松平忠吉関ヶ原の火蓋を切った大名

松平忠吉

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人物記
名前
松平忠吉(1580年〜1607年)
出生地
静岡県
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忍城

忍城

清洲城

清洲城

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室町時代後期、戦国時代とも呼ばれた戦乱の世は徳川家によって終わります。この時代の終止符を打った戦いがあの「関ケ原の戦い」です。東西に分かれて10万人以上が対峙したこの戦い、最初の発砲を行ったのが松平忠吉です。後に天下人になる徳川家康の4男として浜松に生まれ、尾張国清洲城の藩主となった忠吉。この松平忠吉がどういう人物であったのか、今回は見ていきたいと思います。

松平忠吉の誕生

松平忠吉は、天正8年(1580)三河国の大名でした徳川家康の4男として遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)において生まれました。幼名を福松丸と言い、母はお愛の方(西郷局)で、後の江戸幕府2代将軍徳川秀忠と同母兄弟となります。

忠吉が生まれた翌年、天正9年(1581)の事です。徳川家の一族であった東条松平家当主の松平家忠が病死しました。
東条松平家は徳川家康の祖父松平清康の祖父松平長親(徳川家康からみると高祖父)の三男松平義春を祖とします。
三河国幡豆郡横須賀村東条(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった東条城を居城としたことから東条松平家と呼ばれるようになりました。この東条松平家の祖、松平義春は徳川家康の祖父清康や父広忠の困難な時代も支えた功績の大きい家でした。

そこで父の家康は、当主のいなくなった東条松平家の家督を忠吉に継がせます。忠吉は生まれて間もなく三河東条城1万石を領するようになりました。
さらに翌年の天正10年(1582)、甲斐の武田氏が織田家、徳川家により攻められ滅亡すると、忠吉は三河国東条から新たな領国となった駿河沼津城(現在の静岡県沼津市)に転封されます。

関東移封と忍城

松平忠吉の父、徳川家康は本能寺の変で織田信長が亡くなると、豊臣秀吉に従います。
豊臣秀吉は天正18年(1590)関東の北条家を討伐(小田原征伐)。
徳川家康は秀吉の麾下として関東に侵攻しましたが、北条家が降伏後、それまでの領地であった東海地方を召し上げられ、北条家の旧領を宛がわれます。

具体的には、三河国(現在の愛知県東部)、駿河国、遠江国(現在の静岡県)、甲斐国(現在の山梨県)、信濃国(現在の長野県)150万国を召し上げられ、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部という関東一円250万石を与えられました。

松平忠吉は家康の関東移封に伴い、文禄元年(1592年)に駿河国沼津城から武蔵国埼玉郡忍城主10万石を与えられました。
忍城は北条家に属していた成田氏の居城でしたが、小田原征伐の際、成田氏の一族であった成田長親を中心に石田三成を中心とした豊臣軍の攻撃に耐え、小田原征伐の中で唯一最後まで守り抜かれた城でした。

成田氏はその後、当主の成田氏長が独立した大名となりそれに従う者、新しく領主となった松平忠吉に仕官するもの、武士を辞めて農業に従事する者に分かれます。攻城戦で城を守り抜いた成田長親の息子は、松平忠吉に仕官した為、長親は後年、息子に従い尾張国に住むようになりました。こうして、忍城城主となった松平忠吉は成長し元服します。

初陣の関ヶ原の戦い

文禄元年(1593)松平忠吉は婚姻を結びます。相手は徳川四天王の一人で上野国箕輪12万石の藩主、井伊直政の娘政子です。こうして忍城主として元服し、婚姻も結んだ忠吉でしたが、父の徳川家康に政治的な変化がありました。

慶長3年(1598)家康が属していた豊臣秀吉が亡くなります。
秀吉の死後、主導権を握る家康とそれに反対する石田三成などのグループと対立が先鋭化します。
慶長5年(1600)上杉景勝に謀反の疑いありと、家康を中心とした討伐軍が東へ向かいます。この時、松平忠吉は初めて軍を率いる事と成りました。
家康たちが関東に着くころ、大坂城で石田三成が挙兵します。
家康は率いていた軍の内、忠吉を総大将として豊臣家子飼いの家臣たちを中心に東海道を上らせます。その後、家康自身も東海道を上り石田三成と関ケ原で対峙しました。

関ヶ原の戦い当日、その日の先陣は福島正則が務める事になっていましたが、舅の井伊直政が忠吉を連れて偵察に出ます。一説には、家康の意を汲んだ直政が初陣の忠吉に手柄を挙げさせようと先陣の抜け駆けを図ったとも言われます。
途中、福島家の可児才蔵に見咎められますがそこを抜け、関ヶ原に出ると鉄砲を撃ち掛けました。こうして日本でも有数の大規模な会戦、関ヶ原の戦いが始まります。
忠吉は、関ヶ原の戦いの火蓋を切る事で初陣の手柄を挙げます。

戦いは、昼過ぎには家康率いる東軍の優勢となり、石田三成に属していた西軍の追撃戦となりました。
戦場から離脱する島津家を追う井伊直政と松平忠吉は島津豊久に行く手を遮られ、忠吉は頭に傷を負い、井伊直政も足を鉄砲で撃たれ落馬しながらも豊久を討ち取るなど、初陣にも拘わらず大功を挙げました。

清州藩への転封

関ヶ原の戦いで功績を認められた松平忠吉は、安芸広島と備後鞆(現在の広島県)に転封となった福島正則の後を受けて、尾張国清洲(現在の愛知県西部)および美濃国(現在の岐阜県)52万石を与えられ、忍城より移ります。
 関ケ原の戦いで勇猛果敢な姿を見せた忠吉でしたが、清洲に移ると教養も身に付けようとしました。かつて本願寺の坊官で関ヶ原の戦いの後、西本願寺に属していた下間 仲孝(しもつま なかたか)は猿楽を極めていましたが、この仲孝より猿楽の秘伝書『童舞抄』を受けるなど、文武両道を目指しています。

朝廷の位階も、慶長10年(1605)には従三位左近衛中将に、翌慶長11年(1606)には薩摩守に遷任されるなど官位も順調に受けていました。
しかし関ヶ原の戦いで傷を受けた事が災いしたのか、慶長9年(1604)徐々に病に侵されるようになりました。

松平忠吉の終焉

尾張国清洲城主となった松平忠吉でしたが、慶長9年(1604)病に侵されます。そこで闘病の為、但馬国に湯治へ出かけています。
慶長10年(1605)には腫物を患い、一時は危篤状態に陥りますが投薬により蘇生しました。
しかし病がなかなか癒えず、慶長11年(1606)尾張国知多郡にも湯治へ出かけるなど頻繁に療養を努めました。

この知多郡の湯治場は現在の常滑市大野町にあり、湯治を行っている忠吉に対して曼陀羅寺がお見舞いの渋柿を送り、その返答の礼状が残っています。 慶長12年(1607)病は治まり切らない状態で、忠吉は江戸へ向かいます。そこで家康、秀忠と面会した数日後の3月5日に亡くなりました、享年28。

松平忠吉には子がおらず、残った清洲藩は弟の徳川義直が継ぎました。また、忠吉が継いだ東条松平家は忠吉の代で断絶となりましたが、徳川義直の家中に引き継がれ、そのまま尾張藩に編入されることになります。
清洲から名古屋へと移った尾張徳川家では、松平忠吉の扱った什宝を保存し、現在では愛知県にある徳川美術館において収蔵されています。

松平忠吉の所縁の地

松平忠吉、井伊直政陣跡
慶長5年(1600)に起こった関ヶ原の戦いは東軍西軍併せて約17万人。ところが、戦い自体は半日で終わりました。この半日の戦いで約8000人の死者が出たと言われます。
関ヶ原の戦いで勝った徳川家康は戦いの後、首実検を行い、多くの遺体をこの地に埋め、東首塚、西首塚を立てたと言われます。
その東首塚はJR関ケ原駅のすぐ近くにありますが、首塚の東隅、岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原に「松平忠吉・井伊直政の陣跡」があります。
徳川家康の4男松平忠吉はこの戦いが初陣でした。関ヶ原の戦いの緒戦、徳川家の井伊直政は娘婿でもあった初陣の忠吉に手柄を挙げさせたいと考え、鉄砲隊を率いて偵察に出ます。途中、東軍の福島正則の先陣、可児才蔵に発見され問いただされますが、制止を振り切り関ヶ原に出ました。 そこから宇喜多秀家のいる軍に鉄砲を撃ち掛けたことが、戦いの始まりとなったと言います。
松平忠吉の墓所 性高院
松平忠吉が忍城を中心に10万石の領地を父徳川家康より宛がわれた時の事です。
実母、西郷局(院号、宝台院)の菩提を弔う為、満譽玄道をして忍城の城下にあった正覚寺を再興させました。
忠吉はその後、清洲城に転封となると慶長8年(1603)忍城の城下にあった3寺を清洲に移します。この移った寺の一つが正覚寺でした。
慶長12年(1607)松平忠吉が江戸で亡くなると、忠吉の菩提寺となります。
慶長15年(1610)清洲から名古屋へ城の城下も含めた大移動がおこなわれ(清洲越し)、寺の名前も忠吉の院号から性高院となりました。

松平忠吉が治めた忍城(おしじょう)

忍城は、武蔵国埼玉郡忍(現在の埼玉県行田市)にあった城です。現在は埼玉県指定旧跡となっています。文明10年(1478)ごろ、武蔵国の国人衆であった忍氏を成田氏が滅ぼし、忍城を築城したと言われています。

天正18年(1590)豊臣秀吉が行った関東討伐の際、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもったと言われています(忍城の戦い)。
石田三成が豊臣家の総大将となり、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等が参陣していたと言われています。石田三成はこの時、約28kmにおよぶ石田堤を建設し水攻めにしましたが、城は落ちず小田原城が先に降伏した為、その後に開城します。

徳川家康の関東入府後、松平忠吉が配置され忍藩10万石の藩庁となりました。忠吉が清州藩に移動した後、親藩譜代の大名が転封されましたが、忍城は整備され中山道の裏街道宿場や利根川水系の水運の物流路として繁栄します。

江戸時代後期になると、足袋の産地として有名になります。
明治時代に入ると、忍城の構造物は大部分が撤去され、残った城跡は公園として整備されました。この忍公園は、昭和24年(1949)に行田市本丸球場が造られましたが、後に移転し、その跡地に昭和63年(1988)行田市郷土博物館が造られ市民に親しまれています。

忠吉終焉の地、清州城(きよすじょう)

清洲城は、尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城です。
尾張国の中心部に位置し、東海道や伊勢街道、中山道に接続する要衝です。
応永12年(1405)、尾張国守護大名の斯波義重によって築城されます。文明10年(1478)に守護所が移転し清洲城が尾張国の中心地となりました。
時代が下がると、尾張国のうち下四郡を支配する守護代織田家の本城となります。

織田信長が尾張国の統一の過程で清洲城を居城としました。
関ヶ原の戦い以降は、徳川家康の四男松平忠吉が入り清洲藩の礎になりましたが、忠吉は関ヶ原の戦いで負った傷がもとで病死します。そのため慶長12年(1607)には家康の九男徳川義直が入城しました。

ところが慶長14年(1609)徳川家康は、清須城から名古屋城へ移転するよう命令が出されます。西日本の大名によって造られた名古屋城が出来上がると、慶長15年(1610)より清洲城にあった町は名古屋城へと移転され、以降尾張国の中心地は名古屋城になりました(清洲越し)。ここから徳川御三家の尾張徳川家が始まります。

現在、清洲城の城跡は大部分が焼失し、また東海道本線と東海道新幹線とに分断されています。残っているのは本丸部分の土塁だけです。
清洲城に隣接する清洲地域文化広場内に、平成元年(1989)に鉄筋コンクリート造の模擬天守が建てられています。
また東海道本線より南にある清洲公園には信長の銅像が、北側にある清洲古城跡公園には清洲城跡顕彰碑があり、市民の憩いの場所を彩ります。

清州越し

慶長12年(1607)、松平忠吉が亡くなってからの話です。尾張国の中心は長く、忠吉が治めた清州でした。ところが清州は庄内川の下流で水害が多く、また天正13年(1586)の天正地震で地域が液状化しました。

更に関ヶ原の戦い以降、徳川家は大坂にある豊臣氏に対抗しなければなりませんでした。この豊臣家への対抗拠点の一つとして清州を考えていましたが、清須城が小規模で多数の兵を駐屯させられない欠点がありました。
そこで徳川家康は、徳川義直に忠吉の跡を治めさせる際、熱田台地に新たな城を築かせました、名古屋城です。城の普請には、西国大名の多くに命じ大規模な工事となりました。更に名古屋城の周辺には、堀を掘削し新たな街を作ります。

こうして出来た町には、清州城下から家臣、町人のみならず、神社、仏閣も移転するなど、清州のほとんどが名古屋に移転しました。これを清州越しと言います。その為、現在では清州越しを経験した旧清州の住民であることが、名古屋の伝統と格式を示す一つのステータスとなっています。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。