織田信忠(2/2)父信長を追って散った跡取り

織田信忠

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人物記
名前
織田信忠(1557年〜1582年)
出生地
愛知県
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岐阜城

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信忠は信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲したことを知ると、本能寺へ救援に向かいますが、父・信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、京都所司代の村井貞勝や重臣斎藤利治ら側近と共に東宮・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動しました。信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともにそのままそこで籠城します。

しかし、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、織田信忠は敵兵の数の多さに勝ち目がないと思い、その場で自刃した。享年26。この時、介錯は鎌田新介が務め、信忠は「二条御所の縁の板を剥がして自らの遺骸を隠すように」と命じたと伝わっています。

京洛中にいたものの、本能寺に入るには間に合わず、二条新御所に駆け付けた福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らが斎藤利治を中心に明智勢と戦いますが、信忠自害後に斎藤利治が「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違えて討死(忠死)しています。

その後、父同様、信忠のその首が明智軍は血眼になって探しましたが、ついに発見されることはありませんでした。

二条新御所での籠城時の具体的な戦闘内容について、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によればと自ら剣をふるい敵の兵を斬ったとされています。この時、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がいて、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していたといいます。その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたと伝わります。この信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したと言われています。

この時、信忠は武田家滅亡後に八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれています。既に旅中にあったとされるが、再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行いました。一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもあります。

この時、信忠が本能寺で父・信長が自害したことを知った際にすぐ京都を脱出していれば天下は信忠によって統一された可能性も考えられ、なぜ二条新御所に籠って戦ったのかはわかりません。ただ、この信忠の判断が後の清洲会議につながり、豊臣秀吉による天下統一へと時代が転換したきっかけであると言えます。

その後の織田家

父・織田信長と嫡男の織田信忠亡き後、織田家の後継者問題は、信長の次男・織田信雄と三男・織田信孝が互いに後継者の地位を主張し引きませんでした。豊臣秀吉がその隙をついて勝家・秀吉ら宿老たちが事前に信長の嫡孫である三法師を御名代とすることで双方が了解したのです。

勝家も秀吉の弔い合戦の功績に対抗できなかったと言われています。『多聞院日記』にも「大旨は羽柴のままの様になった」と記されています。いっぽう『川角太閤記』では、秀吉が三法師を擁立し、柴田勝家が信孝を後継者に推して対立、秀吉が席を立ち、残された3人での話し合いで勝家も矛を収めて三法師の家督擁立が決まったとする話もあります。

4日後、4重臣が対面することになりますが、その間に秀吉が玩具で三法師を手なずけ、対面の場に三法師を抱いて秀吉が現れ、それに3重臣が平伏する形となったと記しされています。

結果として三法師が織田家家督を継ぎ、叔父の織田信雄と信孝が後見人に、傅役として堀秀政が付き、これを執権として羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4重臣が補佐する体制ができました。この体制に協力する形で徳川家康も参加しています。

織田信忠の墓所

幾つかありますが、その中で公式墓所とされているのは阿弥陀寺 (京都市上京区)です。天正10年(1582)6月2日に信長が本能寺の変で自害すると、住職の清玉は自ら合戦中の本能寺に赴いて信長の遺灰を持ち帰り、墓を築いたとされています。後に織田信忠の遺骨も二条新御所より拾い集め、信長の墓の横にその墓を作ったと言われています。さらに本能寺の変によって討死した名の分からぬ多数の犠牲者も当寺に葬って供養しています。

天正13年(1585)に豊臣秀吉の京都改造により現在地に移転。延宝3年(1675)11月25日に火災にあい、信長の木像、武具・道具類などの遺物が焼失した。焼け残ったものは大雲院に移されたが、同院でも再び火災にあって今ではほとんど残っていません。

美作国津山藩の4代藩主森長成は毎年6月2日に法要をし、信長公百年忌も執り行ったといいますが、森家の改易後は御茶湯料の寄進はなくなりました。1917年(大正6年)に天皇家より勅使が来訪し、当寺の信長の墓は「織田信長公本廟」として公認されました。

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葉月 智世
執筆者 (ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。
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