佐竹義重鬼義重
佐竹義重
平安時代の終わりから常陸国(現在の茨城県)に1つの大名がいました、佐竹家です。戦国時代、この佐竹家の当主に就いたのが佐竹義重でした。義重は南の北条氏政や北の伊達政宗と争いながら常陸国を統一していきます。ところが関ヶ原の戦いで佐竹家は常陸国から出羽国へと国替えを命じられました。今回は「鬼義重」とも呼ばれた知勇兼備の大名、佐竹義重について見ていきたいと思います。
義重の生まれた佐竹家
佐竹義重を輩出した佐竹氏。
佐竹氏は平安時代、清和源氏の源義業が常陸国(現在の茨城県)久慈郡佐竹郷に土着し、始まります。
源義業の長男である昌義は「源」から「佐竹」へ姓を改め佐竹昌義と名乗り、これが佐竹氏の祖となりました。平安時代の終わり、源平の戦いでは平家に属して源頼朝に抵抗し勢力を落とします。
鎌倉時代が終り南北朝時代に入ると足利氏について北朝方に属し常陸国守護職に任じられ北関東に一定の勢力を誇りました。この佐竹氏に義重は生まれます。
家督相続
佐竹義重は天文16年(1547)、常陸国の佐竹義昭の子として生まれます。幼名は徳寿丸。
義重が生まれた頃に父の義昭は佐竹家の家督を継ぎ、佐竹家内部の内紛を鎮め常陸国北部を勢力下に置きます。戦国時代中期、常陸国は北部の佐竹家、常陸国水戸城主を中心とした中部の江戸家、常陸国筑波郡(現在の茨城県つくば市)を中心とした南部の小田家とに分かれていました。
永禄7年(1564)越後国(現在の新潟県)の上杉謙信と佐竹義昭は小田城の戦いで小田家を敗走させており、佐竹家は勢いがありました。ところが永禄8年(1565)佐竹義昭が亡くなり、義重が家督を継ぎます。代替わりをして佐竹家の勢力拡大は一時頓挫しました。
勢力の拡大と金山開発
父佐竹義昭が亡くなり当主となった佐竹義重。
義重は父の代から連携していた上杉謙信との関係を強めます。こうして外交上の安定を図りながら常陸国南部の小田氏へ侵攻し大半の領土を奪い取りました。
さらに隣国の下野国(現在の栃木県)へも攻め、支配地域を拡大していきます。
ところで佐竹義重はその生涯において戦いに次ぐ戦いを繰り返しました。これだけ軍事行動を行うと費用もかさみます。この費用を賄ったのが金山開発でした。
16世紀に入ると佐竹家は金山の開発を積極的に行い、現在の日立市、常陸太田市、常陸大宮市、大子町、水戸市などに坑道があったといわれており、特に有名だったのが栃原金山(とちはらきんざん)でした。
この常陸国の金山は豊臣秀吉の時代になると豊臣政権の直轄とされたうえで、佐竹家に管理を委託されます。慶長3年(1598)の豊臣氏蔵納目録には,全国から上納された金3397枚のうち221枚7両3朱が佐竹家から献上され、上杉氏,伊達氏についで多かったそうです。
江戸時代に入ると佐竹家は常陸国から出羽秋田郷へ国替えを命じられますが、徳川家に接収される事を恐れた佐竹家は坑道を塞ぎ佐竹家の移転とともにその役を終えました。
佐竹義重は最新の治金を導入する事で金を採掘し関東一と言われる鉄砲隊を備えたり、外交を行う資金として活用しました。
北条氏政との抗争
佐竹義重は着々と常陸国とその周辺を攻略していきます。
ところで関東は相模国の北条氏政が勢力を広げ、佐竹などの関東諸勢力は北条家と対立しました。
佐竹義重は周辺の勢力と婚姻関係を結び、結束を強めます。更に中央の羽柴(豊臣)秀吉と関係を築くなど優位に立とうとしました。
この佐竹を中心とした北関東の大名に対し北条家は、会津蘆名家など佐竹家の北側の大名と同盟を結び対抗しました。
1570年代の北関東は佐竹家を中心とした同盟勢力と北条家を中心とした北条、蘆名などの勢力が抗争を繰り返しました。佐竹義重は度々北条家との合戦に望み、愛刀の「八文字長義」で北条家の侍を真二つにし、7人を一瞬で斬り伏せるなど勇猛に戦い「鬼義重」「坂東太郎(東国にある日本一の大河という利根川の別称)」と勇名を轟かせました。
ところが天正8年(1580)の頃から抗争の中心が変わります。この年、蘆名家の当主蘆名盛氏が亡くなります。盛氏の嫡男、蘆名盛興はそれより早く亡くなっており後を継ぐ者がいませんでした。そこで養子を取り当主に据えます、蘆名盛隆です。盛隆が蘆名家当主になると方針も変わり、佐竹義重は蘆名家居城の黒川城を訪れ同盟を結びます。
こうして北の蘆名、南の北条に挟まれていた佐竹家でしたが北の脅威が無くなりました。ですが蘆名家の混乱はまだ続き、周辺の奥州、北関東の大名を巻き込みます。
伊達政宗との抗争
蘆名盛隆が当主となった4年後、盛隆が家臣によって暗殺されます。後を継いだのは盛隆の嫡男、生後1ヶ月の亀王丸でした。佐竹義重はこの亀王丸を支持します。
ところが亀王丸は3歳で疱瘡(天然痘)により夭折します。3歳の当主が亡くなった事により、再び当主不在となりました。
そこで蘆名家当主の座を巡り、伊達政宗が推す政宗の弟伊達小次郎、佐竹義重の推す義重次男の佐竹義広を当主にするかで家臣が二つに割れました。結果、親佐竹派が勝ち蘆名家当主は佐竹義広(蘆名義広)となります。ここで佐竹義重と伊達政宗の対立が深くなり、抗争を繰り返しました。
豊臣秀吉への臣従と常陸国統一
天正17年(1589)、佐竹義重の次男で養子に行った蘆名義広は摺上原の戦いにおいて伊達政宗に大敗します。この戦いで東北の有力大名の一つであった会津蘆名家は内部崩壊、事実上滅亡します。これを見た諸勢力は佐竹家を見限り、伊達家の側に鞍替えしました。
北は伊達政宗、南は北条氏政、氏直親子に挟まれ佐竹家は窮地に追い込まれます。
この年、佐竹義重は実権を握ったまま義重嫡男の佐竹義宣に家督を譲りました。ところが翌年、佐竹義重は大攻勢に出ます。
天正18年(1590)、以前より関係をもっていた豊臣秀吉が関東北条家を攻めます(小田原征伐)。佐竹義重は義宣とともに参陣し、石田三成の忍城攻めに参加しました。その後、秀吉の奥州仕置にも従った事から常陸国統一のお墨付きを得ます。常陸国中部を支配していた江戸重通を始め、武力と謀略で次々と常陸国の国人領主(小領主)たちを排除していき常陸54万石を統一しました。
関ヶ原の戦いと出羽国移封
慶長2年(1597)10月の話です。
佐竹家の与力大名であり佐竹義重の妹が嫁いだ宇都宮家が豊臣家により取り潰されます。宇都宮家の主人筋であった佐竹家も処分の可能性がありましたが石田三成の取りなしで難を逃れました。佐竹家当主であった義宣は石田三成との結びつきを強くします。
慶長3年(1597)、豊臣秀吉が死去し徳川家康と石田三成との確執が深くなっていきました。
慶長5年(1600)5月、徳川家康は会津の上杉景勝征伐を決めます(会津征伐)。佐竹家は関東常陸国を領していたので徳川家に従いました。
ところが7月、関東に到着した徳川家康を見て大坂で石田三成が反徳川を目的に立ち上がります。当主の義宣は石田三成と親しかった事から石田方に付くつもりでした。義宣は独断で上杉家と密命を結びます。しかし隠居していた佐竹義重は時流を見て徳川方に付く事を主張します。家中の多くも徳川方に付く事を主張したため意見を統一できず、佐竹家は徳川、石田の双方に付かず動きませんでした。
こうして戦いに参加しないまま関ヶ原の戦いは徳川家の勝利、戦い直後から佐竹義重は徳川家に戦勝の祝いを出し、参加しなかった事への謝罪を送るなど徳川家との融和を図ります。ですが当主の義宣は1年以上常陸国を動かず、慶長7年(1602)4月にようやく上洛し徳川家康に謝罪しました。
5月、佐竹家は常陸国から出羽国久保田へ領地替えを命じられます、54万石から20万石への減封でした。
不慮の死とその後の佐竹家
慶長7年(1602)佐竹家は常陸国から出羽国秋田郡(後の久保田藩)へ国替えを命じられました。
新領地では旧領主の家臣達が反乱を起こす気配を見せていたので、当主であった佐竹義宣は土崎湊城へ入城し所領の北側を、隠居をしていた佐竹義重は六郷城へ入り所領の南側を統治します。
ところで大幅に領地を減らされ転封した佐竹家。佐竹家では国替えになるタイミングから相当の覚悟を持っていました。義宣は家老の和田昭為へ出した手紙の中で、譜代の家臣は以前のような扶持(給料)を与えられないこと、常陸国から出羽国へ移る時には100石以下の給人は新領地へ連れていけないことを述べています。更に家老の代替わりの際に新たな家臣であった渋江政光を家老に登用しようとすると譜代の家臣達は憤慨しました。憤慨した家臣達は渋江政光、そして当主の佐竹義宣を暗殺しようと企てます。ところが企みは露見し計画に参加していた譜代の家臣達は粛清されました。佐竹義重は一部の家臣達を嘆願し、なんとか事を丸く修めようと試みました。(川井事件)
こうしてどうにか新領地での統治を行っていた佐竹義重でしたが慶長17年(1612)4月19日、狩猟中に落馬し亡くなりました。享年66。
佐竹義重は常陸国で生まれ、東北の伊達政宗や関東の北条氏政などと覇権を争いました。隠居後には関ヶ原の戦いに巻き込まれ出羽国へ国替えとなりましたが、手堅い統治を行い出羽国久保田藩の礎を築きました。
佐竹家はこの後も出羽国を統治し明治を迎えることになります。
大久保鹿島神社の流鏑馬
茨城県日立市にある大久保鹿島神社では古くから旧暦の9月29日(現在は10月29日)に流鏑馬神事が行われています。
鹿島神社は佐竹氏の信仰が篤く、佐竹義重の時代に居城太田城北の守りとされ、流鏑馬神事を奉納したとされます。最古の記録では天正12年(1584)ですから400年以上続いている神事です。
当日は流鏑馬を行う八幡太郎(河内源治の祖、源義家の別称)の前を子供武者が歩き、更に法螺貝を吹く役が前を先導します。八幡太郎は河原子海岸で潮垢離(海水で清める)を行い、次に下孫鹿嶋神社でお祓いを受けた後に、流鏑馬を行います。流鏑馬に使用される馬は以前には農耕馬を使用していましたが、現在では乗馬クラブの馬を使用し馬を走らせず馬上から確実に当てるスタイルです。
古くから伝わる神事を行い、恵みの秋を感じる一日となっています。
太田城(おおたじょう)
太田城は茨城県常陸太田市にあった日本の城で、「関東七名城」の1つとされます。平安時代、藤原秀郷の子孫である藤原通延が築城したのが始まりと言われています。
ところが佐竹氏の2代当主であった佐竹隆義が太田城主藤原通盛を屈服させ太田城を奪います。佐竹隆義が太田城に入城する日、鶴が城の空を舞ったことから別名「舞鶴城」とも呼ばれるようになりました。そこから470年間、太田城は北関東の雄であった佐竹家の居城となりました。
佐竹義重の子、佐竹義宣は太田城から水戸城へ居城を移し、関ヶ原の戦いの後に秋田へ転封となります。その後、水戸徳川家が興ると一国一城令もあり太田城は廃城となりましたが一部が残され「太田御殿」と名が代わり、水戸藩の附家老の中山氏が管理しました。
明治時代に入り国から町の有氏に払い下げられ土塁を崩し、堀を埋め宅地となりました。
太田城の本郭は現在の太田小学校一帯,二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯,三の郭は栄町の大半で,太田城の名残として若宮八幡宮の境内に「太田故城碑」が建てられています。
通庵佐竹公館址碑(つうあんさたけこうかんしひ)
佐竹義重終焉の地、六郷城本丸跡には義重を偲んで顕彰の碑が建てられています。明治の中盤に六郷城本丸跡に石碑を建てる計画が始まり、明治終りに碑の内容が作成されました。そして明治44年(1911)9月19日に義重没後300年の祭りが行われ、大正7年に碑は建てられました。この石碑の裏面には義重の半生が書かれていますが、後半に以下のようにあり要約すると以下のようになります。
「義重は、六郷村が肥沃、水も清らかであるのを気に入り隠居の地とした。ところが武器・兵員が備わっていないうちに、旧領主の残党が土民一揆を扇動して襲いかかってきた。突然だったので容易に防御しきれないが、領民と僧侶が先を競って立ち上がり奮戦してこれを敗走させた。義重が領民や忠実な家来を大切にしていたからである。今(明治期)から三百年も昔のことというのに、村民の追慕は衰えず碑を建てることにした」
如何に佐竹義重が隠居後も善政を行ったかが分かる一例です。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。