たちの「守護」に加えて、貴族が就任する「国司」を併置し、その権限を強化。中央から側近らを国司として派遣しました。しかし、こうした急激な制度変更は既得権益を持つ武士や貴族の反発を招きました。
加えて、門閥や家格を無視した人材登用は公家の反発を招き、後の公卿・三条公忠の『後愚昧記』では「物狂の沙汰」とまで言われています。
さらに大きな混乱を引き起こしたのが、土地問題です。後醍醐天皇は従来の土地所有権をそのまま認めず、所領の安堵や訴訟の裁決を「天皇の綸旨による」としました。
その結果、所領の安堵を求める人々が殺到し、綸旨が乱発され、偽の綸旨まで登場し、政務は大混乱します。最終的には処理しきれなくなったため、開始からひと月もたたないうちに手続きの一部を国司に委ねることになりました。
こうしたなかで武士たちの期待を集めるようになったのが、後醍醐天皇に取り立てられた武士の代表・足利尊氏でした。
後醍醐天皇と足利尊氏が対立
建武2年(1335年)7月、北条氏の残党が鎌倉、ひいては武蔵・相模を占領する「中先代の乱」が起こります。尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍への任命を求めましたが認められず、天皇の許可を待たずに関東へ向かいます。
尊氏は乱を無事鎮圧して鎌倉を奪還しましたが、その後も京へ戻らず、関東で独自に恩賞を与え始めます。さらに中先代の乱の際には、鎌倉に幽閉されていた後醍醐天皇の皇子・護良親王が、尊氏の弟・足利直義の命を受けた淵辺義博によって殺害されました。
後醍醐天皇はこうした尊氏の行動を反逆と判断し、新田義貞らを討伐に向かわせました。尊氏は一度敗れて九州まで逃れますが、九州で勢力を立て直すと再び東へ進軍。建武3年(1336年)2月には、持明院統の光厳上皇から院宣を得て京を目指しました。なお、後醍醐天皇は2月29日に元号を「延元」と改めていますが、尊氏側は後醍醐天皇による「延元」への改元を認めず、「建武」を使用し続けました。
尊氏軍と後醍醐天皇軍が激突したのが、摂津国湊川(兵庫県神戸市中央区・兵庫区)です。「湊川の戦い」と呼ばれるこの戦いで、尊氏は新田義貞・楠木正成らが率いる後醍醐天皇軍を破り、光厳天皇とともに京に入ります。後醍醐天皇は天皇の正統性を示す象徴である「三種の神器」とともに比叡山に逃れました。こうして建武の新政は、わずか2年余りで終焉を迎えました。
建武3年・延元元年(1336年)8月、光厳上皇は弟の豊仁親王を光明天皇として皇位につけました。一方の後醍醐天皇は比叡山に立てこもっていましたが、尊氏側の希望により和睦します。11月2日、後醍醐天皇は尊氏に三種の神器を渡し、京に戻りましたが、囚われてしまいます。
11月7日には室町幕府の施政方針を示した『建武式目』が制定され、尊氏による新たな武家政権が事実上スタートしました。これで後醍醐天皇はおしまい…かと思われましたが、ここでも後醍醐天皇は諦めませんでした。
後醍醐天皇が吉野へ、南北朝時代の始まり
延元元年/建武3年(1336年)12月、後醍醐天皇は京を脱出。このとき三種の神器を持ち出したと伝えられます。そして大和国吉野(奈良県吉野町)に逃れ、独自の吉野朝廷(南朝)を樹立し、自らが正統な天皇であると宣言しました。
以後、京の北朝と吉野の南朝がそれぞれ天皇を立て、日本は明徳3年(1392年)に南北朝合一が実現するまで、約60年間の南北朝時代に突入します。
後醍醐天皇、吉野で崩御
後醍醐天皇は吉野の吉水神社を皇居に定めて生活を始め、数か月後に金峯山寺周辺の実城寺を「金輪王寺」と改めて皇居(吉野朝宮跡)としたと伝わっています。吉野は古くから朝廷との関係が深く、修験道などの宗教勢力とも結びついた地域でした。
後醍醐天皇は吉野に朝廷を開くと、各地の皇子や武将に尊氏討伐を命じました。しかし、南朝側を支えていた武将たちは次々と失われていきます。楠木正成はすでに湊川の戦いで戦死しており、新田義貞も延元3年/暦応元年(1338年)、越前国で戦死しました(藤島の戦い)。皇子たちも劣勢となり、南朝にとって非常に厳しい状況が続きました。
延元4年/暦応2年(1339年)、後醍醐天皇は皇子の義良親王に譲位しました。後の後村上天皇です。そして北朝を倒せないまま、8月16日、病気でこの世を去りました。享年満50歳。最後まで京への帰還を願っていたと伝えられています。
知らせを聞いた北朝方は驚き嘆くとともに、非業の死を遂げた後醍醐天皇が怨霊となることを恐れました。足利尊氏も後醍醐天皇の死を重く受け止め、追善供養に力を尽くし、夢窓疎石の勧めを受け、菩提を弔うため天龍寺を創建しています。
激動の時代を駆け抜けた後醍醐天皇。現在は如意輪寺の裏山に位置する塔尾陵に祀られています。一般的な陵墓は南向きのものが多いですが、後醍醐天皇の陵墓は遺詔に従い、京の空を睨むように北を向いて作られました。
後醍醐天皇の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1288年 | 正応元年 | 0歳 | 京都に生まれる(後宇多天皇の第二皇子) |
| 1318年 | 文保2年 | 30歳 | 第96代天皇として即位する |
| 1324年 | 正中元年 | 36歳 | 鎌倉幕府の倒幕計画が発覚する(正中の変) |
| 1331年 | 元弘元年 | 43歳 | 再び倒幕を企てて挙兵するが捕らえられ、隠岐へ流される(元弘の乱) |
| 1333年 | 元弘3年 | 45歳 | 隠岐を脱出し、足利尊氏や新田義貞らの挙兵によって鎌倉幕府が滅亡する |
| 1333年 | 元弘3年 | 45歳 | 京都へ戻り天皇親政による建武の新政を開始する |
| 1336年 | 延元元年 | 48歳 | 足利尊氏との対立に敗れて吉野へ移り、南朝を開く |
| 1339年 | 延元4年 | 51歳 | 吉野で崩御する |
- 関係する事件
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。