新選組幕末に活躍した幕府最後の剣客集団

新選組

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人物記
名前
新選組(1863年〜1869年)
出生地
京都府
関係する事件

幕末の京都で最も名を恐れられ、強烈な印象を後世に残した剣客集団「新選組」。歴史好きなら「誠」の文字や浅黄色の羽織を見て、新選組を思い浮かべる人も多いでしょう。徳川幕府の治安維持組織として誕生し、池田屋事件等で名を上げた新選組は、大河ドラマや小説、漫画やゲームなどさまざまな作品の題材となってきました。今回は幕府が崩壊するなか、最期まで戦い抜いた新選組について解説します。

新選組の前身・浪士組

新選組の前身となったのは、文久3年(1863年)2月に江戸で結成された「浪士組」です。清河八郎の呼びかけにより集められ、将軍・徳川家茂の上洛警護を目的として編成されました。

浪士組は年齢や身分を問わず募集され、234名が集まりました。その中には、後に新選組の中核となる近藤勇や土方歳三、沖田総司、井上源三郎らが含まれていました。近藤は江戸市中の天然理心流道場「試衛館」の主で、土方歳三ら門弟や、食客だった永倉新八、原田左之助、藤堂平助たちとともに浪士組に参加しています。

浪士組は将軍を警護するための組織でしたが、清河八郎は京に到着すると尊王攘夷派として朝廷に接近し、浪士組を尊王活動の組織に変えようと企みました。

この方針転換に反発したのが、近藤勇や土方歳三ら試衛館派と、芹沢鴨ら浪士組の一部でした。彼らは清河八郎と袂を分かち、浪士組が江戸に戻るなか京都に残り、京都守護職を務める会津藩の預かりとなります。

壬生浪士組の結成

京都に残った近藤勇達は壬生村(京都市中京区周辺)に屯所を構え、文久3年(1863年)3月に「壬生浪士組」を結成しました。壬生浪士組は京都守護職・松平容保の指揮下に入り、市中警備や不逞浪士の取り締まりなど、京都の治安維持活動に従事しました。

初期メンバーは24名(諸説あり)で、近藤勇率いる試衛館一派と芹沢鴨率いる芹沢一派のほか、根岸友山や殿内義雄などが名を連ねました。当初は芹沢鴨、新見錦、近藤勇が局長に就任し、土方歳三と山南敬助が副長に選ばれました。しかし結成直後から内部対立が起こり、殿内義雄が暗殺され、根岸友山は脱走しています。

幻の鉄の掟「局中法度」

壬生浪士組は隊士の募集と並行して、隊の規律や体制を整え、隊服や旗の制定などを通じて組織としての形を固めていきました。

新選組の掟として有名なものが「局中法度」ですが、晩年まで生き残った永倉新八の証言によれば当時そのような名前の掟はなく、「禁令」と呼ばれる規則があったようです。

禁令は「士道ニ背キ間敷事、局ヲ脱スルヲ不許、勝手ニ金策致不可、勝手ニ訴訟取扱不可」の4項目で、これに背いた場合は切腹という厳しい処分が科されていました。

この禁令をもとに、私闘禁止の項目を加えて「局中法度」を創作したのが、昭和3年(1928年)に『新選組始末記』を著した子母澤寛でした。つまり「局中法度」は後世の創作だったのです。

八月十八日の政変で活躍、「新選組」へ

壬生浪士組が名を上げる契機となったのが、文久3年8月18日(1863年9月30日)に起こった「八月十八日の政変」です。会津藩や薩摩藩をはじめとした公武合体派が、急進的な尊皇攘夷派を朝廷から排除した政変で、長州藩や三条実美ら過激攘夷派の7人の公家たちが京から追放されました。

政変に際し、壬生浪士組は正午ごろ出動を要請され、「誠」の隊旗を掲げて蛤御門に到着します。そこで会津藩士から御所の御花畑門を守るように命じられ、門を守備しました。その功績が認められ、壬生浪士組は「新選組」の名を与えられます。ちなみに、この「新選組」という名は武家伝奏を通じて朝廷が与えたという説と、松平容保が与えたという説があります。

新選組による粛清①芹沢鴨暗殺事件

新選組では内部粛清が繰り返されましたが、一番有名なものが局長・芹沢鴨の暗殺です。文久3年(1863年)9月16日、芹沢鴨は新選組の屯所だった八木邸(京都府京都市中京区壬生)の奥座敷で、愛人のお梅と就寝中に襲われて命を落としました。実行犯は諸説ありますが、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助だったと言われています。

芹沢鴨はなぜ暗殺されたのか。試衛館派と芹沢派の派閥争いに加え、芹沢鴨の素行の悪さも一因でした。酒や女性問題によるトラブルに加え、文久3年6月には大坂で力士と乱闘事件を起こし、8月には金策を断られたことに腹を立て、京都の生糸問屋・大和屋庄兵衛の家を焼き討ちしています。また、鴨は攘夷思想が強く、会津藩から警戒されていたと考えられています。

池田屋事件で一躍有名に

新選組の名を一躍有名にしたのが、元治元年6月5日(1864年7月8日)の「池田屋事件」です。長州藩を中心とする尊王攘夷派が、京都市中に火を放ち、天皇を長州へ連れ去ろうとする計画を立てているとの情報を掴んだ新選組が、尊王攘夷派が会合を開いていた池田屋を急襲しました。

5日の夜、新選組は山南敬助ら6名を守備のために屯所に残し、近藤勇ら率いる近藤隊、土方歳三率いる土方隊が2手に分かれて尊王攘夷派の捜索を開始。近藤隊が池田屋に志士たちがいるのを発見して討ち入りました。

激戦の末、尊王攘夷派の宮部鼎蔵、「松下村塾の三秀」の一人として知られる吉田稔麿などが命を落としました。新選組も数名の死傷者を出しましたが、かなりの乱戦だったことに加え、会津藩・桑名藩が周辺一帯を制圧したことなどから正確な数はわかっていません。また、池田屋での戦闘中に沖田総司が肺結核により血を吐いた、という有名な逸話がありますが、こちらは後世の創作だと言われています。

禁門の変で活躍し、最盛期を迎える

池田屋事件で大打撃を受けた長州藩ら尊王攘夷派は勢力を回復しようと挙兵します。元治元年7月19日(1864年8月20日)、京都御所の西側にある蛤御門付近を中心に、長州軍と幕府軍が激突する「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発しました。この際新選組は出陣し、旧東九条村(京都市南区)周辺で長州軍と銃撃戦を展開し、長州軍を撃退。敗走して天王山に立てこもった真木保臣(和泉)を追撃しています。

池田屋事件と禁門の変の活躍により、新選組は朝廷や幕府、会津藩から功績が認められ、約200両の恩賞を下賜されます。こうして新選組は京都治安の要として人々から認められるようになったのです。

新選組は更なる組織拡大に向け、江戸の剣術道場を訪問してスカウトを実施。この際加わった隊士で有名なのが、元治元年(1864年)11月に加わった藤堂平助の同門の伊東甲子太郎です。
一連の隊士募集の結果、新選組は約200名の大所帯まで拡大し、壬生にあった屯所を西本願寺に移しています。

その後、元治元年(1864年)7月には第一次長州征伐が、慶応2年(1866年)6月には第二次長州征伐が起こりますが、新選組は第二次長州征伐への参加を見越して行軍録を策定するなど準備を進めていましたが、結局参加することはありませんでした。

新選組による粛清②御陵衛士との抗争

慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎ら14名の隊士が思想の違いなどから脱退し、孝明天皇の御陵を守るための「御陵衛士」を結成します。甲子太郎は新選組の参謀となっていましたが、もともと倒幕思想の持ち主で、佐幕派の新選組とは相容れない部分があったのです。

新選組は脱退を禁じていましたが、甲子太郎は「孝明天皇の御陵を守る」「尊王攘夷派に近づいてスパイのような役割をする」という名目で脱退に成功しました。なお、同年6月に新選組は幕臣に取り立てられています。

幕臣となった新選組と御陵衛士の関係は険悪なもので、思想や立場の違いから、両者は激しく対立するようになりました。同年11月18日、新選組は「油小路事件」を起こし伊東甲子太郎ら4名を暗殺しました。実行犯ははっきりしていませんが、密偵として潜入していた斎藤一、原田左之助、永倉新八などが出動したのではと言われています。この時、伊東甲子太郎に付き従っていた新選組創設メンバーの藤堂平助も亡くなりました。

鳥羽・伏見の戦いでの敗北

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、徳川慶喜が大政奉還を行うと、薩摩藩・長州藩ら討幕派は同年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令を出し、幕府と摂政・関白の廃止、新三職の設置を宣言します。直後に開催された小御所会議では徳川慶喜の辞官納地、つまり朝廷の役職である内大臣の辞任と、幕府領半分にあたる200万石を朝廷に返す事が決定しました。

これに対し旧幕臣や会津藩・桑名藩は激怒し、慶喜のいる大坂城に集結し、大軍を編成して京に向かいました。こうして慶応4年1月3日(1868年1月27日)、旧幕府軍と新政府軍が長きにわたって戦った「戊辰戦争」の初戦である、「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。

新選組は旧幕府軍の一部として、土方歳三率いる約150名が戦闘に参加しました。ちなみに近藤勇は御陵衛士の残党の襲撃を受け、大坂で療養中でした。

新選組は奮闘しましたが、薩摩・長州を中心とする新政府軍は近代兵器で武装しており、戦力差は明白でした。さらに翌1月4日、新幕府軍は「錦の御旗」を持ち出し、旧幕府軍が「朝敵」であることをアピールしたことで、旧幕府軍の士気は大きく低下しました。

1月6日に戦闘は終了し、旧幕府軍は敗北。徳川慶喜は同日夜に大坂城を脱出して江戸に戻ってしまいました。新選組は慶喜を追う形で、軍艦に乗り江戸に戻りました。

鎮撫隊と近藤勇の死

慶応4年(1968年)2月、新選組は幕府から「甲陽鎮撫」、つまり甲府の鎮定を命じられました。これは近藤勇が徳川慶喜に対し、甲府の支配を申し出たため。勇は甲府で新政府軍を止め、甲府城に慶喜を移して新政府軍と戦おう、と考えていたようです。

新選組は「鎮撫隊」(甲陽鎮撫隊)と名を変え、資金と武器を得たうえで3月1日に甲府に向かいました。ところが甲府城はすでに新政府軍の板垣退助が入城していました。新選組は3月6日、甲府で新政府軍と戦いましたが(甲州勝沼の戦い)あえなく敗退し、江戸に敗走しました。

その後、新選組は会津で再起をはかろうと計画します。この際、近藤勇は永倉新八、原田左之助らに自分の家臣になるようにと告げたことで2人と決裂し、二人は鎮撫隊を脱退します。

また、沖田総司も肺結核が悪化し、このころから戦闘に参加せず療養生活に入っています。こうして新選組は次々と中核メンバーが減っていきます。

慶応4年(1868年)4月、新選組は再起をかけて下総国流山(千葉県流山市)に移動しますが、そこで新政府軍に包囲されました。近藤勇は「大久保大和」と偽名で投降して土方歳三(当時は内藤隼人)らを逃がしました。

しかし、身元が判明したことで江戸に送られ、慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場で斬首されました。土方歳三は勇の助命嘆願をしたものの果たされませんでした。なお、その2ヶ月後、沖田総司も江戸で肺結核のため亡くなっています。

箱館戦争と土方歳三の最期

その後、土方歳三は旧幕府軍と合流し、4月11日江戸が無血開城されると江戸から逃れます。そして宇都宮の戦いや会津戦争などに参加。会津では新選組隊士の斎藤一とともに攻防戦に参加しましたが、新政府軍にはかなわず、明治元年9月22日(1868年11月6日)、会津藩は新政府軍に降伏しました。

土方歳三ら旧幕府軍の残存勢力(斎藤一は会津に残留)は会津を離れ、仙台で蝦夷地(北海道)をめざしていた榎本武揚に合流します。そして蝦夷地に渡った旧幕府軍は五稜郭を攻略し、武揚を総裁とした「蝦夷共和国」(箱館政権)を設立。土方歳三は「陸軍奉行並」に就任しました。

武揚は蝦夷共和国について、「徳川家の石高が70万石になったことで、生活に困るであろう旧幕臣を蝦夷地の開拓と北方警備に担わせようとした」と新政府に説明しました。しかし、新政府は蝦夷共和国の存在を許しませんでした。

こうして明治元年(1868年)10月から蝦夷共和国対新政府軍の間で箱館戦争が勃発します。土方歳三は二股口の戦いなどで活躍しますが、明治2年(1869年)5月11日に箱館山が陥落。土方歳三も同日、一本木関門付近で狙撃され戦死しました。

5月12日には五稜郭に対し、箱館湾から幕府軍が一斉に艦砲射撃をおこない、旧幕府軍は大ダメージを受けます。5月18日、旧幕府軍は五稜郭を開城し、戊辰戦争の最後の戦いとなる箱館戦争は終結しました。こうして新選組は戊辰戦争の終焉とともに歴史の舞台から姿を消しました。

新選組の「生き残り」達

戊辰戦争の終結により新選組は終焉を迎えましたが、明治後も新選組の関係者たちが生き残っていたことが記録からわかっています。有名なのが永倉新八で、明治維新後は松前藩に戻り、北海道小樽市に移住。新聞記者の取材に答えた内容が『新選組顛末記』としてまとめられ、貴重な資料となっています。

また、会津戦争で離脱した斎藤一も生き残り、警視庁に勤務。西南戦争にも参加し、晩年は東京女子師範学校に勤務していました。

このほか「最後の新選組隊士」として知られるのが池田七三郎。慶応3年(1867年)に入隊後、斎藤一とおなじく会津戦争で降伏して生き延び、昭和13年(1938年)に亡くなりました。

関係する事件
栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。