井伊直弼なぜ無勅許で条約を結んだのか?開国と安政の大獄、桜田門外の変の真実
井伊直弼
開国に揺れる幕末、徳川幕府の命運を左右する重大な決断を下した人物が井伊直弼です。安政5年(1858年)、大老として日米修好通商条約を締結し開国を断行し、「安政の大獄」で反対勢力を弾圧しました。その強硬な政治姿勢は国内に深い対立を生み、自身も安政7年(1860年)、桜田門外の変で命を落としました。今回はそんな井伊直弼について、分かりやすく解説します。
井伊直弼の生い立ちと「埋木舎」時代
井伊直弼は文化12年(1815年)10月29日、彦根藩主・井伊直中の十四男として、彦根城二の丸にあった槻御殿で生まれました。母は側室のお富の方で、父の隠居後に生まれた庶子、しかも十四男という立場から、家督を継ぐ可能性はほとんどなく、母も文政2年(1819年)に死亡。天保2年(1831年)に父が亡くなったことで城下町にある御用屋敷のひとつ、通称「埋木舎(うもれぎのや)」で17歳から32歳までの15年間、生活費として300俵の被進米をもらい、生活を送りました。こうした生活は彦根藩の庶子教育制度に基づくものでした。
300俵という数字は一見質素に見えますが、研究者によれば屋敷の維持管理費や燃料費などは藩が負担していたため、上級藩士レベルの暮らしは維持できたようです。
彦根藩の場合、嫡男以外の庶子は他の大名の養子に迎えられるか、臣下となるか、はたまた出家するかというのがお馴染みのパターンでした。事実、直弼の他の兄弟たちは養子に出ています。直弼も天保5年(1834年)の秋に、弟の直恭と江戸に出て養子の面接を受けましたが、弟が日向延岡藩の養子に迎えられたのに対し、直弼は採用されませんでした。
江戸から戻った直弼は「世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれておらむ心なき身は」と和歌を詠みます。この歌から住処を「埋木舎」と呼ぶようになったと伝わっています。
その後、直弼は居合や鎗術といった武芸だけでなく、和歌や国学、兵学、洋学などをいっそう熱心に学ぶようになります。この時代に開国論の考え方が芽生えたとされています。加えて直弼は茶道・和歌・禅などの教養を深めました。特に茶道では石州流を修めており、生涯にわたって茶の湯に親しみました。
部屋住みから藩主へ 井伊直弼の転機
直弼はそのまま風雅の道にまい進する…かと思いきや、弘化3年(1846年)、第15代藩主・井伊直亮(直中の三男)の世子・井伊直元(直中の十一男)が38歳で病死してしまいます。このため、直弼は急遽跡継ぎとして江戸に召喚され、兄・直亮の養子となりました。このとき直弼は32歳。15年の埋木舎生活に終止符を打ったのです。
もともと井伊家は譜代大名の筆頭格であり、江戸城においては「溜間詰」という最高位の控えの間「溜間」に出入りを許された家柄でした。溜間詰は、老中や大老といった幕府の中枢に関わる役職に就く資格を持つ家に限られた特別な地位だったのです。
直弼は井伊直亮が本国に帰っている際には、代理で溜間に出仕して溜間詰の大名たちと交流しました。溜間詰大名のなかでも井伊家、会津藩松平家、高松藩松平家は「常溜」と呼ばれる重要な存在でした。溜間詰での交流を通じて、直弼は家格を重視する考えを身に着けていったとされています。
また、井伊家は2代目の井伊直孝以来、家康から京都守護の密命を負ったとされており、直弼自身井伊家を「天下ノ先鋒」、つまり家康の時代に戦場で先鋒を任される重要な家柄だとプライドを持っていました。
このため弘化4年(1847年)、老中・阿部正弘が彦根藩に対し相模湾警備御用を命じられた際、直弼は「本来守るべきは京都!」と反発してやる気のない彦根藩士たちに危機感を抱き、ます。幕府や諸藩から警護の不備を指摘されることを恐れたのです。
このように突然の世子就任と、政治の中枢とのかかわりは、直弼をかなり疲弊させたようです。また、専制を敷く直亮との関係があまりよくなかったことも直弼の負担になっていました。
彦根藩主としての改革とペリー来航
嘉永3年(1850年)11月21日、直亮の死去を受け、直弼は家督を継いで16代彦根藩主に就任します。直弼はすぐさま藩政改革に乗り出しました。直弼はまず、領内の村や寺院、家臣へ先代藩主の遺金を分配し、自ら領内の巡見も行いました。
加えて、藩校の改革を実施して家臣の育成に注力。人材の発掘にも力を入れ、派閥にとらわれず能力を重視した登用も実施しました。嘉永5年(1852年)4月、ブレーンとして国学者の長野主膳を彦根藩士として招聘。長野の門人の多くも彦根藩で上位のポストにつきました。
藩主就任から3年後の嘉永6年(1853年)6月、アメリカのペリー提督が黒船とともに浦賀に来航します。このとき彦根にいた直弼は急遽江戸に戻り、幕府に2通の提言書を提出します。1通目は鎖国を主張していますが、2通目では開国を主張しつつ、海軍を整えて海外に力を示せば鎖国に戻すことができる、と主張しています。「鎖国に戻る」と古都歩きの開国論ではありますが、この辺りに日米修好通商条約を結んだ直弼の考えの一端が現れているのかもしれません。
一方、過激な攘夷を主張したのが水戸藩主・徳川斉昭でした。ひそかにペリーらの暗殺計画を練っていたことが当時の書簡から分かっています。斉昭は大砲や西洋式軍艦「旭日丸」を献上し、海防参与として幕政に関わります。安政2年(1855年)には軍制改革参与に就任。開国派の直弼と対立していくことになります。
将軍継嗣問題と幕府内の権力闘争
ペリー来航のさなか、12代将軍の徳川家慶は病で死去。代わって徳川家定が13代将軍に就任しましたが、家定は病弱で実子がいなかったため、跡継ぎを早急に決定する必要がありました。
次の将軍候補は、将軍家に血筋が最も近い紀伊藩主の徳川慶福と一橋慶喜の2人で、幕府は慶福を推す「南紀派」と慶喜を推す「一橋派」に分かれ、政争を繰り広げました。直弼は南紀派の筆頭として、溜間詰の譜代大名や大奥の人々とともに慶福を後押ししました。一方、一橋派は実父の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬などの外様藩の有力者たちでした。
両派の激しい争いのさなか、大老・井伊直弼が誕生します。当時、老中首座の堀田正睦は南紀派から一橋派に寝返り、慶喜を将軍に、一橋派の福井藩主・松平慶永を大老にしようと考えていました。しかし、家定がこれに反対し、「大老には直弼しかいない」と直弼を大老に指名します。
大老は常設の役職ではなく、幕府が重要な判断を必要とする際に任命される、将軍の補佐的な役割をこなす臨時職です。開国問題に揺れる幕府のリーダーとして直弼は選ばれたのでした。
勅許なしで日米修好通商条約を締結
安政5年(1858年)4月23日、大老に就任した直弼は米国との通商修好条約の締結交渉に乗り出します。相手は初代米国総領事のタウンゼント・ハリスです。
実は日米修好通商条約の素案は1月時点で完成していました。しかし、多くの幕閣や大名達から、開国はやむを得ないにしろ、条約調印の前に天皇の勅許を得るべきという意見が相次ぎます。
このため老中首座の堀田正睦が朝廷と交渉を開始します。ところがこれが外国嫌いの孝明天皇や公家たちの激しい反発を招き、結局条約締結の勅許を得ることができませんでした。
大老に就任した直弼は失敗した正睦の代わりに朝廷との交渉に入りますが、ハリスは調印をせかし、圧力をかけてきます。直弼は最後まで天皇の勅許にこだわりましたが、条約締結の期限は刻一刻と迫っています。
このため直弼は「やむを得ない場合は条約を締結せざるを得ない」と交渉役に伝えざるを得ませんでした。こうして安政5年6月19日(1858年7月29日)、日米修好通商条約は天皇の勅許なしで締結されました。なお、直弼は条約締結後、責任を取って大老を辞任しようとしていますが、部下から「後悔するより今後の打開策を検討すべき」と諫言を受けて思い止まっています。
安政の大獄で敵対勢力を弾圧
勅許なしの日米修好通商条約の締結は、朝廷や一橋派を中心とした大名などから激しい批判を受けることになりました。6月24日、徳川斉昭や松平慶永ら一橋派は許可なく江戸城に登城し、直弼や老中たちを批判・詰問しました。加えて、状況を打開するため一橋慶喜を次代の将軍とし、大老に松平慶永を据えるよう求めたのです。天皇や朝廷にも根回し済みでした。
ところが、この登城は大問題でした。当時江戸城は登城日が決められており、臨時の登城は許可が必要だったためです。一橋派の工作は実らず、かえって直弼を強硬策へと突き進ませる結果となりました。
6月25日、徳川家定自ら次代の将軍が徳川慶福であることを発表すると、反対派は直弼への反発を強めます。このため、直弼は反対派の大規模弾圧「安政の大獄」を起こします。
7月5日、井伊直弼は一橋派が許可なく登城した「不時登城」を批判し、松平慶永、徳川斉昭、一橋慶喜、徳川慶勝に隠居や謹慎を、徳川慶篤に登城停止を家定の名で命じました。
しかし、直弼のこうした行動は、孝明天皇の逆鱗に触れました。このため孝明天皇は抗議の意を込めて譲位をほのめかすとともに、朝廷での会議を経て、安政5年(1858年)8月8日に「戊午の密勅」を水戸藩に下します。本来、勅諚は幕府に通達されたのちに諸藩に伝えられるものでした。しかし、天皇は怒りのあまり、幕府に批判的な水戸藩に最初に勅を下したのです。しかも、内容は幕府の条約締結の批判と、一橋派への一連の処罰に対する抗議でした。
幕府のルールを無視した天皇の行動に対し、井伊直弼は激怒し、条約締結や将軍継嗣問題に反対する勢力を徹底的に取り締まりました。さすがに天皇は対象外でしたが、天皇から信任が厚かった中川宮(久邇宮朝彦親王)は隠居・慎・永蟄居、左大臣の近衛忠煕、右大臣の鷹司輔煕が辞官・落飾・慎などとなり、天皇の側近たちが次々と処罰されています。
弾圧は大名や志士などにも及び、松平春嶽のブレーンだった橋本左内や、反幕派の儒学者・梅田雲浜、吉田松陰などが命を落としました。処罰者は合計100人以上にも及びました。
一方、直弼は朝廷関係者の弾圧の裏で公武合体に動いていました。条約締結のぎりぎりまで天皇の勅許を求めていたことからも分かる通り、直弼は決して朝廷をないがしろにしようとはしていません。朝廷あっての幕府と考えていた直弼は、朝廷との融和をはかり、皇女降嫁の実現を目指し始めます。これが後に和宮の降嫁に繋がるのです。
また、直弼は老中間部詮勝を幕府の使者として朝廷に送り、孝明天皇に幕府の意図を説明します。その結果、12月には孝明天皇から条約締結の事情を了解するという勅書を得ています。ただし、この際詮勝は天皇に対し、戦争回避のためにやむを得ず条約を締結しており「将来は鎖国に戻ります」と説明し、それに対し天皇は「心中氷解した」という勅書を出しました。
桜田門外の変−井伊直弼暗殺事件
安政の大獄で反対勢力を弾圧した直弼でしたが、こうした強硬な弾圧は一橋派や朝廷からの恨みを買うことにつながりました。特に戊午の密勅を受け取った水戸藩は、関係者が処罰されたことで直弼に復讐しようとする過激派が生まれる始末です。また、幕府が水戸藩に対し、密勅の返納を求めたことも、直弼への反感を後押ししました。
直弼は安政7年(1860年)1月15日、「1月25日までに密勅を幕府に返上しなければ斉昭を罪に問い、水戸藩を改易する」と水戸藩に脅しをかけました。これにより直弼暗殺が現実味を帯びてきます。
こうして3月3日、季節外れの雪が降る中、直弼は江戸城外桜田門付近で水戸脱藩浪士ら計18名による襲撃を受け、命を落としました。この日は上巳の節句(雛祭り)の公式行事のため、大名たちは江戸城に参内するのが通例でした。
彦根藩の大名行列が外桜田門付近に近づいたとき、潜伏していた水戸藩の浪士たちは直弼の駕籠に襲いかかりました。襲撃からわずか数分、直弼は凶刃に倒れました。享年46歳(満44歳没)でした。
この江戸城の目の前で幕府の重臣が殺害された「桜田門外の変」は幕府の権威失墜を決定づけた出来事でもあり、以後、幕末の政治は一気に混乱していきます。
井伊直弼の年表
| 西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
|---|---|---|---|
| 1815年 | 文化12年 | 0歳 | 近江国彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれる |
| 1850年 | 嘉永3年 | 36歳 | 彦根藩主となる |
| 1858年 | 安政5年 | 44歳 | 大老に就任し日米修好通商条約を締結 |
| 1858年 | 安政5年 | 44歳 | 安政の大獄を断行し反対派を弾圧 |
| 1860年 | 安政7年 | 46歳 | 桜田門外の変で暗殺される |
- 【参考文献など】
- 国特別史跡|埋木舎(うもれぎのや)公式サイト
- 彦根城博物館
- 『井伊直弼 幕末維新の個性6』母利 美和/著 吉川弘文館
- 『安政の大獄―井伊直弼と長野主膳』松岡 英夫/著 中央公論新社
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。