アダム・ラクスマン大黒屋光太夫を送還し、日露「初」交渉に挑んだ人は何を成し遂げたのか

アダム・ラクスマン

アダム・ラクスマン

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人物記
名前
アダム・ラクスマン(1766年〜1806年)
出生地
ロシア
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江戸時代、日本と最初の開国・通商交渉に及んだ国はロシアでした。その最初の訪日使節が寛永4年(1792年)9月に根室に来航したアダム・ラクスマンです。漂流日本人の大黒屋光太夫らの送還と通商を目的に日本に訪れ、日露“初交渉”の扉を開いたラクスマンは、通商関係の樹立までは至りませんでしたが、その後の日露関係にとって重要な一歩を残しました。今回はラクスマンについて解説します。

なお、今回はロシア帝国の人物を取り上げていますが、混乱を避けるため年号はロシア暦を使用せず、和暦(グレゴリオ暦)で表記しています。

父キリル・ラクスマンと大黒屋光太夫の交流

明和3年(1766年)、アダム・キリロヴィチ・ラクスマン(以下アダム・ラクスマン)はフィンランド生まれの博物学者、キリル・ラクスマンの次男として生まれました。後にロシア帝国(ロマノフ朝)の陸軍中尉を務めます。

父親のキリル・ラクスマンはイルクーツクに住み、イルクーツク郊外でガラス工場を経営していました。また、アラスカや日本の学術調査に強い関心を持っていました。そこへロシア人に保護されていた大黒屋光太夫ら漂流民が移動してきたのです。

キリル・ラクスマンは日本への帰国を求める光太夫達漂流日本人を援助します。食事を届けたり、ロシア帝国政府への嘆願書を書いたりと、手厚くサポートをする一方、大黒屋光太夫達に日本地図を描かせるなど日本の情報を集めました。

エカチェリーナ2世に帰国を嘆願

その後、キリル・ラクスマンは日本への帰国を求める大黒屋光太夫達と首都のサンクトペテルブルクに向かい、漂流日本人を帰国させるための使節団の日本派遣を願い出ます。キリル・ラクスマンは日本探検を計画しており、息子を団長として派遣しようと考えたのです。

サンクトペテルブルクに到着後、キリル・ラクスマンは病気になってしまい手続きが遅れますが、寛永3年(1791年)6月9日、大黒屋光太夫とともにエカチェリーナ2世と謁見し、漂流日本人達の帰国を訴えました(※日付には諸説あり)。

その後エカチェリーナ2世は日本との国交・通商関係の樹立を目的に大黒屋光太夫を日本に送還するとともに、日本への使節団の派遣を決定します。その背景としては、イルクーツク商人たちが日本との通商を求めていたことがありました。当時ロシア帝国は千島列島に進出しており、同地でのラッコなどの毛皮獣猟のための弾薬や生活物資の補給が必要で、このため日本との通商関係の樹立が望まれていたのです。

ラクスマン使節と大黒屋光太夫達、日本へ

エカチェリーナ2世から使節団の派遣を命じられたイルクーツク総督のイヴァン・アルフェリエヴィチ・ピーリ陸軍中将はキリル・ラクスマンと相談して使節団の準備に取り掛かります。このとき使節として選ばれたのが26歳だった息子のアダム・ラクスマン中尉でした。アダム・ラクスマンはペテルブルク大学からの派遣でイルクーツクに滞在しており、この際父とともに大黒屋光太夫と知り合いっていました。

こうしてアダム・ラクスマンと大黒屋光太夫、磯吉、小市ら漂流日本人3名は寛永4年(1792年)5月20日にイルクーツクを出発してオホーツクに向かいます。そして8月9日、エカチェリーナ号に乗って日本へと出発しました。

根室に到着したのは寛永4年9月5日のこと。根室にいた松前藩士たちと交渉を開始しました。松前藩は急いで江戸の幕府に報告します。アダム・ラクスマンは江戸を訪問して3名の漂流日本人を直接江戸幕府の役人に引き渡したいと希望していました。

幕府は通商は拒否、漂流民送還は容認

松前藩からの書簡を受け取った老中の松平定信は、他の老中や若年寄、三奉行に幕府の対応について助言を求めました。当時の幕府は「鎖国」政策をとっており、寛政3年(1791年)9月には、定信が「異国船取扱令」を出しています。

これは異国船が見つかり次第、筆談役や見分の者を派遣して内部を臨検するとともに、保護して早々に引き払ってもらうようにとしています。臨検を拒否した場合は「船をも人をも打ち砕き」、船員を切り捨てても召し捕らえてもやむを得ない。さらにその場合は大筒(大砲)や火矢を使うことも「勝手次第」としています。

そんな状況でのアダム・ラクスマンの訪日については、幕閣内で意見が割れました。穏便に取り扱って長崎に送るべきという意見と、ロシア船は討ち払うべき、という意見があったようです。ただし、両者ともに「江戸には来るな」という点では共通していました。

結局松平定信はアダム・ラクスマンと松前で交渉を進めることにし、目付の石川忠房、村上義礼を宣諭使(幕府の意向を相手に伝えるスポークスマン)として派遣することを決定しました。また、ラクスマンの申し出に対しては、日本人漂流民は受け入れ、ロシア側が通商を求めて江戸に行きたいと強く主張した場合は長崎に移動し、長崎で通商問題について話し合うように回答するよう、忠房に命じました。松前藩に対しては、使節がつくまでロシアから来た一行を丁寧にもてなすよう命じています。

ラクスマンが日本に伝えた!? スケートやサウナ

アダム・ラクスマンたちロシア一行は根室で江戸幕府の指示を待っていましたが、北海道での越冬のためには宿舎が必要でした。このため9月中旬から宿舎を建設。一行は10月には1か月交代の警備兵だけを残して宿舎に入り、翌年春まで8か月にわたって越冬のために根室で暮らすことになります。なお、この越冬中に漂流日本人のひとりだった小市が壊血病と推定される病により亡くなっています。

根室滞在中のアダム・ラクスマンは、越冬に加えイルクーツク総督のピーリ陸軍中将の命令を受け、日本の植物や鉱物を採取し標本を作成したほか、根室湾の測量など、博物学・生物学・地理学的な調査を実施しました。また、特に毛皮の通商などの関係からアイヌの情報を得ようとしていたようですが、幕府側が警戒したことでなかなかうまくいかなかったようです。

さらにアダム・ラクスマンたちはこのときロシア風蒸し風呂も作っており、これが日本最古のフィンランド式サウナだといわれています。また、ラクスマンはアイススケートや紅茶も伝えたとされています。

11月27日には幕府の役人が根室に到着。ロシアの事情を聞き取り調査し、ロシアの地図や日本初のロシア語の辞書等を作成しています。

箱館を経て松前へ、二国間の交渉開始

寛永4年(1792年)4月1日、春になり松平定信が命じた使節団が根室に到着します。幕府側が求めたのは、アダム・ラクスマン達の松前への移動でした。ラクスマンは当初拒否しますが、結局移動を受け入れ、一行はエカチェリーナ号に乗り込みます。そして箱館などの港を経てラクスマンたちは6月20日に松前に到着しました。

両国間の交渉は3回に渡りました。6月21日に松前藩浜屋敷で行われた会談で、アダム・ラクスマンは漂流日本人の返還を契機とした国交や通商関係の樹立を要求しますが、幕府は国法にのっとり通商を拒絶。ただし、6月24日に行われた2回目の会談では、幕府からは国交・通商問題で交渉するのであれば長崎で実施すべきであり、長崎の入港許可証である「信牌」をラクスマンに渡すことを確約しています。

この中途半端な対応の裏には、幕府側が現時点では通商を拒絶するものの、アダム・ラクスマンがもし長崎まで来て交渉した場合、一時的に通商を開始せざるを得ない、との考えがあったようです。または防備を固める時間を稼ぐために長崎に送ったという説もありますが、この辺りははっきりわかっていません。なお、同日、会談後に漂流日本人2名の引き渡しが行われました。

3回目の会談で信牌が渡され、アダム・ラクスマンは6月30日に松前を出発。7月4日に箱館に到着します。そして7月16日、ラクスマン一行の乗り込んだエカチェリーナ号は箱館を出発し、オホーツクに戻りました。幕府との交渉により長崎の信牌を手に入れたことで、一度ロシア本国に報告に戻ったのです。

オホーツク港に8月14日に到着したアダム・ラクスマンは翌年2月にイルクーツクに帰り、日本に関する報告書や採取した標本などをイルクーツク総督のピーリに提出しました。それをもとにピーリはエカチェリーナ2世に報告をあげます。

その後、アダム・ラクスマンは父のキリル・ラクスマンとペテルブルクに移動し、エカチェリーナ2世に拝謁。訪日の報告を受けたのち、功績をたたえられたキリルは聖ウラディミル4等勲章を与えられました。一方アダムは昇進しています。このときラクスマン家の紋章として、ロシア帝国の紋章である「双頭の鷲」、フィンランドの紋章「ライオン」、日本にちなんだ「3本の日本刀」を組み合わせた紋章が下賜されています。

なお、その後のアダム・ラクスマンについてはよくわかっていません。

レザノフ来航から文化露寇へ

アダム・ラクスマンの訪日使節団の結果、ロシアは幕府の対応について「交易は結べそうなのでは?」という考えを得ました。長崎に信牌を持参すればかなり前向きな対応が返ってくるのではと考えたのです。

このため、イルクーツク商人たちは活気づき、寛政7年11月(1795年12月)にキリル・ラクスマン経由で日本への使節団の再派遣を要請しますが、キリルがひと月もたたないうちに亡くなってしまいます。その後、エカチェリーナ2世の時代には何度も使節団の派遣が話題に上がりますが、寛政8年10月18日(1796年11月17日)にエカチェリーナ2世が逝去し、話が流れてしまいました。

結局ロシアの訪日使節団がやってくるのは約12年後でした。文化元年(1804年)9月、ロシア帝国の正式な外交使節団として外交官のニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフが長崎を訪れたのです。

レザノフは信牌とともに長崎の出島を訪問し、通商関係を樹立するよう幕府に求めました。ロシア側としては「まさか断わることはないよね?」と考えていたようですが、幕府は通商を拒絶し、アレクサンドル1世からの親書も受け取り拒否します。幕府の担当者は老中の土井利厚でしたが、通商拒絶派でした。

結局レザノフは長崎の上陸を得るまでに2か月、さらに幕府の役人との会談に半年を費やさなければなりませんでした。さらに、通商交渉は失敗に終わり、信牌も取り上げられました。

こうしたレザノフに対する礼を失した行動は、文化3年(1806年)から翌年にかけて起こった樺太・択捉への襲撃、いわゆる「文化露寇(ぶんかろこう)」、別名フヴォストフ事件でにつながっていくのです。

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栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。