松平忠明生い立ちや功績・生涯について解説

松平忠明

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人物記
名前
松平忠明(1583年〜1644年)
出生地
愛知県
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現在では有名な観光地として親しまれている大阪府の城や橋・町などの建設に携わった、「松平忠明」という人物がいます。松平忠明は数々の功績を残している関西地方では有名な人物の一人です。市街地の拡大や今では有名な観光地の建設にも尽力した方であり、今回はこの人物にについて紹介していきます。

松平忠明はいつ生まれたのか。 出生当時からの名前の変化も紹介

松平忠明は天正11年(1583年)に生まれました。時代でいうと安土桃山時代にあたります。松平という名前ですが、徳川家の家系で生まれており、皆さんがご存じの徳川家康の外孫にあたります。また、お母さんは徳川家康の娘である亀姫であり、家康から少し家系をたどるだけで見つけることができます。

松平忠明が「松平」という苗字になったのは、5歳の時でした。それまでは徳川家康の家系のため、「徳川」という苗字だったのですが、家康の養子になったのと同時に「松平」という苗字になりました。また、その当時の下の名前は「清匡(きよただ)」といい、小さい頃は「松平清匡(まつだいらきよただ)」という名前で過ごしました。

現在と同じ松平忠明になったのは16歳の頃で17歳には関ヶ原の戦いに参加

松平清匡少年が今回紹介している「松平忠明」になったのは、16歳の頃です。理由は、おじいさんであった徳川秀忠からとったとされており、そのころから死ぬまでは「松平忠明」という名前で過ごすことになります。現代風に説明すると、おじいさんの名前を「リスペクト」して自分の名前にしたということになります。

名を松平忠明に変更した松平少年は、17歳であの有名な「関ヶ原の戦い」に参加することになります。参加といっても生死をかけた戦いに17歳の男子が挑んでいるのです。無事生き残ることができたようですが、現在でいうと男子高校生が命を懸けて戦争をしているようなことになりますから、どれだけ凄いことかわかるはずです。

18歳で藩主になり、大阪夏の陣で圧倒的な勝利を飾る

関ヶ原の戦いを無事生き延びた松平忠明は、18歳で三河藩の藩主になります。これが慶長7年(1602年)9月のことであり、後の大阪冬の陣での活躍につながる大きな決断・任命となりました。当時の藩主は非常に重要な役職であり、現在における市長以上のような重鎮に当てはまります。若くして藩主の座についた松平忠明ですが、そこにはこれまでに積み上げてきた信頼と、数々の戦いで活躍するほどの実力が評価された証といえます。

慶長19年(1614年)からは、大坂冬の陣がありました。この戦いには、美濃軍が参加しており、武士たちを率いていたのは松平忠明の兄・忠政でした。しかし、この松平忠政は大坂冬の陣が始まる前に病気で亡くなってしまいます。本来であれば、松平忠明のお父さんが指揮を執ることになるのですが、理由は不明ですが父が変わって指揮を執ることはありませんでした。

そこで、代わりの武士たちのまとめ役を任されたのが、松平忠明です。ただ、この戦いにはもともと松平忠明の藩も参戦予定であり、松平忠明は指揮官がいなくなった美濃軍の武士たちのみをそのまま預かることになったのです。大坂冬の陣の様子を見ると、松平忠明が率いる動員兵力が伊勢亀山と比較して圧倒的に多いことが分かります。そして無事に戦い抜き、莫大な人数をまとめあげたのです。

大阪城の城主になったこともあり、城の堀を建設した

松平忠明は大阪城の城主になったこともあります。家康に功績を認められ、任命されたのです。しかし、松平忠明が大阪城の城主をしているさなかの1616年に、徳川家康が亡くなってしまいます。家康が亡くなった年齢は75歳で、当時としてはかなりの高齢まで生きていたことが分かります。

大坂冬の陣・大坂夏の陣での戦いが家康に評価された松平忠明は、大阪城周辺の地域で働くことができるようになります。松平忠明は大阪城の内・外堀の埋め立てを家康に任せられ、現在の大阪城につながる仕事をしていたのです。また、大坂の陣以降には戦災復興にも尽力しました。

大阪城の堀などの建設に関わり、家康からも厚い信頼を得ていた松平忠明ですが、現在も大阪城で見ることができます。大阪城は、鉄筋コンクリートで立て直されていますが、松平忠明を見ることができるのは、その天守になります。天守へ向かうと、松平忠明の肖像画が飾ってあり、私たちでも姿を見ることができます。ぜひ、インターネットだけでなく、実際に足を運んで確認してみて下さいね。

松平忠明は非常に几帳面な性格だった

松平忠明はまれにみるほどの真面目な性格であったことが報告されています。当時は参勤交代というものが存在しており、松平忠明の場合は、3年に一度必ず江戸へ足を運ばなければいけないことが決まっていました。ただ、藩主程の人間になると、その土地を治めているということもあり、必ず参加しなければいけないという事はありません。「なるべく参加してください」くらいのニュアンスだったそうですが、松平忠明は3年に一度必ず参勤に参加していたそうです。このようにかなりまじめな性格であり、ゆえに家康からも認められ、信頼を獲得していたのかもしれませんね。

親族のために福島県に寺院を建設した

松平忠明は兄である松平家治のために福島県の郡山へ移り住んでいたことがあります。1619年には桃林寺を建て、祖父である奥平貞能のために大蔵寺、奥平家のスタートである大平貞俊のために龍源寺を作りました。いずれも、親族を守るために建てたとされており、人目につきにくいところに建設したとされています。現在では、桃林寺と大蔵寺という寺が福島県にはありますが、これらは当時の建造物を場所を移して再建・再現したものとなっています。

今では有名な観光地である「道頓堀」は松平忠明が作った

「道頓堀(どうとんぼり)」という言葉はたくさんの方が効いたことがあるかと思います。道頓堀は、大阪府大阪市中央区にある繁華街や、道頓堀川と呼ばれる川の名前です。グリコの大きな看板が掲げられている画像・映像を目にしたことがあるという方も多いのではないでしょうか?かに道楽・大阪王将・その他大企業の飲食店などが立ち並ぶ、激戦区であり毎日たくさんの人でにぎわっています。

道頓堀川を屋形船が通ることもあり、年末年始やイベントごとが行われた後には、若者が飛び込んでしまい他人に心配をかけることもある、あの川です。

実は、この道頓堀を作ったのが、松平忠明と言われています。
当時、市街地の発展には、堀川(人工的に作った川)が必要であると考えられていました。車などの発明品が世に出回っていない時期であったため、水の流れを利用した水運が物流には最適であったからです。松平忠明は家康から絶大な信頼を得ていたため、大阪城周辺市街地の発展を任されていました。そこで行われた、発展工事の中に「道頓堀の建設」があったということです。

当時、松平忠明はこの堀川の建設を「安井道頓(やすい・どうとん)」という人物に命令し、任せていました。つまり、家康からの命令を受け作ったのは松平忠明ということになっていますが、実際に身体を動かして建設していたのは安井道頓ということです。

安井道頓は、この堀川を建設している途中に「大阪夏の陣」で戦死してしまいます。その後は、弟にあたる安井道卜(やすい・どうぼく)が松平忠明に命令を受け、建設を引き継ぎます。
そして、ついに完成したのは3年後の1615年になります。この際、最初に堀川の建設に着手し、作業員たちを指揮しながら尽力した安井道頓の功績を後世まで残すことを目的に「道頓さんが作った堀」ということで「道頓堀」という名前が付いたのです。

ただ、1つ不思議なのは、「安井道頓・道卜は豊臣側の人間であった」ということです。知っている方もいるかもしれませんが、当時松平忠明がいる徳川軍と豊臣秀吉で有名な豊臣軍は対立していました。
普通であれば、豊臣軍の人間にひいきをするようなことは無いのですが、松平忠明は安井らの名前を利用して道頓堀と名付けたのです。

安井らが相当な技術者であったゆえに、着工を指示して工事を行わせたのかもしれませんが、最終的な名称まで相手側に有利な形を選択するというのは、当時では非常に珍しいことです。(豊臣側である安井らの名前がついてしまうと、周辺住民も豊臣側へ流れてしまう可能性があるからです)
このあたりから、松平忠明の人間性の良さや他人を尊重する気持ちが見て取れますね。

道路の建設にも尽力した

松平忠明が市街地の発展を任されていたことは前述しましたが、そのために行ったのは道頓堀を作ったことだけではありません。松平忠明は道頓堀建設中に起きた「大阪夏の陣」で被災した町の復興にも力を入れていました。
その一環として、道路の建設があります。現在の大阪市内を南北に走る道路を「筋(すじ)」東西にのびる道路を「通り(とおり)」と命名し、新しい交通の道を作成したのです。この命名や道筋には「風水」の考え方が用いられており、方角によって様々な呼び方がありますが、現在でも利用されている道路の呼び方も沢山存在しています。
自分が発展を進めていた町が大坂夏の陣に遭い、悲惨な目に遭ったにもかかわらず、手を抜くことなく発展に注力したことが、現在の私達の生活にまで影響を及ぼしているのです。

心斎橋をかけたのも松平忠明

現在でも利用されている心斎橋を建設したのも松平忠明です。現在では繁華街の総称として呼ばれるのが一般的となりましたが、当時は実際に橋がかかっていました。もともと、長堀川という川にかかっていた橋が心斎橋であり、この川も道頓堀を作る際に一緒に作られたものです。
当時は川を挟んで居住地域が分断されており、橋の数が異常に少なかったため、交通の要衝として心斎橋が建設されました。当時は木で作られていたため、かなりの維持費がかかっており、多額の資金が利用されていたとされています。たくさんの人が利用するため、痛みも非常に早く火災・洪水などの被害があったことも報告されています。

現在でも「心斎橋筋」と呼ばれる商店街が残っており、「筋(すじ)」という呼び方は松平忠明が作った道路の呼び方に依存したものとなっています。
「心斎橋」という呼び方は、たくさんの大企業が支店名にしており、今もなお利用されている名称となっています。(三菱UFJ銀行西心斎橋支店・大阪心斎橋郵便局・ユナイテッドアローズ心斎橋店・東急ハンズ心斎橋店・シャネル大丸心斎橋店・ルイ・ヴィトン大阪心斎橋店など)

大阪町民からの信頼も非常に厚かった

大阪夏の陣で町全体が被害を受けた後には、たくさんの町民たちが松平忠明に助けを求めました。そこで、松平忠明は寺院の建設やお墓の建設にも取り掛かり、戦災で苦しんでいた町民たちの願いにこたえようと尽力したことが分かっています。このように松平忠明は一般町民からの信頼も厚く、ただ単に「仕切っている藩主」というわけではなかったようです。藩主に任命された際の11か条の書物の影響があるのかもしれませんし、その通り誰にでも誠心誠意対応していたことが分かります。

まとめ
今回は、松平忠明という人物についてご紹介しました。松平忠明は現在では有名になった「道頓堀」の建設や、大阪城をはじめとした大阪周辺の開拓・発展に大きくかかわった人物で、家康からの信頼も厚くたくさんの功績を残してきました。町民から慕われるほどの素晴らしい人間性・たくさんの武士たちをまとめるリーダーシップを発揮し、歴史に残る偉業を成し遂げたのです。ぜひ、関西を訪れる際には松平忠明がかかわったことも忘れずに観光・生活してみて下さいね。
関係する事件
中村砂織
執筆者 (ライター) 北海道在住のライター。普段はサービス業で勤務しながら空いた時間や休みの日に執筆を行っている。旅・グルメジャンルを中心にWEB・紙問わず活動中。大学時代に培ってきた中国語を活かし、中国語でのライティングも担当。 学生時代得意だった歴史に関する記事案件に携わっていきたいと思い、歴史記事媒体を探し中。高校受験時の北海道学力コンクールでは社会科上位100位以上ににはいるほど。