ニコライ・レザノフ鎖国下の長崎を訪れたロシア使節が招いた文化露寇

ニコライ・レザノフ
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- ニコライ・レザノフ(1764年〜1807年)
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- ロシア
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江戸時代、ロシアは鎖国下の日本をたびたび訪れ、開国・通商交渉を行いました。最初に訪れたアダム・ラクスマンから約12年後、ロシア帝国の外交使節団を率いて訪れたのがニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(以下レザノフ)です。幕府はレザノフに冷たく対応し、それが後にロシア軍の樺太・択捉への襲撃、いわゆる「文化露寇(ぶんかろこう)」を招く結果となりました。今回は日露間の交渉のキーパーソン、レザノフについて詳しく解説します。
レザノフとは?ロシアが日本に派遣した外交官の正体
レザノフは宝暦14年(1764年)、サンクトペテルブルクに生まれました。父のペトル・レザノフは官僚階級に属し、地方裁判所などに勤務していました。当時のロシアはエカチェリーナ2世の啓蒙専制期で西欧的な学問・科学・行政改革が進められており、レザノフも幼いころから学問に励みました。14歳のころにはなんと5ヶ国語も習得していたそうです。
安永7年(1778年)、砲兵学校を卒業したレザノフは近衛連隊に転属となりました。退役後は裁判所判事などを歴任。その後再び官僚となり、イルクーツクで毛皮商人で冒険家でもあるグリゴリー・シェリホフと関わるようになります。
シェリホフは、アリューシャン列島やアラスカ沿岸で毛皮交易を進め、シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社を築いた人物。レザノフはシェリホフの娘のアンナと結婚しました。これにより、レザノフは毛皮会社の共同経営者として、毛皮貿易や植民活動に深く関与していきます。結婚により、単なる宮廷官僚から実業・外交の接点に立つ人物へとなったのです。
ロシアのアラスカ支配で「露米会社」を設立
当時のロシアは、毛皮を「北の金」「柔らかい金」と呼び、アリューシャン列島からアラスカにかけての経済的支配を強めつつありました。レザノフはペテルブルクに戻ったのちに元老院書記官長となり、貿易を独占すべく勅許会社の設立に奔走します。
そしてロシア皇帝のパーヴェル一世から許可を得て、寛政11年(1799年)、交易圏を統括する勅許会社「露米会社」を設立しました。露米会社はアラスカやアリューシャン列島、千島列島での毛皮採取や鉱物採掘を20年間独占することを認められました。レザノフはこの露米会社の総支配人に任命されたのです。
レザノフは会社経営に加え、交易路の開拓・指導、アリューシャン諸島やシベリア沿岸の調査・航路確保、毛皮乱獲を抑えるための監視制度の設立、先住民との取引ルールの整備、教育・医療の導入など、多岐にわたって活躍しました。とはいえ、アラスカ植民地は慢性的な食糧不足にあり、ロシア本土からの物資輸送も容易ではありませんでした。レザノフは補給拠点として、近隣の清国や日本との通商の必要性を感じるようになります。このためレザノフは遣日使節の派遣の重要性を当時の皇帝・アレクサンドル1世に訴えました。
享和元年(1802年)1月、海軍大尉のアダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが、英国が毛皮を米国北西海岸からわずか往復5ヶ月で広東に運び、莫大な利益を出していることを指摘し、広東貿易の重要性を訴えます。当時のロシアはイルクーツクからキャラバン貿易で中国に2年がかりで毛皮を輸送しており、英国のスピードにははるかに劣っていたのです。
これを受けたアレクサンドル1世は同年7月、ロシア初の世界周航計画を承認しました。探検隊長はクルーゼンシュテルン、副官はユーリー・リシャンンスキー海軍中尉が任命されました。レザノフはこの一行に遣日使節として参加することに成功します。
レザノフらが世界一周、仙台からの漂流民も参加
レザノフはクルーゼンシュテルンとともに享和3年6月16日(1803年7月22日)、旗艦ナデジダ号でクロンシュタットから出港しました。この船には寛政5年(1793年)に漁船「若宮丸」が遭難し、ロシア帝国に保護されていた仙台の漂流民4名も乗っていました。ちなみにこの4名は、日本で初めて世界一周を成し遂げた人物としても知られています。
ナデジダ号はデンマークやイングランド、カナリア諸島のテネリフェ島、ブラジルのサンタ・カタリナ(当時はポルトガル領)、南アメリカ最南端のホーン岬を経てハワイ諸島(当時はサンドイッチ諸島)を経由し、文化元年(1804年)6月9日、カムチャッカのペテロパウロフスクに到着。そこから長崎に向かいました。
長い航海の最中、レザノフは艦長のクルーゼンシュテルンと激しく対立しつつも、日本人漂流民から日本語を学び辞書を作成し、外交の準備を整えました。両者の対立の理由は、世界周航を企画したクルーゼンシュテルンと皇帝から「探検隊の司令官」という勅書を得ていたレザノフのどちらがトップなのか、という点でした。
航海中もめ続けた2人でしたが、ペテロパウロフスクで和解。レザノフが総指揮権を持つ事が認められ、クルーゼンシュテルンがレザノフに謝罪するかたちで収めました。
レザノフの長崎来航①開国を迫るも、上陸まで2ヶ月かかる
文化元年(1804年)8月3日、ナデジダ号は日本へと出発しました。ラクスマンが受け取った長崎の入港許可証にあたる「信牌」を持参し、日本と開国・通商を交渉しようとしたのです。
9月6日、ナデジダ号は長崎港沖に無事到着し、レザノフは早速江戸幕府との交渉を開始しました。レザノフはロシア皇帝のアレクサンドル1世の国書と献上品を渡したいと主張しますが、長崎奉行所はすぐに上陸を許可しません。国書の写しを翻訳し、江戸幕府に送るなどして対応を協議していたためです。
一方、レザノフは日本に向かう途中で暴風雨でナデジダ号が破損したことで焦っていました。船の浸水がひどく、持参した贈答品に被害が出る可能性があったからです。早く船を長崎に停泊し、献上品などを陸揚げするとともに、一行を上陸させるよう要求しましたが、なかなか実現しません。結局一行が上陸できたのは11月17日に入ってのことでした。
その後、一行は長崎の宿舎で長く留め置かれ、レザノフは徐々に体調不良を訴えるようになりました。うつ病にかかってしまったとも言われています。そんな滞在生活でしたが、ロシア人達は測量やはく製などを通し、日本を調査し続けました。
レザノフの長崎来航②鎖国下の幕府、通商を拒否
レザノフの長崎来航の知らせは、9月末に江戸に届けられ、その後遂次情報がやり取りされました。幕府は老中・土井利厚を中心に対応について協議しました。以前にラクスマンが訪れてから約12年経過しており、ラクスマンに信牌を渡した老中・松平定信は失脚。かじ取り役が変わったことで政府の方針も鎖国強化に変更されていました。
こうした状況のなか、レザノフは開国に加え、日本との通商開始を希望したのです。このため長崎奉行は「通商は難しいだろうがどうするべきか」と幕府に伺いを立てています。
幕閣は勘定奉行、寺社奉行、町奉行ら三奉行や儒学者の林述斎など学者に意見を求めました。その結果、「祖法」を理由に開国・通商を拒否することが決定されました。レザノフへの対応については『大河内文書 林述斎書簡』で土井利厚が「レザノフに乱暴な応接をすればロシアは怒ってもう二度と来ないだろう。もしそれでロシアから武力行使されても日本の武士は後れはとらない」と主張したといいます。このため、ロシア皇帝の全権大使であるにもかかわらず、レザノフへの対応は厳しいものとなりました。
12月、幕府は通商を拒否するとともに、それを了承しない限りは仙台漂流民の受け取りも行わないことを決定しました。
レザノフの長崎来航③外交失敗、失意のまま日本を去る
レザノフへの対応を決定した江戸幕府は、代表として目付の遠山金四郎景晋を長崎に派遣します。また、文化2年(1805年)1月19日、長崎奉行のもとに日露会談の手順などを記した最終下知状が通達されました。
そして3月6日、第一回目の日露会談が行われました。このときレザノフは日本との通商開始を主張しますが、日本側は通商はせず、レザノフには退去するように申し渡しています。さらに日本側は「ラクスマンの際に国書などを持ってくることを禁じたが、なぜ今回持ってきたのか」と、ロシア側にとっては寝耳に水の内容で批判しました。
3月7日の二回目の会談では日本側がいわゆる「鎖国」をしており、中国、朝鮮、琉球王国、オランダ以外は通信・通商しないと改めて説明しました。さらにロシア側には薪や水などの航海に必要なものを供与するので、退去してほしいと伝えました。レザノフは結局、この決定を受け入れざるを得ませんでした。
その後、日本側から薪や水などを受け取る代わりに、ロシア側が贈り物をすることで双方が合意。3月9日の三回目の会談ではロシア側がこれまでの謝意を、日本側が航海の無事を祈る旨を伝えあい終了しました。なお、仙台漂流民については3月10日に日本側に引き渡されました。
アラスカやカリフォルニアで活躍
結局レザノフは日本の開国・通商というミッションを果たすことができないまま、3月19日にナデジダ号とともに長崎を出発しました。その後は日本海に入り、日本の北西沿岸を調査しつつ北上し、北海道のノシャップに到着して上陸しています。カムチャッカのペテロパウロフスクに到着したのは5月9日のことでした。
レザノフはアレクサンドル1世に対し、「武力による対日通商関係樹立」を上申し、日本に武力行使して開国要求すべきと主張しました。また、開国・通商交渉の失敗について、オランダ出島商館長のドゥーフによる邪魔が入ったからだと考えたようです。
一方、ドゥーフは自著『日本回想録』で、ロシアから協力を要請され助言したが、幕府との間で中立を保って対応し、妨害はしていないことを弁明しています。さらにロシア使節が日本に対して礼節を欠いた振る舞いをしたことが失敗の原因だったと記しました。
その後、レザノフはアラスカに渡って越冬し、食糧不足に悩むアラスカの人々を助けるためにスペイン領カリフォルニアに渡って食料を調達。アラスカの食糧危機を救いました。ちなみにカリフォルニア時代、レザノフはアルタ・カリフォルニア総督の15歳の娘・コンセプシオンと恋仲になり婚約しています。
レザノフによる報復措置「文化露寇」
文化3年(1806年)8月8日、レザノフはオホーツクに戻り、部下のフヴォストフ中尉に、樺太・千島にある日本の拠点を攻撃するよう命令を出しました。レザノフは同日の書簡で、日本がラクスマンの時に通商に同意しているのに、自分の使節団に対して通商を拒絶したことを「背信行為」だとして批判しました。
そのうえで樺太南部のアニワ湾を訪問して日本船を焼き討ちし、労働できる健康な人間がいたら連れ帰るよう求めています。レザノフは捕らえた日本人をアラスカに連れていき、開拓に従事させようと考えていたようです。また、この遠征の目的については誰にも漏らさないようにと念押ししています。
その後、9月24日には「指示書の補足」が出ていますが、これは8月8日のものとは異なり、かなり曖昧なものでした。内容としては「オホーツクで、君たちにゆだねたことをもう一度審議する必要性がある」、とし、そのうえで「船の破損を受けできるだけ早くアメリカに戻るように」「風の都合がよくアニワ湾に立ち寄れたら、日本人の拠点を偵察するように」と命じました。不測の事態があった場合は、常に露米会社の利益を念頭に置くように、としており、アニワ湾の日本基地の襲撃を実行するのかしないのか、あいまいな内容でした。
結局フヴォストフはこの補足書を無視し、文化3年(1806年)9月、レザノフの最初の命令通り樺太のアニワ湾沿いにあった日本人居留地を襲撃。さらに択捉島や利尻島などの拠点を襲いました。いわゆる「文化露寇」です。
一方のレザノフはといえば、フヴォストフに指令を出したのち、皇帝にスペインと通商条約締結を奏上するために首都のペテルブルクに向かいます。シベリアを横断するなか、長年の過酷な航海がたたり、健康を害していたレザノフはクラスノヤルスクで倒れ、文化4年(1807年)3月、43歳の若さで死亡しました。
- 関係する事件
- 執筆者 栗本奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。