徳川家定黒船来航と将軍継嗣問題に揺れた13代将軍の実像はどんな人か

徳川家定

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徳川家定(1824年〜1858年)
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東京都
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江戸城

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江戸幕府第13代将軍・徳川家定は、黒船来航という未曾有の危機のさなか、将軍に就任しました。病弱で愚鈍、政治を主導できなかったと言われる一方、温和で外交問題を真摯に考えていた、という説もあります。治世中には日米和親条約の締結、将軍の継嗣問題といったさまざまな問題に悩まされた家定については、不明な点が多いのが現状です。今回はそんな動乱の時代に将軍を務めた徳川家定について、分かりやすく解説します。

病弱だった徳川家定が将軍となる

徳川家定は文政7年(1824年)4月8日、第12代将軍・徳川家慶の4男として江戸城に生まれました。幼名は政之助です。家慶は14男13女を設けましたが、その多くが若くして亡くなっており、10代まで生き残ったのも数名、20歳を超えたのは家定だけでした。

そんな家定ですが、幼少期から病弱で、人前に出るのを嫌っていました。癇癪持ちで、首を振る癖があったこと、言語が不明瞭なこともあり、今でいう脳性麻痺だったのでは、と言われています。また、幼少期に重い疱瘡にかかったため、顔に痘痕が残されており、それがコンプレックスとなっていたようです。

父・家慶は病弱な家定に不安を抱いており、水戸藩主・徳川斉昭の7男である松平昭致(後の15代将軍徳川慶喜)を跡継ぎにしようと考えていた、という説があります。家慶は昭致を一橋家を継がせ、ひいては将軍に…と画策しました。こうして弘化4年(1847年)12月、昭致は元服して徳川慶喜となり、一橋家の跡継ぎであるため「一橋慶喜」と呼ばれるようになりました。

家慶は慶喜に会うと気に入り、鷹狩りや能をともに楽しむなど可愛がりました。しかし、慶喜の将軍位就任は、老中の反対に加え、本人が「天下を治める器ではない」と辞退したことで実現しませんでした。

結局家定は将軍継嗣となり、嘉永6年(1853年)6月22日、ペリー来航のさなかに家慶が亡くなったため、第13代将軍に就任しました。なお、家慶がアメリカとの外交交渉の真っ只中に亡くなったため、その死はしばらく秘密にされたため、家定が将軍に就任したのは10月23日のことでした。

篤姫以外にもいた!徳川家定の3人の正室

徳川家定の正室として有名なのが篤姫(後の天璋院)ですが、実は家定は篤姫の前に2人の女性を正室にしていました。これらはいずれも幕府と朝廷、あるいは有力大名との政治関係を背景にしたものでした。

最初の正室は天保12年(1841年)に婚礼を行った五摂家出身の鷹司任子で、父は前関白の鷹司政煕でした。朝廷との関係強化を意図した婚姻で、文政11年(1828年)11月に結納の原点となる「納采」を実施。天保2年(1831年)には江戸に入って婚姻の準備を進めていました。将軍になる前の家定と結婚した任子ですが、子どもは生まれず、嘉永元年(1848年)6月、疱瘡のためこの世を去ります。享年25歳でした。

亡くなった任子に代わり、嘉永2年(1849年)11月に婚儀をあげて正室となったのが、五摂家の一条秀子です。かなり小柄で片足が不自由だったとされますが、詳細ははっきりしていません。秀子も嘉永3年(1850年)6月に急逝しています。こうして家定は、わずか数年のうちに2人の正室を失うという不幸に見舞われたのです。

三人目の正室は、家定が将軍就任後の安政3年(1856年)に輿入れした篤姫です。薩摩藩主・島津斉彬の養女として将軍家に入った篤姫は、それまでの公家出身の正室とは異なり武家出身でしたが、形式として右大臣・近衛忠煕の養女にもなっています。

篤姫と家定の関係は悪くなかったようですが、結局二人の間に子供が生まれることはありませんでした。このほか、家定には志賀の方という側室がいましたが、こちらも子が産まれていません。家定自身、大奥に泊まることはほとんどなく、病弱だったため、子どもを作ることが難しかったようです。このことが後に将軍継嗣問題に発展します。

ペリー再来と開国の決断−日米和親条約締結

家定の将軍就任後の翌年、安政元年(1854年)1月16日、ペリーが再び日本を訪れ、開国を迫りました。家定は政権基盤が十分に整わないまま外交問題への対応を迫られることになりました。さらに家定自身の健康面の問題から、実務は老中・阿部正弘らに委ねられます。

正弘は1度目のペリー来航ののち、従来の幕府専断を改め、諸大名や旗本、さらには民間にまで幅広く意見を求めるという異例の対応をとっていました。そして2度目のペリー来航の際に交渉した結果、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、横浜村(現神奈川県横浜市)で12か条からなる日米和親条約が締結されました。その後、幕府はイギリス、ロシア、オランダと次々と和親条約を締結します。

条約締結を受け、安政3年(1856年)7月21日、初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に来日します。ハリスは日本と通商条約を結ぶために幕府に熱心に働きかけ、安政4年(1857年)10月21日、江戸城に登城して徳川家定に謁見しました。その時の様子をハリスは記録に残しており、家定は「良く通るしっかりした声」でハリスを歓迎しています。また、この際家定は頭を振り、右足を踏み鳴らすなどの動作をしたことが記録されており、脳性麻痺の症状だったのでは、と推察できます。このころの家定は、病弱ながらもしっかりと表舞台に立つことができていました。

家定時代の大問題①天皇の勅許なく日米修好通商条約を締結

家定時代の大きな問題だったのが、諸外国との通商関係をどうするか、でした。孝明天皇は和親条約には同意したものの、通商条約には反対の立場でした。また、幕府内には攘夷派の徳川斉昭をはじめ通商条約の締結に反対する派閥が根強くありました。

しかし、ハリスは中国での第2次アヘン戦争(アロー戦争、1856年〜1860年)を例に、「英国やフランスが中国を攻め取れば、次は日本の番。そうなる前に米国と組むべき」と脅しを交えながら訴えました。

ハリスの訴えを聞いた幕府は、ハリスと条約締結に向けた交渉を開始します。15回の交渉の結果、通商条約の合意がなされると、当時の老中・堀田正睦は孝明天皇の勅許を得ようと朝廷に伺いを立てます。これは日米和親条約の時も朝廷と連携していたことや、幕府内の反対勢力への説得のためでした。

ところが、朝廷の公家たちは大反発!異国嫌いとして知られる孝明天皇も許可せず、幕府に再考するよう差し戻しました。このため堀田正睦は責任をとる形で辞職しています。

安政5年(1858年)4月、大老に井伊直弼が就任すると、事態は大きく動きます。6月19日、天皇の勅許がないまま日米修好通商条約が締結されたのです。この強硬策は幕府と朝廷の関係を決定的に悪化させ、国内に大きな波紋を広げました。

実は、直弼自身は天皇の許可が必要、と考えていたようですが、交渉役の部下たちには「やむを得ない場合は(条約締結は)是非に及ばず」と話していました。部下たちは直弼の言葉を受け、条約を締結。この結果を知った直弼は辞任を検討しますが、周囲に止められて思い止まりました。

責任者の直弼を強く批判したのが福井藩主の松平慶永で、徳川斉昭や尾張藩主の徳川慶勝などと、登城日ではない日に江戸城に登城し(不時登城)、直弼や老中たちを批判・詰問しました。一方、井伊直弼は不時登城を批判し、松平慶永、徳川斉昭、一橋慶喜、徳川慶勝に隠居や謹慎を、徳川慶篤に登城停止を家定の名で命じました。こうして井伊直弼による、反幕府勢力の弾圧「安政の大獄」がスタートします。

家定時代の大問題②将軍継嗣問題と南紀派・一橋派の対立

家定時代のもう一つの大きな問題が、将軍継嗣問題です。病弱かつ実子もいない家定の後継者は早急に決定すべき課題でした。このため将軍就任中から跡継ぎ問題が勃発します。

次の将軍候補者とされていたのは、最も将軍家に近い血筋を持つ紀伊藩主の徳川慶福と、一橋慶喜でした。徳川慶福を推したのは井伊直弼ら譜代大名と大奥の面々で、「南紀(紀州を指す)派」と呼ばれました。伝統を重視する保守的な穏健派であり、血統を重視したのです。

一方、一橋慶喜を推したのは実父の徳川斉昭、薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永などの外様藩の有力者たちで、「一橋派」と呼ばれました。一橋派は自らの意見を反映した幕政改革を実施するために、聡明な慶喜に将軍に就任してほしかったのです。なお、一橋派は安政の大獄で井伊直弼に弾圧された人物です。条約締結問題の裏側には将軍継嗣問題があったのです。

安政5年(1858年)、家定の体調がいよいよ悪化すると、跡継ぎは慶福に決定されました。決めたのは家定で、6月25日に諸大名を総登城させ、「跡継ぎは慶福」という意向を自ら明かしています。慶福に決まったのは井伊直弼の後押しもありましたが、家定が昔ライバルだった慶喜を嫌っていたことも一因でした。慶喜は美青年で大奥から人気が高く、父・家慶にもかわいがられていた人物。家定がコンプレックスを抱き、嫌っていたとしてもおかしくありません。

ちなみに、篤姫は斉彬の指示により、慶喜を次の将軍にしようと家定に訴えますが、家定の反発を受け、慶福推しに代わっています。

こうして跡継ぎを慶福に定めた家定ですが、まさにその日に体調不良で倒れてしまい、病状が悪化。1か月後の安政5年7月6日、家定は死去しました。享年35でした。死因は脚気だとされていますが、毒殺説も存在しています。

徳川家定は「無能」ではなかった?近年の再評価

徳川家定は長らく「病弱で無能な将軍」として語られてきました。言動が不安定であった、政治判断ができなかったといった評価は、幕末の混乱期における無能な将軍像として広く定着しています。

前述の通り、家定は会話に支障があった、首を振る癖、足を踏みならす癖があったなどが当時の記録からわかっており、脳性麻痺の可能性が指摘されています。さらに、30歳をすぎてからもガチョウを追い回し、銃剣で家臣を追い回す、病気の家慶にお粥を作り、障子に穴をあけて食べている様子を覗き見る、など、子供のような行動も見られました。松平慶永が記した『逸事史補』によれば、家定は「凡庸中の極三等」であり、幕末の多難時に将軍であることは難しいため、皆は一橋慶喜のような「明将軍」を希望している、と書かれています。

しかし、近年研究者からは、こうした家定の様子は政治的対立のなかで誇張されている可能性があるとの説が出ています。とくに将軍継嗣問題で南紀派と一橋派が対立する中、一橋派は家定の評価をあえて下げることで「英明な一橋慶喜を将軍に選ぶべきだ」と訴えていたようです。

それでは実際の家定はどのような人物だったのでしょうか。関係者の証言からは、少し癇癪持ちで内気ではあるが、穏やかで思慮深い人物である、と言った人物像が浮かび上がってきます。

例えば、家定に仕えた奥女中の佐々静子は「御癇癖がございました。しかし余り困るようなことはございませぬ」と証言しています。さらに、勝海舟は回想で、家定は開国を決断し、堀田正睦に貿易の方法を調査するよう命じていた、と振り返っています。

さらに、一橋派からも「暗愚と言われているが、文化~天保の頃(=平穏な時代)に将軍になっていればこのように酷評されなかった」「外様や譜代大名であれば相応に評価されていたはず。将軍に生まれたのが不幸」という意見も出されています。家定=暗愚、というのはイメージに過ぎなかった、ということでしょう。

家定の死後、安政の大獄が激化

家定の死後、安政5年(1858年)7月6日に徳川家茂が将軍に就任しますが、幕府はすでに深刻な内部分裂と外交問題を抱えていました。井伊直弼による安政の大獄では、最終的には一橋派を中心に100名以上が厳しく弾圧されました。このため井伊直弼は多くの人々から恨みを買うことになります。
万延元年(1860年)3月3日、井伊直弼は江戸城外桜田門付近で水戸脱藩浪士らの襲撃を受け、首を刎ねられ命を落としました(桜田門外の変)。家定時代の末期を支えた直弼はこうしてこの世を去りました。江戸城の目の前で重臣が殺害されたことで、幕府の権威は大きく失墜します。これにより尊王攘夷運動はさらに激化し、幕府は次第に統治力を失っていきます。
徳川家定の時代に表面化した対立と矛盾は、その後の政局に引き継がれ、やがて幕府崩壊へとつながっていきます。家定とは、まさにその転換点に立っていた将軍だったのです。

【参考文献など】
  • 『徳川15代将軍 解体新書』河合敦
  • 『徳川15代のすべてがわかる本 その系図から史跡・埋蔵金伝説まで』 歴史読本編集部/編
  • 『歴史人 2023-11:第14巻_第11号:No.155』
  • 歴史書通信No.181
関係する事件
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。